小説「僕が、剣道ですか? 3」

 僕は撮った写真をクラウドストレージ(インターネット上にある保存場所)にアップロードした。携帯を奪われたり、壊されたときの保険だった。

 こちらの顔を見られているから、彼らがこのまま黙っているはずはないと思った。ただ、すぐには見つけられないだろうから、その間は安全なはずだ。

 とにかく父を襲った復讐と奪った小判の分ぐらいは痛い目を見せてやった。

 それと、黒金古物商と黒金高校の生徒がつるんでいることが分かった。

 宝永小判は一枚でも大金だ。高校生の扱える金額を超えている。黒金高校の生徒には、バックがついているのかも知れなかった。

 いずれにしても、戦いを始めてしまったのだから、これで終わるということはないはずだ。

 

 僕は路地を出ると、まだ金属棒を持っていることに気付いた。オーバーの下に隠して、どこか隠しておける場所を探した。線路の下のコンクリートの間にそれを倒してみた。土に重なって、ちょっと見には、金属棒とは分からなかった。

 ここなら争いになっても来やすいと思った。それからナックルダスターは戦利品としてもらっておくことにした。小判一枚との引き換えなら、安いものだろう。

 

 家に帰った。途中、つけてくる者がいないかは注意した。

 きくとききょうに会うと、今日の出来事が嘘のように思えてきた。

 父が帰宅したので、昨日のことをもう一度訊いた。

「じゃあ、書類のようなものに住所は書いてこなかったんだね」

「そりゃ、そうだ。売るなら別だが、売る気がなかったんだから、何も書いて来ないに決まっている。今は個人情報にうるさいから、そういう古物商にも名前や住所は残しては来たくはないじゃないか」

「そうか。それならいいんだ」

 僕はほっとした。父がうちの住所を残してきたらアウトだと思ったからだった。

 

 ききょうは哺乳瓶から赤ちゃん用のミルクを飲んでいた。

「こんな便利なものがあるんですね」ときくは驚いていた。

「国にいた頃には、乳が出ないときには貰い乳を飲ませる他はなかったですから」

「そうなのね」と母も格別、きくの言葉に驚いた風はなかった。感覚的に江戸時代から来たんだということが分かってきたようだった。

 風呂に僕ときくが一緒に入ることも、しょうがないと思っているようだった。

 きくには新しい着物が用意されていたが、「前のがいいなあ」と言うきくに「お母さん、前のきくの着物を出してよ」と言った。

「それ、いい物なのよ」と母は言ったが、きくの着物を出してきた。

 きくは自分の着物を着ると「やっぱり、この方が合う」と言った。

 しかし、現代で生活するなら着物では不便だからと、きくを説得して、次の土日に洋服を買いに行く約束をさせた。

 夜になると、きくが求めてきたので応じると大きな声を出すので、慌てて枕で口を押さえた。

「頼むよ、きく。ここでは大声は駄目」

「ここでは大声はダメです」ときくは反芻した。

 

 次の朝、母から「昨夜のあれは何」と言われた。

「ききょうが泣いたのであやしたんだよ」

「ききょうちゃんの泣き声には聞こえなかったけれど」

 僕は黙って、ご飯をかきこんだ。

 

 土曜日が来た。

 母ときくとききょうと僕の四人で新宿に行った。きくは母の古い服を無理矢理着せられていた。さすがに着物で新宿は歩けなかった。

 取りあえず全部揃えるということでデパートに行くことにした。

 まず下着を選んだ。次に服を選んだ。その間、僕は店の前で待っていた。

 段々、荷物が多くなってきた。

 一通り買い揃えると、タクシーで帰った。

 すると、家の前に富樫がいた。

「あら、富樫君、来てたの」

「はい、京介と遊ぼうと思って」

 その時、きくとききょうがタクシーから降りてきた。

 僕は買物袋で、きくとききょうを隠そうとしたが、無駄だった。

「おい、京介。その女の子と赤ちゃんは誰なんだよ」

「従妹と別の従妹の赤ちゃんだよ」

「そんな従妹、お前にいたっけ」

「いたんだよ」

「そうなんですか、おばさん」

 母は説明しづらそうに、「そう、そうね」とだけ言った。

「へぇー、こんな可愛い従妹がいるんだ。お前、スゲぇな。それにこの赤ちゃんも可愛いな」

「そうだろう」

「今日は買物に行ってきたんですか」

 見りゃ、分かるだろう、と言いたいところだが、言わなかった。

「そうなんだ」

「へぇー、何買ってきたの」

 富樫は家に上がる気満々だった。

「この子の洋服だよ」

「これから着てみるんですか」

「そうよ」と母が言った。

「俺、見てみたいな。見てもいいですか」

 こういうの、断れないだろう。

「ええ、いいわよ」と母が言った。そう言うしかなかった。

「お邪魔します」

 お邪魔だって……。

 

 結局、富樫は上がり込んで、買ってきた服をきくが着て見せた。

「すげぇ、似合ってる。可愛いよな」

 富樫は僕に同意を求めた。僕は頷くしかなかった。すると、きくは凄く嬉しそうな顔をした。それがまた富樫を喜ばせた。

「次のも着て見せて」

 結局、三着買ってきた服、全部を着て富樫に見せた。

 富樫は「すげぇー」としか言わなかった。

 

 富樫が帰った後、「こういう服を着ると男の人は喜ぶんですね」ときくが言った。

「みんなそういうわけじゃない。富樫だけが変人なんだ」

 富樫が帰った後で、僕はそう言った。

「でもこの服、足の下が見えるし、スースーして恥ずかしい」

 スカートだけを買ったからだな。明日、パンツ類も見に行こう、と思った。

「お母さん、明日は渋谷に行こうよ」と言った。

「ごめんなさい。明日は用があるのよ」

「分かった」

 

 きくは鏡の前で、何度も着替えて見ていた。

 僕が寝転んでいると、きくはショーツを穿いていないことが分かった。

「馬鹿、お前何やってるんだ」ときくにショーツを見せて怒った。

「これを穿くんだよ。それとストッキングも」

「えっー、知らなかった」

 母は教えていなかったんだろうか。

 とにかく、ショーツとストッキングを穿かせた。

「はばかりはどうするの」

 僕はきくをトイレまで連れて行って、ショーツとストッキングを膝のところまで下ろすことを教えた。

 そして、終わったら、上まで上げることも。

「今日はトイレ、いや、はばかりはどうしてたの」と訊いたら、「穿いてなかったもの」

と答えた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 寝る場所については、きくと母が鋭く対立した。

 母はリビングに布団を敷き、そこにきくとベビー籠に入ったききょうを寝かせると言ってきかなかった。きくは僕と同じ部屋に寝ると言い張った。

「こればかりは、お母上のお言葉でも受けられません。わたしは京介様と寝ます。これまでもそうしてきたし、これからもそうです」

「あなたね、そんな非常識なことができますか。いくら、子をもうけたって、この家では別に寝てもらいます」

「お母さん、それをきくに言っても無理だよ。きくは僕と寝るんだ。ずっとそうしてきたから」

「だってね、それじゃあ」

「世間体なんて関係ないよ。もう、ききょうがいるんだよ」

 他にも京太郎もいるけれど。

 とにかく、きくの頑固さに母は負けた。

 

 ともあれ、きくと僕は僕の狭い部屋で寝ることになった。

 僕はベッドで、きくは床に敷いた布団に寝るはずだった。しかし、きくはそれじゃあ一緒に寝た気がしないと言い出した。

 きくは僕のベッドに入り込もうとした。しかし、狭かった。

 床に敷いた布団に僕ときくとが寝てみた。ベッドより狭い感じだった。

 結局、きくを壁際に寝かせ、僕は転げ落ちないように床側に寝た。もちろん僕が転げ落ちても安全な場所にベビー籠は置いた。

 きくは僕にしがみつくように寝た。

 

 次の日、僕が制服を着ると、きくは珍しそうに見た。

「いつも、その格好で学校とかいうところに行くんですか」

「そうだよ」

「道場で剣道を習うのに似ていますね」

「そうだな」

「いってらっしゃいませ」

 玄関できくは正座をして手をつき、頭を下げた。

「ああ、行ってくる」

 その様子を見ていた母は呆然としていた。

「きくとききょうのこと頼んだよ」

「わかったわ」

 

 学校に着くと、担任から昼休みに校長室に来るように言われた。

「京介、久しぶり」とか「お前、大活躍だったな」とか、何人もの生徒に言われた。

 僕が乳母車を抱いたままトラックに衝突したことは、学校中に知れ渡っていた。

 こういう話題で注目されるのは、苦手だった。

 授業が嫌いな僕が、授業が始まってホッとしたのは、初めてだった。

 昼休みに校長室に行くと、「赤ちゃんを助けたことで、西新宿署署長名義で感謝状が出る。次の朝礼の時に渡すからそのつもりで」と言われた。朝礼は毎週月曜日に行われる。今日が火曜日だから、一週間後になる。憂鬱な一週間になりそうだった。

 

 放課後になると、僕はすぐに家に帰った。きくとききょうが心配だったからだ。

 玄関に入るやいなやきくが抱きついてきた。それを母が嫌な顔で見ていた。

「ききょうは」

「京介様のお部屋で眠っていますわ」

「そうか」

 僕は制服を脱いで、普段着に着替えた。

 それから財布と携帯を持って、オーバーを着た。

「どこかに行くんですか」

「ちょっと買物に行ってくる」と言いながら、巾着の中から小判を一枚取り出していた。

「わたしも行きます」

「その格好じゃ、無理だ。その内にここでも外に出られるように洋服を買おう」と言った。

「うれしい」ときくは、よくわからずに喜んだ。

 玄関を出る時、母が「京介、出かけるの」と訊いた。

「うん、ちょっと買物をしてくる」と言った。

「わかったわ。いってらっしゃい」

 

 僕は買物に行くつもりはなかった。

 小判を黒金古物商に持って行くためだった。

 新宿からはそう遠くはなかった。

 黒金駅で降りると、商店街を見て回った。

 黒金古物商は、駅からさほど遠くない所にあった。

 古いビルの二階だった。階段を上って、扉を開けた。待合室に入り、番号札を取った。上の方に番号の書いてあるランプが幾つもあった。僕の持っている番号のランプが点いた。僕はドアを開けて中に入った。いくつかのブースに分かれていて、ブースごとに番号がついていた。僕の持っていた札のブースに入り、番号札を中にいる人に渡した。

「何を売りたいんですか」と訊いた。中年の男性だった。

 僕は宝永小判を出した。

「ほう、小判ですか」

 男は小さな顕微鏡のようなもので、その小判の表と裏を見た。

「これは珍しい。未使用品ですな」

「で、いくらですか」

「これだと三百万円ってところですかね」

「今、お金に換えられますか」

「あなたは何歳ですか」

「十六歳です」

「だったら、親御さんを連れてきなさい。ゲームやCDなどの少額商品ならすぐ買い取ることはできるけれど、これは三百万円もするものなので、親の承諾が必要なんです」

「そうですか。分かりました。次に来る時には、連れてきます」

 そう言うと僕は小判を返してもらって、ポケットに入れた。それからブースを出た。

 階段を下って、通りに出た。壁に寄りかかっていた若者が僕の後ろをついてきた。

 もう少し行くと路地になる。

 後ろから「兄さん」と声をかけられた。振り向くと、パンチが顔に向かってきた。

 その拳を掴んで、僕は殴られたように倒れた。

 当然、殴ってきた若い男も倒れた。若い男の拳を捻って手を広げさせた。若い男はナックルダスターを嵌めていた。それを奪い取って、右手に嵌めた。若い男の腕をねじり上げて、路地に入った。そこには、四人ほど仲間がいた。

 僕は男の背中を蹴って、仲間の方にやった。

 蹴った男が向き直って、五人揃ったところで、僕は携帯で写真を撮った。

「この野郎、ふざけた真似しやがって」

 僕に蹴られた男が殴りかかってきた。しかし、ナックルダスターは僕が奪って、僕が嵌めていた。その拳でその男はしたたかに顔面を殴られた。ひょっとしたら鼻の骨が折れたかも知れなかった。顔を押さえて倒れ込んだ。

 周りで見ていた奴らも顔色を変えた。一人は金属バットを持っていた。それを振り上げて、襲って来た。僕はそれをかわして、その足を払った。その男は地面に腹ばいになった。

 もう一人は金属棒を持っていた。あと二人はナイフをちらつかせた。僕はその写真も撮った。金属棒を持った男が殴りかかってきた。僕は、その一撃を避けながら、彼から金属棒を奪い取った。

 そして、金属棒を刀を構えるように持った。

「五人で一斉にかかれば、金属棒なんて関係ないさ」と誰かが言った。

「ナイフで切ってもいいかな」

「構うもんか」

「向こうは金属棒を持っているから、正当防衛さ」

「そうさ」

 そう言うと五人が一斉に飛びかかってきた。

 最初に向かってきた者の手を思い切り叩いた。手の骨が砕けたことだろう。次にナイフで向かってきた一人の右腕を金属棒でへし折った。後ろに回った男が金属バットを打ち下ろしてきたから、それを避けて、胸を金属棒で打った。あばら骨が折れたか、ひびが入ったことだろう。ナイフを持っていたもう一人は、少しびびっていた。しかし、容赦なく僕はその右腕を金属棒で叩いた。やはり骨が折れただろう。

 ナックルダスターを持っていた奴は逃げだそうとしていたから、金属バットを投げて、その足に絡ませた。若いその男は転んだ。転んでいるその男の右足を金属棒で殴った。足の骨の折れる音がした。

 転がっている男たちの懐を探った。生徒手帳が出てきた。皆、黒金高校の生徒だった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 月曜日は朝、採血があり、すぐにレントゲンが行われた。

 午前中に女医の診断があり、健康そのものと太鼓判が押された。

 看護師から退院の手続きの話があるので、母に来てもらうように言われた。

 すぐに携帯から家に電話をした。向こうは結構大変なようだった。

 午後、きくとききょうを連れて、母が病院に来た。

「この子だけを置いていくのは心配だったから」と母は言った。

 その気持ちは良く分かった。

 退院の手続きと会計を済ませると、タクシーに乗って家に帰った。

 きくは振り袖を着ていたから、タクシーを降りる時には、どこかに参拝に行ってでも来たような感じだった。

 リビングでお茶を飲んだ。僕はコーヒーだった。

「この子の言っている話は信じられないんだけれど、お昼にね、お父さんが、この子の持ってきた小判を一枚、近くの古物商に見せたそうなのよ。それで、これ未使用品ですよね、と訊かれたそうなの。よくわからないと答えたそうよ。そうしたら、この小判なら二百万円ぐらいですかね、と言ったそうよ。別の古物商では三百万円と言われたって」

「そう、全部が未使用品じゃないけれど、半分以上は未使用品だからね。親父に連絡してくれないかな。その三百万円って言われた古物商で現金に引き換えてもらってくれって」

「そうするわね」

 母は携帯でかけた。

「どうしたの」

「携帯に出ないの」

「何か、急用なんじゃないの」

「そうなのかもね」

 その時、電話が鳴った。母が出た。

「お父さん、病院だって」

「どこの」

「黒金病院だって」

 黒金病院は黒金町にある、評判の良くない病院だった。

「そう」

「わたし、行ってくるわね」

「分かった」

 母はタクシーに乗って行った。

 

「きく、大丈夫か」

「ええ、ききょうを見ているだけだから楽だわ」

「退屈じゃないか」

「そうね。それより、京介様のお部屋はこんなに狭いんですか。わたし、どこに寝たらいいんでしょう」

「そうだよな。部屋を片付けよう」

 僕の部屋は、ベッドと勉強机とちょっとした本棚があるだけで、狭いけれど空間がないわけじゃなかった。そこら中に本やら服やらゴミが散らかっていて、座る隙間もないほどだった。

「そういうことはわたしがやります」

 きくはそう言うと片付けだした。さすがに服をどう片付けていいのかわからなかったので、教えた。教える方が面倒くさかったが、次に片付けさせるときのために覚えさせたのだ。本は本棚にしまうように教えた。残ったものはほとんどがゴミだが、必要なものがあるかも知れないので、段ボールの箱の中に入れておくように言った。

 後は掃除機のかけ方を教えた。コードを引き出し、それをコンセントに繋げて、スイッチを入れて、吸い取る音がしたら、部屋を隈無く掃除するように言った。スイッチの切り方とコードのしまい方も教えた。コードはボタンを押せば自動的に巻き取られるようになっていた。

 その時、携帯が鳴った。

 出ると母だった。

「お父さんが大変なの。顔を殴られて、鼻血を出しているわ。それから、小判だけれど、若い奴らに取られてしまったわよ。今、警察の人から事情聴取を受けている」

「きくとききょうのことは言わないでよ」

「わかっているわ」

 

「どうしたの」ときくが訊いた。

「親父が、強盗にあったらしいんだ」

「何か盗まれたの」

「ああ」

「何」

「小判だって」

「小判」

「そう」

「お父上は大丈夫なのですか」

「鼻血は出しているようだけれど、大したことはないようだ」

 

 親父は母と病院から帰ってきた。

 顔を殴られたところに絆創膏の大きい物が貼られていた。

「すまん」

「いいんだよ」

「いきなり、数人に囲まれて路地に連れ込まれて、小判を取っていかれた。古物商を出た所からつけられていたようだな」

「警察には何て言ったの」

「家宝の宝永小判を鑑定してもらおうと思って、営業の途中で黒金古物商に持って行ったら、いい鑑定結果が出たので今日はいい酒でも飲もうかと思っていたら、この有様だと話した」

「どんな奴らだった」

「顔を見る余裕はなかった。歩いているところを、いきなり殴られて、路地に引きずり込まれた。そして、地面に押さえつけられて、服や鞄をあさられ、小判を見つけると引き上げていった。五、六人だったけれど、顔は見てはいない。だけど、若い連中だった。救急車とパトカーが来て、一応頭と顔のレントゲンを撮って、骨折していないことを確認すると、事情聴取が行われた。話したことは、今まで言ってきたことと同じだ。外傷が軽度だったので、病院からはすぐ帰っていいと言われたが、会社に連絡して、そのまま帰宅することにした」

 父は泥まみれだった。

 服を脱いで、風呂に入った。

「こちらにも盗賊がいるんですね」

 きくがそう言った。

「そうなんだよな」

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 二階のダイニングに上がると、母と父は怒っていた。

「病院から電話がかかってきたわよ」

 母が険しい声で言った。

「すぐ戻るように、って」

「分かっている。それより、ききょうはどうしている」

「今は眠っているわ」

「あの子はどうしたんだ」と父が訊いた。

「信じられないかも知れないけれど、僕の子だ」

「そんな馬鹿な」

「間違いなくわたしと京介様の子です」ときくが言った。きくは、椅子に座り慣れていないので、椅子の上で正座をしていた。

「そんなはずがないだろう」

「信じられないと思うけれど、最初に意識を失った時に、過去に行ったんだ。江戸時代の何とか藩に行ったんだよ」

「白鶴藩です」ときくが言った。

 そこで、家老の奥方を助けた縁で、家老屋敷に住むことになり、きくと出会ったことを話した。

「言っとくがな、そんな話は誰も信じないぞ」と父は言った。

「分かってるよ」

「お前の話を仮に信じたとしても、その時、お前は病院にいたのだぞ。意識不明の重体だったんだ。そして意識を取り戻した。お前の話は、その意識のなかった時の夢物語に過ぎない。そうだろう」

 父はそう言った。常識的に考えればそうだ。僕自身、何度もこれは夢だからと思ったくらいだったんだから。

「その子はどこから連れてきたんだ」

「だから、白鶴藩の家老屋敷からだ、って」

「そんな話が通るとでも思っているのか」

「そうなんだからしょうがないじゃないか」

 父はきくを見た。

「この少女は一体何歳なんだ」

「十六歳です」ときくは言った。

 僕が最初に会った時は、数え年で十五歳だったが、次に会った時は一歳増えていたのだ。

「十六歳だって。だったら、お前と同じ歳じゃないか」

 下手に数え年を持ち出すとややこしくなるので、「そういうことになるのかな」と僕は言った。

「お前好みの美少女だな」

「変な言い方、止めてくれない」

「京介様、こちらの方は京介様のお父上とお母上でございますか」

「そうだけど」

「知らぬ事とは申せ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。わたしはきくといい、家老島田様の屋敷で働く女中です。縁あって、京介様のお世話係をしています。さきほど、お父上がおっしゃった、お前好みの美少女とは、わたしが京介様の好みに合っているという意味でしょうか」

「そう。そういう意味です」と父が言った。

「へんな言い方は止めてくれ。この子が誤解するだろう」

「そうだったら、とても嬉しゅうございます」

「ほらぁ」

「それにしても妙な言葉遣いをする子だなぁ」

「だから、江戸時代から来た子なんだってば」

「そんな話は通用しない。この子の親元さんに返さなくちゃならない」

「どうするんだよ」

「警察に連絡するしかないだろう」

「警察はやめてくれ。それじゃあ、この子と赤ん坊が帰れなくなる」

「他にどうするんだ」

「とにかく、警察に連絡するのは止めてくれ。そして、この子の話を聞いてやってくれ。もし、警察にこの子が保護されるようだったら、僕はお父さんとお母さんと縁を切って、この子とその赤ん坊を警察から取り戻す。そして、一緒に暮らす。その時は、この世界にはもう戻っては来ない」

 僕の真剣な目を父は見た。

「わかった。警察には連絡しない。約束する。そして、この子の話を聞く。それでいいだろう」

「ああ」

 

 僕は財布と携帯と携帯の充電器を持って、病院に戻った。

 女医からも看護師からも、こっぴどく叱られた。

「もう一度、こんなことをしたら当病院には置いておけませんからね」

 僕は、病院着に着替えて、ベッドに入った。

 気になって、一時間ごとに電話していた。

「今、ききょうのおむつとか哺乳瓶とか粉ミルクを買っているところ。ベビー籠は届けてもらうことにしたわ」

 また、電話をするとききょうは寝ていると伝えてきた。

 きくの話は全く理解できないと父も母も言っていたが、きくが自分が来た時に持ってきた巾着を開けて、中から、三〇両と二千七百四十銭のお金が出てきた時には、さすがに驚いたようだった。

 

 土曜日の夜は長かった。

 午前一時ぐらいまでは電話に出てくれたが、午前二時になった時には、さすがに「寝なさい」と母から言われた。

 

 日曜日は午前七時に起きた。検温と血圧を計りに看護師が来た。

 午前八時に朝食が出た。

 思えば、昨日から何も食べていなかった。騒動の渦中で何も食べる機会がなかったのだ。

 久しぶりに食べる朝食はうまかった。

 おかわりができるならしたいくらいだった。

 午前十時に点滴がなくなると、針が抜かれた。

 午前十一時頃に携帯が鳴った。

「よぉ、元気か」

 富樫だった。

「昨日、意識を取り戻したんだってな、お袋さんに聞いたぜ。後で会いに行くからな。じゃあな」

 

 昼食もうまかった。江戸時代の食事と比べると何でも美味しかった。

 昼食後に富樫が来た。

「元気そうじゃねえか」

「元気に決まっているだろう」

「でも、凄かったよな。乳母車を抱いたまま、トラックに衝突したんだものな。死んだと思ったぜ。全く悪運の強い奴だな」

 その時、乳母車を引いていた女性が赤ちゃんを抱いて面会に来た。富樫は部屋の隅に立っていた。

「その節はありがとうございました。昨日、意識が戻られたと病院から連絡がありましたので、来てみましたらいらっしゃらなくて、今日、ご挨拶に伺いました。これ、つまらないものですけれど、お受け取りください」と言って、洋菓子らしい包みのものを僕に渡した。

 僕は赤ちゃんを見て、「無事で良かったですね」と言った。

「あなたのおかげです。本当にありがとうございました」

「いや、それはもう」

  乳母車を引いていた女性が帰って行くとホッとした。こういうのは、僕は苦手なのだ。

「富樫」

「…………」

「いつまで、固まっているフリをしてるんだよ」

 富樫もこういうのは苦手なのだろう。

「あっ、苦手だってのはわかった」

「分かるに決まっているだろう」

 すると富樫は、勝手に洋菓子の包みを開いた。

「クッキーだ。俺、大好き」

「そうか、食べてもいいぞ」

 そういう前に口に入れていた。

「食べてまーす」

「全く調子のいい奴だな」

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 家に着いた。

 カードキーで中に入った。

 僕の部屋から大きな声と赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

 僕は慌てて三階に上がった。

 僕の部屋を開けると、母と父が僕を見た後、「京介」と言った。

 きくが立ち上がり、僕に抱きついてきた。

 まだびしょ濡れの着物を着ていた。

「どうしたんだよ。まだ着替えさせていなかったのか」

 僕は怒鳴った。

「その子が嫌がるんだもの。それより、お前、病院はどうしたの」

 母は驚いて訊いた。

「抜け出てきたに決まっているじゃないか」

 僕はそう言った。

「だって、先生が駄目だって言っていたじゃないの」

「僕は平気さ。それより、うちのことの方が心配だったんだ。早く着替えさせなくちゃ。それとお風呂、沸かしてくれている」

「ああ、やっておいた。もう沸いている」

「それなら、きくを風呂に入れなくちゃ」

「そうだな」

「お母さん、着物、持っている」と僕は訊いた。

「そりゃ、持っているわよ」

「喪服じゃないよ」

「わかっているわよ。振り袖の頃の物も取ってあるわよ」

「それを出してきてよ。きくに着せるんだ」

「わかったわ」と言って、母は納戸に入っていった。

「きく、震えているじゃないか。寒いだろう。風呂に入れ」

 きくの手を引くと、一階の風呂場まで連れて行った。脱衣所に来ると「きく、着物を脱げ」と言った。

 きくは「はい」と言って、着物を脱ぎだした。

「おい、京介。何、やっている」と父が言った。

「これからきくを風呂に入れるんだ」

「だったら、お前、こっちにこい」

「それじゃあ、どうやって風呂に入るか分からないだろう。教えてやる必要があるんだよ」

「どういうことなんだ」

「親父、あっちに行っててくれ」

「そうはいかんだろ」

「赤ん坊はどうしたんだよ。放っておく気かよ」

「それとこれとは……」

「頼むから、僕の言うとおりにしてくれ」

「脱ぎました」ときくが言った。

「そしたら……」と言いながら、僕は風呂場の戸を開けて「そこに入って」と言った。

 そして、僕も服を脱ぎ始めた。

「何をしてるんだ」

「服を脱いでいるんだよ」

「お前、正気か。中には女の子がいるんだぞ」

「分かっているよ」

「だったら」

「いつもこうしていたんだよ」

「どこで」

「一々、うるさいな、後で説明するから、今はほっといて」

 僕は服を脱ぐと、風呂場に入っていった。風呂には湯が張られていた。

「厠に行きたくなりました。どうしましょう」

「大きい方か」

「いいえ」

「ここでしちゃえ」

「恥ずかしいです」

「じゃあ、はばかりに行くか」

「はばかりに行きます」

 濡れた着物をもう一度着て、僕はトランクスと肌着姿で、隣のトイレを開けた。

「どうすればいいんですか」

 僕はトイレの蓋を開けた。そして、便座を指さして、「そこに座ればいいんだ」と言った。きくは便座の上に足をかけてしゃがもうとして苦労していた。

「馬鹿、そう座るんじゃない」

 僕はきくを便座から降ろすと、お尻を便座につくように座らせ、足を床につかせた。

「どうだ。この方が楽だろう」

「はい」

「それでしてみろ」

「…………」

「どうした」

「恥ずかしいです」

「分かったよ。出て行くよ。終わったら、この戸を叩くんだぞ。そうしたら開けるからな」

「わかりました」

 僕はトイレから出た。

「どうしたんだ」と父が口を出してきた。

「今、トイレに入っている」

「風呂は」

「これから」

 そのうちに、トイレの戸を叩く音がした。

 僕が開くと、後ろにいた父が見えたようで、「きゃー」と悲鳴を上げた。

 父はすぐに玄関の方に行った。

「いませんか」と中から声がした。

「もう、いない」

「では開けてください」

 僕は戸を開けた。

「この後、どうしたらいいのかわからないんです」

 僕は「ここを見て」と二連になっているトイレットペーパーのホルダーを指さした。

「ここからこうして紙を取り出すんだ」

 二枚重ねのトイレットペーパーを引っ張り出して、四つ折りにした。

「それで、またを拭くんだ」と言った。

「拭くんですか」

「そうだ」

「わかりました」

 僕はいったん、外に出た。そしたらまた戸を叩く音がした。

「この後、どうするんですか」

「水を流すんだ」と言って、きくを立ち上がらせたら、トイレの中にまたを拭いたトイレットペーパーがない。

「紙はどうしたんだ」と言うと、着物のたもとから取り出した。

「その紙をトイレに捨てるんだ」

「この中に捨てるんですか」

「そうだよ」

「もったいないです」

「それは拭くだけで、用済みなの。だから、捨てるんだよ」

「まだ、使えるのに」

「一度使った紙、これはトイレットペーパーというんだが、この紙は使ったら捨てるの。分かった」

「はい」

 きくは袂に入れていた紙をトイレの中に捨てた。

「そうしたら、このボタンを押すんだ」と、操作器の上部についている「大きい」と書いてあるボタンを押させた。大きい方をする時も困らないようにするために「小さい」と書いてある方を敢えて押さなかったのだ。

 すると、トイレの水が流れて、新しい水に満たされた。

 僕の家のトイレはウォシュレットだったが、使い方が分からないだろうと思ったから、最初は教えなかった。

 トイレを済ませたら、きくを裸にし、僕も裸になった。風呂場に入ると、かけ湯をして僕は風呂に浸かった。きくも入れよ、と言いたかったが、僕の家の風呂は小さかった。

 僕が出て、きくを風呂に入れた。

「初めてです。こういう風呂に入ったのは」

「だろうな」

 家老のところの風呂は、蒸し風呂のようだった。躰を洗う時だけ湯を使い、最後に上がり湯をかけて風呂から出た。

 きくの髪を解いて、シャンプーで洗った。きくはめったに髪を洗わないので、シャンプーで洗うことに驚いた。僕は指できくの髪をすくように洗った。最後はシャワーで流した。きくはシャワーを珍しがった。どうしてこんなに細かい水が出るのか、何度も僕に訊いた。

 僕は説明するのが面倒だった。

 今度は、きくにスポンジを持たせて、背中を洗わせた。

「面白い」ときくは言った。時々、シャボン玉ができる。それを見て、きくがはしゃいだ。

 その時、「ここに着物を置いときますからね」と母がドアの外から言った。母の声には棘があった。若い男女が昼間から風呂に入って、騒いでいるのだ。それに何といっても僕は、まだ高校一年生だった。

「分かった。ありがとう」

 僕はそう言うしかなかった。後が大変だぞ、とは思った。

 きくはシャボン玉を作っては消すのが、楽しいようだった。それをしていたんでは、いつまで経っても切りがないので、僕は「出るぞ」と言った。

「はい」ときくが言うと、僕はシャワーで躰をもう一度流して、それからきくにもシャワーを浴びせた。

 僕は躰をバスタオルで拭くと、自分の下着を戸棚から探して身につけ、新しいシャツを着て、洗い立てのジーパンを穿いた。

 きくの躰もバスタオルで拭いた。

 きくは「これはどうしたらいいんでしょう」とショーツを見せた。

 僕は前と後ろを確認してから、きくに僕の肩に両手をかけさせて、「右足を上げて」、「そう」、「次は左足」というようにしてショーツを何とか穿かせた。

「なんだか変な感じ」ときくは言った。

 後は着物だったから、襦袢から着物まで、きくが自分で着た。きくの着た着物は派手だった。よそ行きには良いかも知れないが、普段着る着物ではなかった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

   僕が、剣道ですか? 3

                                                      麻土 翔

 

 僕は西日比谷高校の一年生。ある日、雷にうたれて過去に飛ぶ。そこで白鶴藩の家老の奥方を救い、その家老の屋敷で生活するようになる。世話係としてきくが選ばれ、きくとの間にききょうという女の子を授かる。

 いろいろなことがあって、僕がまた現代に戻ろうとしたら、…………。

 

 僕は意識を取り戻した。病院のベッドの上だった。

 きくとききょうはどうしたのだろう。

 そう思っていると、僕の部屋に、ずぶ濡れの着物を着た女の子と赤ん坊がいる、と母の携帯に父からの電話があった。

 名前はきくと言っているそうだ。すると、きくとききょうが僕の部屋にいるのは間違いない。

 僕は、母に「携帯を貸して」と叫んだ。

「どういうことなんだ」と言う父の言葉が飛び込んできた。

「僕がすぐ行くから待っているように言ってくれ」と父に頼んだ。

 すると、女医は「今は病室を出ることはできません」と言った。

「緊急事態なんです。どうか、退院させてください」

「だから、それはできません」

「どうしてですか」

「あなたは、今、意識を取り戻したばかりです。まだ、本調子のあなたに回復しているわけではありません。少なくとも二十四時間は様子を観察します。それから、血液やレントゲンの検査も行います」

 腕には点滴の針が刺さっていた。意識を失っている間、水分と栄養をこの点滴が補ってくれていたのだ。

「今は何曜日の何時ですか」

「土曜日の午前十時です」

「それじゃあ、明日検査が終われば退院できるんですね」

「いいえ、検査は、土日はやっていません。月曜日にならないと検査はできません」

「では早くても退院は月曜日になるっていうわけですか」

「そうです。検査結果が出て、それでOKなら退院できます」

「検査結果はすぐ出ますか」

「ええ。でも、私たちが診るのには順番があるから、退院ができるとしても、午後になりますね」と女医は言った。

 僕は携帯を耳に当てた。切れていた。

「地下のコンビニに買い物に行っては駄目ですか」と訊いた。

「今、意識を取り戻したばかりだから、駄目ですね。お母さんに頼んで買ってきてもらいなさい」と女医は言った。

 そして、「じゃあ、また何かあったら呼んでください」と言って、女医と看護師は出て行った。

 僕は携帯でかけた。

 父が出た。

「何があったんだ。どうなっている」と言った。

「親父、落ち着いて聞いてくれ。女が自分の名前をきくと言ったのは、聞いたよね。きくはびしょ濡れだと言っていたよね。何か着替える物を与えてやって欲しい。できれば、風呂を焚いて、入れてもらいたい。それから、赤ちゃんの方だけれど、ききょうと言うんだ。やっぱり、濡れているんだろう。急いで、乾いた物を着せてやってくれ。頼む」

「それはわかった。お母さんに代われ」

 僕は携帯を母に渡した。

 着替える物などの場所を聞いているのだろう。

「とにかく、赤ちゃんは早く着替えさせて。わかっているわよ。すぐ行きます」

 母は携帯を切った。

 オーバーコートを手に取って、「今から帰るけれどあなたは大丈夫」と訊いた。

「ああ。そうだ、僕の物はクローゼットの中」と訊いた。

「そうよ。ここに来た時のまんま。もっとも下着なんかは新しいのと変えたわ」

「そうか。携帯も財布もあるんだね」

「携帯と財布はセーフティボックスの中よ。あ、いやだ。鍵を持って行くところだった。これが鍵よ」

「分かった」

「様子がわかったら携帯に電話するからね」

「ああ、分かった」

「じゃあ。行くわよ」

 母は病室を出て行った。

 僕は、すぐにセーフティボックスの鍵を開けた。

 中から、財布と携帯を取り出した。

 財布の中には、一万三千五百三十二円入っていた。

 僕はベッドから出ると、起き上がって、すぐに点滴の針を抜いた。

 そして、おむつをトランクスに穿き替えた。上の肌着と厚手のシャツを着て、ジーパンを穿いた。

 オーバーを持って、皮手袋をオーバーのポケットに入れた。

 財布はジーパンの尻ポケットに入れ、携帯もオーバーのポケットにしまった。

 病室のドアを開けて、外の様子をうかがった。看護師が歩いている様子はなかった。

 病室を出ると、見舞客のような風を装って、エレベータールームに向かった。病室は十三階だった。エレベーターが上がってくるのが、もどかしかった。

 誰か知っている看護師に見られはしないかと気が気ではなかった。

 やっと、エレベーターが上がってきて、ドアが開いた。中に入った。

 ドアが閉まろうとした時、看護師が入ってきた。さっき、来た看護師だった。

 僕は他の人の陰に隠れて、壁の方を向いた。

 その看護師は六階で降りていった。

 本当に心臓が止まるかと思った。

 一階に着いた。

 オーバーを着た。

 玄関から外に出た。

 タクシー乗り場に向かった。

 僕は家の住所を言った。

 運転手はカーナビにその住所を入力していた。

 それからタクシーは動き出した。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

四十

 僕は大きくくしゃみをした。目を開ければ僕はベッドの上だった。

「京介、わかる」と言う母の声が聞こえた。そして、ナースコールのボタンを押した。

 看護師が来て僕を診た。

「先生をお呼びしますからね」と看護師は言った。

 ほどなく医師が来た。

 僕の目蓋を手で開いて、ペンライトの光を当てた。

 眩しかった。

 両目を診て、「意識は戻っている」と医師が言った。

 きくとききょうが雷に巻き込まれたのは、覚えていた。途中までは一緒だったが、最後に手を離してしまった。

 目を閉じた。

 涙が溢れてきた。

 

 その時、母の携帯の電話が鳴った。

「どうしたの」と母が言った。

「えっ、何。何があったの」

 母は何が起こっているのか分からないようだった。

「冗談でしょう」と言った。

「冗談じゃないの」

 母の顔が真剣になっていった。

「それ、ほんと」

 

「どうしたの」と僕は涙を手で拭って訊いた。

「京介の部屋に、ずぶ濡れの着物を着た若い女性と赤ちゃんがいるって言うの」

「えっ」

 そんな馬鹿な、と思った。

 これは長い夢だったんだろう。違うのか。

「名前を訊いて」と僕は言った。

「名前は何て言うの」

 母は携帯を耳に当て、その名前を聞いた。

「で、何だって」

 僕ははやる気持ちでいっぱいだった。

「きく、だって」

 そう母は言った。

「えっ、そんな」

                                                              了