三十-2
真理子が出て行くと、私はベッドサイドの電話機を取って、夏美の実家に電話をかけた。あいにく、義母が出た。私はすぐに電話を切った。少し待って、またかけた。また、義母が出た。また、すぐに電話を切った。
電話機をサイドテーブルに戻そうとしたが、もう一度、かけてみようと思った。
今度は長くコール音が続いた。受話器がとられた。
しばらく沈黙が続いた。その後で、「いたずら電話ならやめんかい」という義父の声が聞こえてきた。私は受話器を置こうとした。そのとき受話器の向こうから「待って」と言う夏美の声が聞こえてきた。私は置こうとしていた受話器を再び耳に当てた。
「あなたね。あなたなのね」
夏美は必死にそう言った。前は何も話さなかったが、今度はそうはいかなかった。伝えなければならない事があったからだ。
私は緊張していた。少し心を落ち着かせてから、やはり潰れたような声で「そうだ」と言った。私の呻くような声を聞いて、「やっぱり、あなたね。声が変わっていてもあなただとわかるわ」と夏美は言った。
私は自分に落ち着けと心の中で言った。何を話していいのか分からなかったのだ。
だが、その時、昨夜、考えた事を思い出していた。私はゆっくり「パソコン通信ができるか」と言った。
「パソコン通信?」
夏美は、突然難しい事を言われたので、私の言葉を繰り返すしかなかった。
私はもう一度「そうだ、パソコン通信だ」と言った。
「パソコン通信って言っているのはわかるけれど、それをどうするの」
「パソコン通信を知らないのか」
「そんな事、急に言われてもわからないわ」
「パソコン通信ができるようにして欲しい」
「どうすればいいの」
「まず、パソコンがいる」と言った。
「パソコンが必要なのね」
「そうだ」
「わかったわ」
「それにモデムがいる」
「モデム」
「そうだ」
「ちょっと待ってね、メモを取るから」
夏美はメモ帳とペンを探しているようだった。しばらくして「いいわよ、続けて」と言った。
私はもう一度、「パソコンとモデム」と言った。これを夏美はメモしているのだろう。
「それに電話線ケーブルがいる」
「書いたわ。でもこれをどうしたらいいの」
「電気屋に頼め」
「そうよね。電気屋さんにお願いすればパソコン通信できるようにしてくれるわよね」
「そうだ」
「でも、機械が揃ってもどうしたらパソコン通信できるの」
そうだった。これでは肝心な事がわからないではないか。第一、パソコン通信するためのソフトがいる。今までは(株)TKシステムズが独自で作ったものがあり、もっぱらそれを使っていた。しかし、(株)TKシステムズが倒産した今、(株)TKシステムズで作ったソフトを新たに購入する事はできないだろう。とすれば、今売られているパソコン通信ソフトを使うしかない。使った事はないが、経験上、それぞれのソフトには設定の仕方にそれぞれに特徴がある。自分で使ってみて、試すしかない。そして、それを夏美に伝えるのだ。しかし、これは電話でできる事ではなかった。
「手紙を出す」
「手紙? 手紙を出すって言っているの」
「そうだ」
「わかったわ。手紙が来るのを待っていればいいのね」
パソコン通信の仕方を書いた手紙と、通信ソフトを送れば、夏美でもパソコン通信できるようになるだろう。
「そう、手紙に必要な事を書いて送るから、手紙が来るのを待て」
「わかったわ。待つわ」
何とかパソコン通信の事は伝える事ができた。
そうなると、今の夏美や祐一の事が気になりだした。
「元気にしているか」
夏美も私の話し方に慣れてきたようだった。もう、繰り返さずに「ええ、元気にしているわ」と言ってきた。
「良かった」
「心配しないでもいいわ。わたしたちは元気にしているから。でも、あなたはどう。あなたの事が心配よ」
「心配しなくてもいい」
「そんなの無理よ。あなたの声を聞いていると、苦しそうだもの」
「声帯を痛めたので、こんな声しか出せない」
「生体をどうかしたの。躰のどこかを痛くしたの」
声帯を夏美は生体と受け取った。私は言い方が悪かったと反省した。
「喉を痛めたのだ」
「喉を痛めたのね。そうか、さっきは声帯って言っていたのね」
「そう。だから、上手く話せない」
「そうか、喉を痛めたので、あまり良くはしゃべれないのね。今、あなたはどこにいるの」
「病院」
「病院にいるの。病院から電話をかけているのね」
「そう」
「だったら、わたし、行くわ。どこの病院なの。教えて」
教えたくても教えられなかった。
「教えられない」
「どうしてなの。わたしはあなたの妻なのよ。妻にも教えられないの」
「そう。どうしても教えられない」
「ねぇ。わたしがどれほど心配しているか、わかる」
夏美は電話の向こうで泣いていた。
「…………」
「何があったか知らないけれど、あなたの事、忘れた事は一度もないのよ。あなたがいなくなってから一度もよ。あなたに会いたい。どこか教えて。どんなに遠くても、すぐに行くから。ねぇ、お願い。お願いよ」
私は涙が出てきた。夏美の最後の言葉は悲痛な叫びのように聞こえた。これ以上、話していると、心がはち切れそうにいっぱいになり、破裂しそうだった。
私は受話器を置いた。そして、泣いた。最初は静かに、やがて号泣した。