二
二ヶ月と十日ほど経とうとしていた頃だったろうか、午後四時頃に突然、居間の電話が鳴った。
夏美は庭にいて洗濯物を取り込んでいた。
夏美は洗濯物を縁側に置くと、居間に駆け上がり、受話器を取り上げた。高瀬からの電話だと思ったのだ。
「もしもし、川村です」
川村は、夏美の旧姓だった。
「…………」
「どちら様ですか」と夏美は訊いた。
相手は何も言わなかった。
夏美は耳を澄ました。しばらくすると、受話器からは微かに嗚咽するような音を聞いた。
夏美は「あなたなの」と訊いた。
相手は黙ったままだった。
「あなたなのね」と夏美は言った。
「…………」
「心配したのよ」
「…………」
「もし、あなただったら……、話せないのだったら……、うん、でも、ああ、でもいいから、何か言って……」
夏美は何とか、高瀬の声が聞きたかった。
だが、やはり高瀬は何も言わなかった。
「やっぱり、あなたなのね。今は、話せないのね」と夏美は言った。
「…………」
「だったら、聞いてね」
「…………」
「会社は倒産したけれど、わたしたちは大丈夫よ。こうして実家に戻って元気に暮らしている。祐一もこっちの学校に通っているわ」
「…………」
「捜索願を出したので、警察があなたのことを捜してくれているわ」
「…………」
「あなたが生きていてよかった」
「…………」
「刑事からあなたの車が茅野で見つかったと聞いたわ。どうしてそんな所から……って思ったの。だって、茅野なんて行ったこともないし……。刑事さんが言うにはね、茅野は蓼科への入口のような所なんですって」
「…………」
「だから、悪い想像ばかりしてしまったの。山で遭難したのだとか……」
「…………」
「でも、こうして電話してきてくれたんだから、生きているのよね。良かったぁ」
「…………」
「話せないのは、何か事情があるからなのね」
「…………」
「いいわ、何も言わなくて。どんな事情があるか知らないけれど、こうして電話をかけてきてくれるだけでいい」
そこまで夏美が話した時、突然、電話が切れた。
「もしもし」と夏美が叫ぶように言っても、「ツー、ツー」という音しか聞こえてこなかった。
何も話さなかったが、高瀬からの電話だと夏美は確信していた。電話の向こうの息づかい、嗚咽のような音、それら全てが高瀬であることを示しているように思えたのだった。
だが、何故、突然電話が切れたのかは、夏美にはわからなかった。
午前八時半過ぎに電話が鳴った。夏美は洗濯をしていた。電話には母が出たが、すぐ切れたようだった。また電話が鳴り、母が出るとまた切れた。
夏美はもしや高瀬からの電話かも知れないと思って、洗濯の手を止めて居間に行くと、今度は父が電話に出て、「いたずら電話ならやめんかい」と怒鳴っていた。そして、受話器を置こうとしていたので、夏美は「待って」と言って受話器を横からひったくるようにして、「あなたね。あなたなのね」と言った。
少しの間があった後で、「そうだ」としゃがれた声が聞こえてきた。
「やっぱり、あなたね。声が変わっていてもあなただとわかるわ」と夏美は言った。
受話器の向こう側からしゃがれた声で、高瀬はゆっくり「パソコン通信ができるか」と言ってきた。
「パソコン通信?」
夏美は、パソコン通信が何のことだか、わからなかったので、高瀬に訊き返すしかなかった。
高瀬はもう一度「そうだ、パソコン通信だ」と言った。
「パソコン通信って言っているのはわかるけれど、それをどうするの」
「パソコン通信を知らないのか」
「そんなこと、急に言われてもわからないわ」
「パソコン通信ができるようにして欲しい」
「どうすればいいの」
「まず、パソコンがいる」と言った。
「パソコンが必要なのね」
「そうだ」
「わかったわ」
「それにモデムがいる」
「モデム」
「そうだ」
「ちょっと待ってね、メモを取るから」
夏美はメモ帳とペンを探して、見つけると「いいわよ、続けて」と言った。
高瀬はもう一度、「パソコンとモデム」と言った。これを夏美はメモした。
「それに電話線ケーブルがいる」
「書いたわ。でもこれをどうしたらいいの」
「電気屋に頼め」
「そうよね。電気屋さんにお願いすればパソコン通信できるようにしてくれるわよね」
「そうだ」
「でも、機械が揃ってもどうしたらパソコン通信できるの」
「手紙を出す」
「手紙? 手紙を出すって言っているの」
「そうだ」
「わかったわ。手紙が来るのを待っていればいいのね」
「そう、手紙に必要なことを書いて送るから、手紙が来るのを待て」
「わかったわ。待つわ」
「元気にしているか」
夏美も高瀬の話し方に慣れてきて、もう繰り返さずに「ええ、元気にしているわ」と言った。
「良かった」
「心配しないでもいいわ。わたしたちは元気にしているから。でも、あなたはどう。あなたのことが心配よ」
「心配しなくてもいい」
「そんなの無理よ。あなたの声を聞いていると、苦しそうだもの」
「声帯を痛めたので、こんな声しか出せない」
「生体をどうかしたの。躰のどこかを痛くしたの」
夏美は、声帯を生体と誤解した。それがわかった高瀬は言い方を変えた。
「喉を痛めたのだ」
「喉を痛めたのね。そうか、さっきは声帯って言っていたのね」
「そう。だから、上手く話せない」
「そうか、喉を痛めたので、あまり良くはしゃべれないのね。今、あなたはどこにいるの」
「病院」
「病院にいるの。病院から電話をかけているのね」
「そう」
「だったら、わたし、行くわ。どこの病院なの。教えて」
「教えられない」
「どうしてなの。わたしはあなたの妻なのよ。妻にも教えられないの」
「そう。どうしても教えられない」
「ねぇ。わたしがどれほど心配しているか、わかる」
夏美は電話の前で泣いた。
「…………」
「何があったか知らないけれど、あなたのこと、忘れたことは一度もないのよ。あなたがいなくなってから一度もよ。あなたに会いたい。どこか教えて。どんなに遠くても、すぐに行くから。ねぇ、お願い。お願いよ」
夏美の最後の言葉は悲痛な叫びだった。しかし、それも虚しく電話は切れた。