小説「真理の微笑」

三十-3

 電話で夏美と話したい事は、まだいっぱいあった。
 辛くはないか。祐一はどうしている、学校には馴染んだか……。
 そんな言葉が、次から次へと頭に浮かんだ。だが、そんな話をすればするほど辛くなっていくだけだった。今も、そしてこれからも夏美に会う事ができないのだから。

 電話をサイドテーブルに置くと、そこからパソコン雑誌を二冊取った。パラパラとめくり、パソコン通信ソフトが載っているページを探した。
 パソコン通信ソフトは何種類か載っていた。しかし、(株)TKシステムズの頃は、自作していたから、気にもしていなかった。しかし、こうして雑誌で見ると、どれがいいのかまるで分からなかった。値段も低価格のものから高価格のものまである。普通のユーザーが使うのであれば低価格のもので十分だと思えた。仕様を見ただけでソフトの善し悪しは判断できなかった。こういったソフトは実際に使ってみなければ分からなかったのだ。
 それでも、これと思うものにボールペンで丸をつけた。

 午後になって真理子がやってきた。そしてキスをした。この甘美なキスの中に、夏美との会話で辛くなった気持ちを溶かしたかった。
 真理子は社員名簿を持ってきていた。印刷されたものではない。黒い硬い表紙に綴じ紐で閉じられたものだった。それに八十名ほどが載っていた。
 最初の方のページを開けると、社長以下役員の名前がずらりと並んでいた。
 代表取締役社長である私を筆頭に、専務、常務と続いた。専務はやはり高木だった。そして常務は田中だった。その後に真理子の名前があった。
 その他のページには総務部、営業部、開発部、販売宣伝部……と順にずらり並んでいた。それらは後で見る事にした。
「で、今日は、どうだった」
「別に何もないわ。あなたが決裁した書類を高木さんに渡してきただけ」と言った。
「そうか。会社移転の方は進んでいるようか」
「そうみたいよ。総務部が忙しそうにしていたわ」
 真理子はすっかりやる気をなくしたような言い方をした。
「真理子、頼みがあるんだが」
「なぁに」
「これなんだが」と言って、パソコン雑誌のあるページを見せた。そこには、丸をつけたパソコン通信ソフトが載っていた。
「丸がついているものの事」
「そう。それを買ってきてくれないか」
「いいけど……、今から?」
「うん」
「そんな、今来たばかりよ」
「そこを頼む」
「それにパソコンが届くのは、月曜日よ。それからでも遅くはないんじゃない」
「そこをなんとか」
 私は、上手く動かせない手で、両手を合わせた。
「まったく、仕方ないんだから」
 真理子はハンドバッグを持って出て行こうとした。
「ちょっと待って、忘れていた。二つ買ってきて欲しいんだ」
「一つでいいんじゃないの」
「中身をいじるからさ、二ついるんだ。それと新しいフロッピーディスクも買ってきて欲しい。十枚パックのやつ」
「わかったわ。それでもういい」
「ああ」
「じゃあ、行ってくるわね」
 真理子は出て行った。ソフトの中身をいじるのに、いつもなら二つはいらなかった。プロテクトを外して、コピーすれば済む事だった。しかし、今、(株)TKシステムズにいるわけじゃない。プロテクトを外すのにも、それなりのプログラムがいる。(株)TKシステムズにはそれがあったが、ここでそれを一から作るのは、無理だった。解析プログラムを作るのにも、それを作るためのプログラムが必要だった。
 二つ買ってこさせたのは、もちろん、もう一つを夏美に送るためだった。パソコンがなくても、マニュアルを読めば、設定の仕方は分かる。
 夏美の事だから、すぐにでも近くの電気店に電話しているか、行くかしているだろう。来週になれば向こうでもパソコン通信の環境は揃っているに違いなかった。