小説「僕が、剣道ですか? 2」


 僕は空中に飛び出していた。
 しかし、乳母車は抱えていなかった。
 凄いスピードで落下していくのが分かった。
 躰を反転させた。林が見えた。落下スピードを落とそうとした。しかし、上手くコントロールができなかった。しかし、林に近付くと最初の木の枝に手が触れた。僕は革手袋の手で掴んだ。その枝はすぐ折れたが、次の木の枝をすぐに掴んだ。その枝も折れたが、また次の枝を掴み折れ、また次の枝を掴み折れ……を繰り返すうちに次第に落下スピードが落ちていくのが分かった。そして、今度こそと思って掴んだ枝は少し手応えがあった。結局折れたが、その間に、もう一方の手で別の枝を掴み、今度はその枝を両手で掴んで木にぶら下がった。そこから、枝伝いに木から下りた。
 いつか五十余人とやり合った場所だった。
 夕暮れ時だった。
 行くあてもないので家老の屋敷に向かった。

 門はまだ閉まっていなくて、門番は僕の顔を覚えていて、すぐに「鏡様」と言った。
 中に入れてもらい、門番は家老と嫡男を呼びに行った。
 僕は玄関に座り込んでいた。
 やがて、家老と嫡男が来た。
 家老が「その姿は」と訊いた。嫡男が「前に来た時も最初はそんな姿だった」と言った。

 僕は何も言えなかった。そのうちにきくが来た。
「鏡様」と言って近づき、やがて泣き出した。きくを見ると、お腹が大きくなっていた。

 嫡男が「何か着る物を用意してやってくれ」と言った。
 僕は「風呂を」と言った。
 風呂の支度は、きくがしてくれた。僕は湯をかぶり、躰を擦っては、また湯をかぶった。手の平を見ると、傷だらけだった。革手袋をしていなければ、手の皮が剥けたところだった。
 髷はきくが結ってくれた。
 湯から上がると、中年の女中の作ってくれた紺色のトランクスがあった。それを穿き、着物を着た。

 夕餉の席には、家老と嫡男、そして佐竹がいた。
 佐竹は「これまでどうされていたのですか」と訊いた。
 僕は雷に打たれたことを話した。
「それはきくから訊きました。そして、忽然と消えてしまった、と」
 僕は頷きながら、「遠くに飛ばされたのです。その時に意識を失い、しばらく記憶をなくしていたのです」と言った。
 家老が「まぁ、いいではないか。こうして鏡殿が戻られてこられたことだし」と言った。
 僕は気になっていたことを訊いた。
「綱秀様はどうなされましたか」
「殿のご養子に決まった。これで藩は安泰だ」
「それはようございました。」
「綱秀様が勇様をご養子に迎えることも決まった」
「すべて、良い方向に進みましたね」
「そうだな。ところで鏡殿は行く所はござるのか」
「いいえ、それがありません」
「なら、当家にいるといい。いつまでいても構わん」
「ありがとうございます」
また、家老の屋敷にご厄介になることが決まった。
 夕餉の後は、今まで使わせてもらっていた座敷を使うことになった。
 すでにきくは女中部屋から自分の荷物を座敷に運んでいた。
「きく、私がいなくなって何ヶ月になる」と訊いた。
「四ヶ月になります」と答えた。
「今は四月か」
「はい、四月十八日です」
 そう言った後、きくは泣き出した。
「死んでしまわれたのかと思いました。どこを捜しても鏡様はいらっしゃらないんですもの」
「済まなかった」
「刀だけが落ちていました。わたしはその刀を拾い、屋敷に戻りました。もしや、鏡様は屋敷に戻られているのではと、儚い期待をしました。でも、いませんでした。この四ヶ月間は苦しゅうございました。でも、この子を授かったことを知って、わたしは嬉しくなりました。鏡様はいなくなったけれど、あなたの分身はわたしのお腹の中にいる。そう思うと、生きる勇気が湧いてきました」
「そうか」
「でも、会いとうございました」
「私もきくに会いたかった」
「嬉しい」
 きくは抱きついてきた。
「夢ではないのね、こうして鏡様がいらっしゃる」
 夢なんだがなぁ、これは、と僕は思ったが、それにしても夢にしてはリアルすぎる。
 僕は着物を脱いで、浴衣のような寝間着に着替えた。
 布団に入ると、きくも布団の中に入ってきた。
 そして、裸の躰を押しつけてきた。
「子どもは大丈夫なのか」と訊くと、「これくらい平気」と答えた。
 僕はきくを抱いて眠った。これがしっくりとくるから不思議だった。

 次の日、道場に行くと大騒ぎになった。
 僕の周りを門弟が取り囲んだ。僕が動く度に驚くのは止めてもらいたいと思った、上野のパンダじゃあるまいし、と。
 だが、それだけ僕の不在は大きかったのか、とも思った。
 相川と佐々木が来たので、二月の選抜試験はどうだったと訊いた。
「無事、終えました」と相川が答えた。
 門弟を見ると、半数が堤道場の者たちだった。前回の選抜試験も含めると、ほとんどのものが堤道場出身ということになる。しかも六曜に一度、相川と佐々木は堤道場に行っていたので、この道場は堤道場の別の場所にある道場といっても良かった。
「私がいない間、六曜の堤道場の稽古はどうしていた」と訊いたら、「先生がいない間は、堤道場には練習には行ってはいません。この道場のことを任されていたので、こちらにずっといました」
「そうか」
「それより先生はどこにいらしたのですか」
「雷に打たれたことは訊いたか」
「はい、おきくさんから聞きました」
「その後、どこかに飛ばされたのだが、意識を失っていた。その間の記憶もない。つい、昨日、記憶が戻った。それで帰ってきた」
「そういうこともあるんですね」
「これから堤道場に挨拶に行ってくる」

 堤道場に行くとたえが門前を掃き掃除していた。
 すぐに僕に気がつき「鏡様」と言って駆け寄ってきた。
「今までどこに行ってらしたの」と言った。
 僕は答えられなかった。
 門の中に入ると、肩に頭を付けてきた。
「探しましたよ」
「申し訳ない」
 僕はたえのお腹が膨らんでいるのに気付いた。その方を見ていると、たえはお腹に手を当てて「子どもができました」と嬉しそうに言った。
「もちろん、鏡様のお子ですよ」
 そうだろうな、と思った。
 門を入ると、隣の空き地だった所で、稽古をしている門弟を多く見かけた。
 空き地には、藁人形のようなものが沢山立っていて、門弟はそれに向かって斬りかかっていた。
 僕がその様子を見ていると、たえが「隣の空き地を買いましたのよ」と言った。
「ゆくゆくは第二の道場を作るんだと父は張り切っています」
「門弟が増えたんですね」
「ええ、日替わりで来る門弟も含めると三百人を超えましたわ」
「そりゃ、凄い」
 庭を通り、縁側から座敷に上がった。
「家老の屋敷の道場で選抜試験をするようになってから、門弟は増えました」
「そのようだな」
「だから、京太郎がこの道場を継いでいくのです」
「京太郎、って誰」
「この子に決まってるじゃあ、ありませんか」
「えっ、その子男の子だって、分かるの」
 この時代にそんな技術あったかなぁ。
「そうに決まっているでしょ」
「それって、たえの思い込みだよね」
「思い込みではありません。そういうものなのです」
 女だったら、どうするんだろう、って訊くのも怖いから、僕は黙っていた。確率は二分の一だから、確かに男の子が生まれて来る確率は低くない。
「あの日、男の子が授かるように祈っていました。だから、男の子でないはずがないのです」
 ああ、そういうことね。否定も肯定もできない。こうなると、男の子であって欲しい、というか、そうでないと……。と思っているうちに、それ以前に、この時代に子どもを作っていいのか、という疑問が起こってきた。タイムパラドックスの問題は、どう処理されるんだと思ってしまう。
 しかし、夢オチなんだから関係ないか……、とも言ってられないぞ。図書館の本の記載内容が変わった件はどう説明すればいいんだ。
 僕がこの時代にタイムスリップした段階で、すでにタイムパラドックスは起きているんだ。つまり、この先は新しい歴史が始まっているんだ。
「父を呼んできますわ」
 たえは道場の方に向かった。
 しばらくして、堤竜之介が現れた。
「鏡殿、久しぶりでござる」
「ご無沙汰しています」と言ったが、たえのお腹の子の件があるから、緊張していた。
「たえに子どもができましてな」と堤は言った。
「そのようですね」
「鏡殿のお子と聞いています」
「はぁ」
 僕は何も言えずにいた。
「その気があるならば、いつでも婿として迎えますよ」
 たえは僕の方を見ている。
「こんなことになって、申し開きもできませんが、いつまでもこの地にいるわけにもいかず、婿になることはできません」
 たえががっかりしている様子が明らかに分かった。
「そうですか」
 堤はたえの方を見て、「この子もわかっていてのことでしょうから、私はこれ以上は申しません。ただ、気が変わったらいつでもおっしゃってください」と言った。
 僕はただ頭を下げた。