小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十八
 風車の躰の傷は、日を増すごとに良くなっていった。
 そして、食欲も出て来た。まだ風呂には、入れないので、僕が一日置きに、風呂を焚いた時の湯で、躰を拭いた。下の方は自分で拭いていた。着替えもその時に行った。
 こうして、半月ばかりが過ぎた。風車は床から起き上がるようになり、家の中だけでなく、庭も散歩するようになった。

 畑の野菜も実り始めた。
 茄子はまだ大きくならないうちに採り、味噌汁などに入れた。茄子はこれからどんどん採れるだろう。
 キュウリは真っ直ぐにはならなかった。どうしても曲がってしまった。でも、切ってしまえば同じことだった。
 三食ともキュウリが出て、味噌を付けて食べた。
 舟を使えば、両国より浅草の方が近かったので、これも一日置きに、僕が買物に出かけた。その時には、魚を買ってきて、焼いて食べた。
 そして、浅草に行ったときは、饅頭と羊羹も忘れずに買ってきた。どちらも、きくとききょうが好きだったからだ。もちろん、僕も好きだった。

 風車が風呂に入りたいと言い出した。躰を拭いているだけでは足りなかったのだろう。肋骨にひびが入っている場合に、風呂はどうなのか分からなかったが、本人が痛がらなければ、それに任せようと思った。
 躰を拭くときに見慣れているとはいえ、脱衣所で全身を晒した風車を見ると、やはり打撲の跡が数多く残っていた。腫れはひいていた。
 風車は久しぶりに頭を洗ったので、気持ちよさそうだった。
 僕が手を貸して風呂に入れた。顔を両手でこするようにして、「ああ、やはり風呂はいいですな」と言った。
「長湯は駄目ですよ」と言った。
「わかっています」と言って、風車はすぐに出た。
 風車の背中を拭いて、浴衣を着せると、「さっぱりとしました」と言った。
 僕は風車のすぐ後ろを歩いて、転ばないように注意した。風車の足取りはしっかりとしていた。
 風車は離れにはすぐに行かずに、奥座敷の縁側に座った。涼んでいたのだ。
 すると、すぐに蚊が寄ってきた。団扇で追い払っても、キリがなかった。
「今まで思いつきもしなかったが、明日にでも、浅草に行って蚊帳を買ってこようか」と呟いた。
 すると、それを聞きつけた風車が「そうですな。少し遅くはなりましたが、蚊帳がいる季節ですな」と言った。
「そうですね。いろいろあって、すっかり忘れていました。明日、買ってきます。もちろん、離れの分も買ってきますから」と僕は言った。
 風車は「そうして頂けるとありがたいです」と言った。
 蚊に結構、刺されたので、屋内に避難した。
 虫刺されのクスリでもあればいいのにと思ったが、まだ蚊取り線香もない時代のことだ。皆、苦労していたんだな、と思った。
 僕が居間に行こうとしたら、風車に袖を掴まれた。
「明日、浅草に行くんですよね」と言った。
「そうです。言ったでしょう。蚊帳を買いに行くんです」
「わかっています。だったら、お願いがあります」
「何ですか」
「鈴蘭というのが、店での名前ですが、おみねという娘に手紙を書きたいので、渡してくださいませんか」
「えっ」
「そのおみねがわたしが馴染みにしている女なんです」
「はぁ」
「もう、半月以上も吉原には足を運んではいません。どうしたのかと、心配していると思うんです」
 そうだろうか、と僕は思った。吉原の女だ。風車のことは、この半月程の間、すっかり忘れているのではないか。そう考えるのが普通だった。
 だが、風車は真剣だった。
「いいでしょう。どうせ、浅草に行くんだから、そのおみねさんに手紙を渡して来ましょう」
「ありがとうございます。すぐに書きます」

 次の日、舟に乗り対岸に渡ると、浅草を通り越して、吉原に向かった。吉原はいつ来ても、人で賑わっていた。
 前に、お金を届けに来ているので、店は知っていた。高木屋だった。すぐに見付けると、中に入った。女が出て来て、僕の顔を見て、前に金を届けに来た者だということを思い出したようだった。
「今日は、どんな用でしょうか」と初めから訊いた。
「この手紙を鈴蘭さんに渡したい」と答えた。
 女は手を出して、「それなら、わたしから渡しますよ」と言った。
「いや、直接、渡したい」と言った。
「では、捜してきましょう」と奥に行った。そして、すぐに出て来て「今、客を取っているので、わたしが受け取っておきます」と言った。
「なら、待たせてもらおう」と言うと、「いつになるか、わかりませんよ」と言った。
「ただ、渡すだけだ。中座してもらえないか」と言った。
「わかりました」と言って、中に入っていった。
 鈴蘭はすぐにやってきた。
「接客中に済まなかったね」と言うと「何ですか」と言った。
 あの女が言ったことは嘘だったのだ。
 鈴蘭は目の細い、僕のタイプの女ではなかったが、気の良さそうな女だった。
 風車の名前を出すと、「どうしていらっしゃるんですか」と訊いた。
「このところ、お見えにならないので、心配していたんです」と続けた。
「そうですか。風車殿から、あなたへの手紙を預かってきました」と言った。
「わたしへのですか」
「そうですよ」
「そうですか。では、お見せくださいますか」と言った。
 僕は懐から手紙を出して、「これです」と言って渡した。
 鈴蘭ことみねはその手紙を大事そうに受け取った。
 すぐに読みたそうだったが、はしたないとでも思ったのだろう。懐にしまおうとした。
「今、読んでください。事情を説明しますから」と僕が言うと、「わかりました」と言って、手紙の封を切り、中身を読んだ。
 手紙には、『おみねのことは片時も忘れたことはない。今は、事情があって、そちらに行けない。あと、半月もすれば会いに行く。それまで待っていて欲しい』というような事が書いてあるはずだった。風車が手紙を僕の前で書いたので、おおよそのところはあっているはずだ。
 僕は、手紙を読んだおみねの目を見た。心配していることが分かった。
「事情は本人が話すことだから言えないが、あることで怪我をしているのです。それでここに来ることができないでいます」と言った。
「怪我をされているのですか」
「ええ」
「大怪我ですか」
「まぁ、そこそこの怪我です。手紙に書かれているように、そのうち、ここに来られるでしょう」
「そうですか」
「怪我について、私が話したことは内緒ですよ」
「わかりました」
「風車殿に伝えることはありませんか」
「お待ち申し上げています、と伝えてください」
「そうですか。そう伝えましょう。では、失礼します」と言って店を出た。

 店を出ると、急に暑苦しく感じた。日差しが強かった。もう晩夏だというのに。
 浅草に行くと、道具屋を探して、店に入った。目の前に蚊帳がいっぱいあった。大きさもそれぞれだった。今朝、寝室と離れの広さと高さを測ってきた。江戸時代の長さの単位には、詳しくないので、きくや風車に訊いて、それを紙に書き付けてきた。
 その大きさを言うと、すぐに適当な物を選んで出してくれた。これをどう取り付けるのか知らなかったので、そのあたりのことはしつこく訊いた。そして、必要な物も買った。
 蚊帳は風呂敷に包んでもらったが、結構な大きさだった。魚や饅頭や羊羹を買わなければならないので、帰りに寄ると言って、代金を支払って店を出た。
 魚や饅頭や羊羹を買うと、道具屋に寄り、大きな風呂敷包みを受け取ると、船着き場に向かった。
 舟に乗る時がひと仕事だった。先に他の客を乗せて、僕が最後に乗り、風呂敷包みを受け取った。隣になった老人は、「蚊帳ですか」と訊くので「ええ」と答えると、「そのうち、蚊帳売りが来ますよ」と言った。
「そうなんですか」と僕は言った。蚊帳売りなんて見たこともなかった。
「ええ、二人一組の粋な格好をした売り手がね」と言った。竹竿売りと似ているな、と思った。
 向こう岸に着いた時は、風呂敷包みを受け取ってもらって、僕が降りて、それを受け取った。嵩張るだけで、さして重くはなかった。

 家に着くと、早速、風車におみねの伝言を伝えた。
 風車は「そうですか」としか言わなかった。
 伝言を伝えた後は、蚊帳を張る準備をした。踏み台を持ってきて、長押(なげし)に鉤を金槌で打ち付けた。その鉤形のところに丸い輪になっている蚊帳の隅から端をかけていくのである。六箇所に鉤を打った。
 次は、離れだった。同じように鉤を取り付けていった。
 風車は、布団にいることが多いから、もう蚊帳を吊ることにした。踏み台を使って、六箇所の鉤に丸い輪をかけた。蚊帳は、吊られて、四角いテントのようになっていた。
 そして、蚊が入らないように蚊帳を広げて、布団をその中に入れた。
 風車が忍び込むように蚊帳の中に入っていくと、それを見ていたききょうも真似をした。はいはいしながら、蚊帳の中に入って、得意そうな顔をした。
「どうです。これでいいでしょう」と僕が言うと、風車は「ええ」と答えた。
「ききょう、こっちにおいで」と言うと、言葉が分かるのか、はいはいして蚊帳から出て来た。
「寝室にも吊るからな。今日はその中で眠るんだ」とききょうに言った。言っている意味が分からなくても良かった。

 おやつは羊羹だった。
 畑には、慣れなかったものだから、茄子とキュウリは作ったが、畝の端になんだかよく分からない種も蒔いていた。それらは何が育つのか分からなかった。すると青菜が生えてきたので、茹でて食べた。これは、採っても次がすぐに生えてきた。
 草取りも面倒だった。風呂焚きの時間まで、草取りに追われていた。