小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十九ー2

 昼頃になって、「堤邸に行ってくる」と言うと、きくは「わたしも」と言い出した。

「きく。私も京太郎と別れがしたいんだ。分かってくれ」

「おたえさんともでしょ」ときくは言った。

「すぐ戻る」

 

 堤邸に行くと、堤は登城していて、たえと小姓と女中しかいなかった。

 座敷に上がると「今日はどうされましたか」とたえに訊かれた。

 僕は昨夜、赤い月を見た話をした。そして、以前にも同じことがあり、僕は未来に戻ったことも話した。たえに僕の話が理解できたかどうかは分からなかった。しかし、たえも、僕が突然いなくなったことは知っている。

 たえは抱きついてきた。そして、唇を重ねた。

 長い時間が過ぎた。

 最後に京太郎を抱き上げた。

 門を出る時、もう一度、たえは唇を重ねた。

「さよなら」と言うと、たえは「言わないで」と言った。

 

 家老屋敷に戻ってくると、道場に行き、相川、佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで後を託した。

「先生はどこかに行かれるんですか」

「ああ、前のようにな」

「この前のようにですか」

「そうだ」

「あの時は困ったよな」

「そうだろうな」

「でも、なんとかなります。先生が戻られるまで、しっかり道場を守っています」

「そうしてくれ」

 もう戻ることはないとは言えなかった。

 

 風呂に入った。きくは何も言わず背中を流した。流しているうちに泣き出した。

「もう、こうしてお背中を流すこともないんですね」

「そうだな」

 

 夕餉の席では、僕はそれとなく、今までのご恩に感謝の言葉を述べていた。

「何を急に言い出すんだ」と家老の嫡男が言った。

「いや、いつも思っていることなので」と僕は言葉を濁した。

 

 座敷に戻ると、きくは僕が着てきていた物を用意していた。

 僕は着物を脱ぎ、上の肌着を着て、厚手のシャツを着た。そしてジーパンを穿いてベルトを締めた。それからオーバーを着た。

 側にあった巾着はきくに渡して、本差を手にした。

 きくはきちんと正装をしていた。見送るための装束だったのだろう。ききょうも寒くないように包まれていた。

 僕は靴下とシューズを履いた。

 屋敷の門番に言って、脇の戸を開けてもらい、そこから外に出た。きくとききょうも一緒だった。

 そして、野原の方に向かって歩き出した。その後をきくがついてきた。

 空は俄に雷雲が立ちこめてきた。

「きく、お別れだ」と叫んだ。

「はい」ときくは言った。

 きくは少し離れて立っていた。

「もう少し離れていろ」

「はい」ときくは言った。

 その時、豪雨が降ってきた。

 きくもききょうも僕もびしょ濡れになった。

 頭上に稲光を伴った雷雲がやってきた。

「きく、楽しかった。お前に会えて良かった」

「わたしもです」ときくは言った。

「きく、もっとずっと一緒にいたかった」

「わたしもです」

「もう行く時間だ」

 僕はそう言うと、本差の鞘から刀を抜いて空に突き上げた。

 僕は天を見ていた。

 刀の先に神経を集中させた。そうすれば、雷が落ちてくると信じていた。

 頭上の雲が、光り、龍のような雷が落ちてきた。

 凄い圧力が僕にかかった。

 その時、上を見ていた視線が下を向いた。

 すぐ近くにきくがいた。

「馬鹿、離れろ」と僕は叫んだ。

 しかし、僕を通過した雷は側にいたきくたちも巻き込んだ。

 光の渦の中に僕たちはいた。

 きくとききょうの躰から魂が抜け出ようとしていた。このままでは、きくとききょうはこの過去の世界に取り残される。そうなれば、この野原に意識不明の状態で置き去りになる。僕は現代にいるからこそ意識不明の状態でも生きていられるのだ。しかし、こんな過去の時代だ。意識不明の者が取り残されて生き残れるわけがなかった。

 僕は、激しい光の中をきくとききょうの所に何とか行き、その躰をしっかりと抱いた。そして、魂が抜け出ないように魂をその躰に押し込み、押さえつけた。そして、一緒に光の渦に入り込んでいった。

 過去を通り抜けたようだった。きくとききょうの魂はその躰に残った。

 しかし、次の瞬間、また新しい光の渦が襲ってきて、僕の手からきくとききょうを離し、奪っていった。

 きく。

 ききょう。

 僕は叫んだ。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十九ー1

 次の日、堤邸に行った。

 たえが門の掃き掃除をしていた。

「今日、鏡様が来られるような気がしていました。お躰の疲れはとれましたか」

「ええ、このとおり」

 そう言うと、僕の手を取って指を絡ませてきた。

 玄関から座敷に上がると、堤竜之介がやってきた。

「今日は、お城ではないのですか」

「今日は非番です。明日、お城に上がります」

「そうですか」

「黒亀藩の話で、今や城は持ちきりですよ」

 僕は照れて首の後ろを掻いた。

「二十人槍や氷室隆太郎の話は随分と聞きました」

「会う人ごとに、その話をされて困っています」

 堤が笑った。

 その時、たえがお茶を持ってきた。

「また、凄いお働きをなさいましたね」

「ねっ」と僕が言うと、堤はまたも笑った。

「わたし、何かおかしなこと言いました」とたえは、困った顔をした。

 僕は、人に会う度に、二十人槍の話や氷室隆太郎との立ち合いの話をせがまれるし、そうでなければ聞かされるということを言った。

「そういうことでしたか。京太郎を連れてきますね」

「それにしても殿は上機嫌でしたな」

「ええ」

 僕は報奨金として三百両頂いた話をした。

「なるほど」

 たえが京太郎を連れてきた。僕は京太郎を抱いた。

 京太郎はすやすやと眠っていた。

「道場の方はどうです」

「おかげさまで、上手く行ってますよ。城崎の師範代もようやく板についてきたといった感じです」

「そうですか。そりゃ、良かった」

 堤と話をした後、堤邸を出た。

 

 屋敷に戻り、道場をみた。皆、稽古に励んでいた。

 すぐに座敷の方に行き、ききょうを見た。

 そうしているうちに眠ってしまった。

 

 夕方になっていた。

 風呂に入った。夕餉をとって、座敷に戻ってきた。

 障子戸を少し開けた。

 空が晴れ渡っていた。

 そこに大きな月が浮かんでいた。

「きく、今日は満月か」

「明日よ」

「そうか、やけに月が大きく見える」

 そう言った瞬間に、月が見る見るうちに赤くなっていった。

「きく、月が赤くなっている」と言うと、きくが走ってきて、月を見た。

「赤くなんかなっていませんよ」ときくが言った。

「いや、月が赤くなっている」

 僕がそう言うと、「わたしには普通の月にしか見えませんが、前にも鏡様は同じことを言われましたよね」と言った。

「その時、わたしは、昔から、赤い月を見た人には災いが来ると言いますと言った記憶があります。そして赤い月が見えた鏡様は、次の日、落雷に打たれて消えてしまった」と言った。

「あー、あの時と同じだ。鏡様がいなくなって、わたしがどんな思いをしたか、ご存じですか。もう、半狂乱になったんですよ。でも、この子が救ってくれました。お腹の中の子が暴れたのです。いえ、そう思ったのです。私がいる、そう言っているように思えたのです。鏡様がいなくなってからは、このお腹の中にいた子がわたしを救ってくれたのです」ときくは言って泣き出した。

「もう、いや。あんな思いはしたくない」

 僕は言葉を失っていた。

「これは予兆なんですよね」

「分からない」

「前と同じだとしたら、明日、鏡様は消えてしまわれる。そんなの、きくには堪えられない」

「本当に分からないんだ。だが、その時が来れば、感じる」

「今度は連れて行ってください」

「それはできない」

「どうしてですか」

「私が来たのは、未来というところからなんだ。そこには過去の人を連れては行けない」

 あー、ときくが叫ぶように泣いた。

 一晩が長かった。

 きくは僕に抱きついたまま、離そうとはしなかった。

 夜が明けても、ききょうに乳を飲ませるほかは、僕にしがみついていた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十八

 帰りも湯沢屋で一泊した。

「あーあ、いい湯だ」

 中島と近藤は上機嫌だった。大任を果たした安堵感が滲み出ていた。

 僕はひたすら疲れを癒やしていた。

 風呂から上がり、夕餉を食べると、布団が敷かれる前に僕は眠ってしまった。それだけ疲れていたのだ。

 起きたのは、昼近かった。

 二人は早く藩に戻るより、この先の別の宿でもう一泊するつもりだった。

 

 城に戻ると、もの凄く歓迎された。

 藩主綱秀の前で、番頭の中島伊右衛門と近藤中二郎が、まず二十人槍の場面を演じて見せた。

「さぁて、そこにずらりと棒状の槍が鏡殿を囲んだ」と中島が言うと、「その時だった」と近藤が続けた。

「待たれぃ、と鏡殿が言った。それでは不服である」と中島が言うと、「本物の槍と真剣での勝負がしたい」と近藤が引き継いだ。

「これには黒亀のお殿様も驚いた。しかし、本物の槍と真剣での勝負を受けて立たないわけにはいかない。そこで、本物の槍と真剣での勝負が始まった」

 二人の講談は、ここからが本調子になっていった。

 僕は疲れていたので、本当は休みたかった。しかし、そんな雰囲気ではなかった。

 二十人槍の話が終わると、今度は氷室隆太郎との立ち合いの話が始まった。

「当世随一の剣客氷室隆太郎と鏡京介の立ち合いである。黒亀藩のご当主がこれを見ずに鏡殿を帰すはずがない」と中島が言うと、「帰すはずがない」と近藤が相槌を入れた。

 こうして、宴席は夜まで続いた。しかし、僕は疲れていたので、やはり途中で帰らせてもらうことにした。

 隣に居た者に「本人に帰られては、宴席がしらけてしまう」と言われたが、疲れはどうにもならなかった。

 藩主に先に帰る無礼を詫びて、宴席を後にした。

 

 屋敷に戻るときくが出迎えてくれた。

 すぐに風呂に入り、そのまま眠った。

 翌朝、起きたのは昼頃だった。

「お疲れになったでしょう」

「ああ」

 すでに三日経っているのに、疲労感が残っていた。

 昼過ぎに、城から使いの者が来て、すぐ登城するようにと言われた。

 僕はきくに着替えを手伝ってもらって、その使いの者と一緒に登城した。

 藩主綱秀の前で、番頭の中島伊右衛門と近藤中二郎がいて、今は氷室隆太郎との立ち合いの話をしていた。側には、筆記者がいて二人の話を筆で紙に綴っていた。

  綱秀は「先程、二十人槍の話が終わって、今は氷室隆太郎の話になっている」と言った。

「余りに面白いので、記録させて読もうかと思っているところだ」

 僕はもじもじと居心地の悪い思いをするだけだった。

「そうだ、おぬしを呼んだのは報奨金をつかわそうと思ったからじゃ」と小姓に三方を持たせて来て、僕の前に置いた。

「三百両ある。今回の褒美だと思って、取っておいてくれ」と藩主は言った。

 僕は頭を下げて「謹んで頂きます」と言った。

「ついでだが、五百石で仕官してはくれまいか」と言われた。五百石といえば、なかなかの石高だった。役職に就いていない者が貰える石高ではなかった。

「その件については、謹んでご辞退させて頂きます」と答えた。

「そうか、残念なことよのう。おぬしが側にいれば何かと安心なのだがのう」

「ありがたきお言葉、心に留めおきます」

 

 三百両を貰って城から帰ってきた。

 きくに見せると、驚いた。

「この前、七百五十二両もらって、また三百両ももらったのですか。千両を超えましたね」

「ああ」

 僕は金蔵を呼んで三百両を蔵に入れた。

 

 道場に出た。

 練習中の門弟も稽古を止めて、僕の元に寄ってきた。

「二十人槍の話や氷室隆太郎様との立ち合いの話で道場は持ちきりです」と相川が言った。

「やっぱり先生は、この藩一番です」と佐々木が言った。

「そうですよ」と他の者も言った。

「分かった。久しぶりに稽古を付けるぞ」と僕が言うと、皆は散るように木刀を構えた。

 僕が道場の中央に立つと、次々に木刀で僕に向かってきた。僕は木刀でそれをかわしていった。

 小一時間ほども稽古をすると、僕も汗をかいてきた。そこで切り上げた。

 相川や佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで、今月行われる選抜試験について、訊いてみた。

「いつも通りです」と相川が答えた。

「もう慣れてきましたからね」と佐々木が言った。

 他の者も頷いていた。

「そうか、じゃあ、任せたぞ」

「はい」と六人の勢いのある返事が返ってきた。

 

 屋敷に戻り、少し早かったが風呂に入った。

 風呂を出ると座敷に向かった。

 ききょうを抱いた。

 そのうち夕餉の時間になった。

「殿は、二十人槍の話や氷室隆太郎との立ち合いの話がお好きで、今日も番頭の中島伊右衛門や近藤中二郎にその話をさせておられた。それだけじゃないぞ、二人の話を筆記者に書き取らせてもいらした」と家老が言った。僕は知っていたので、黙って聞いていた。

「鏡殿は仕官する気はないのか」とも言われた。

「五十石ぐらいなら、すぐにでも口利きするがな」と言われた。今日、藩主から五百石の仕官の話を断ってきたとは言えなかった。

 僕は首を左右に振って、その気がないことを示した。

「残念なことだな」と藩主の言われたようなことを言った。

 

 座敷に行くと、きくはききょうをあやしていた。

「もうすぐ寝ますよ」ときくは言った。

「そうか」

「今日は、疲れは取れましたか」

「ああ、道場で汗を流してきた」

「そうでしたか」

「久しぶりに門弟と打ち合うのもいいものだな」

「そうなんですか」

「何て言うか、ホッとする」

「そういうものですか」

 ききょうが眠った。

 大きなざるのようなところに敷いた布団に、ききょうをそっと寝かせた。

 そして、上に白い小さな掛け布団を掛けた。

「ききょうが眠りました」

「うん」

「わたしたちも寝ましょう」

「そうだな」

 行灯の火を消すと、きくが僕にしがみついてきた。

「寝るって言ったじゃないか」

「そう言いましたよ」

「こういう意味なの」

「他にどういう意味があるんですか」

 僕には答えられなかった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十七ー2

 試合場に出ると、氷室隆太郎は「鏡殿、おぬし本気か」と尋ねられた。

「真剣でやるということだ」

「本気ですが」

「真剣でなかったから、二天一流は本差と脇差を使ったが、私の二天一流は真剣なら両方とも本差を使うが、いいのだね」

「どっちでも同じでしょう」

「本気でそう思っているのか」

「ええ」

「私と同じ技量を持つ者を二人相手にするのと同じことだぞ」

 僕は笑った。

「そんな馬鹿な。ただ、二本剣を持っているというに過ぎません」

「笑っていられるのも、今のうちだ。真剣でこそ、二天一流の価値がわかろうというものだ」

 

 太鼓が打ち鳴らされた。

 立ち合い開始の時を知らせるものだった。

 試合場には、真剣を持った鏡京介と氷室隆太郎がいた。

 審判の侍が「始めい」の声をかけた。

 僕はゆっくりと刀を抜いた。氷室は左に走った。そして、抜刀しながら斬りかかってきた。それを受けていると、左から刀が向かってきた。僕は跳び退いて避けた。

 僕の受けが弱ければ、斬られていたところだった。

 すぐに激しい剣の応酬が始まった。左右から繰り出される剣は、一様に鋭く速かった。そして何よりも力強かった。『私と同じ技量を持つ者を二人相手にするのと同じことだぞ』と言った氷室隆太郎の言葉が冗談ではなかったことが証明された。

 僕は苦戦した。

 少しずつ相手に押し込まれてきていた。

 ここぞとばかりに打ち掛かってきた。僕は凌ぐのがやっとだった。

 いつもならスローに見える剣も、氷室の剣はスローに見えなかった。いや、スローに見えていたのだが、この時の僕にはそれが分からなかったのだ。そうでなければ、とっくに僕は氷室の剣の餌食になっていたはずだから。

 とにかく、氷室の剣に堪えた。

 堪えた後は、今度は打ち込んでいった。小手、小手、胴の要領で愚直に攻めた。攻めながらスピードを上げていった。

 今度は相手がかわす番だった。とにかく四方から剣を繰り出し、相手の隙を狙った。しかし、相手に隙はできなかった。

 だが、相手に間を与えず、どんどん攻めていく他はなかった。少しでも気を緩めると相手が攻め込んでくる。

 三十分ほど、激しいせめぎ合いが続いた。

 僕はわざと隙を作って、相手に攻めさせてみた。すると、最初の鋭さが鈍くなっていることが分かった。人は疲れるものだ。まして、二本の剣を同じ力で振り回していたのだ。人の倍も疲れているのに違いなかった。

 僕は一気に攻め立てていった。相手が必死にかわすのがやっとといった感じで攻めていった。

 そして、相手の右の刀を大きく払いのけた。と同時に肩に刀を置いた。

 僕は自分が勝ったと思った。

「相打ちだな」と氷室隆太郎が言った。

 左脇腹あたりに剣を突き立てようとしていた。それは僕が氷室の肩に剣を置いた後だった。だから、その瞬間に僕の勝ちだったが、しかし、一瞬のこと故、誰もそれに気付いてはいなかった。

 僕はさっと跳び退いた。

「この代償は高くつくよ」と僕は言った。

 そして、再び剣を繰り出した。氷室も対抗した。しかし、次第に僕の剣のスピードが彼のより勝ってきた。彼に悟られぬように僕も剣のスピードを落として、斬り合いを続けていた。

 彼の右腕が僕の脇を通過しようとした時、さっと剣を引き、峰打ちでその右腕をしたたかに打った。これは誰の目にも止まらなかったに違いない。骨の折れる音がした。氷室の右手はもう剣が持てんだろう。そして、すぐに胴を峰打ちにして気絶させた。

「勝負あり。鏡殿の勝ち」

 審判の侍の声が響いた。

 周りで見物していた侍たちが響めいた。

 

 中島と近藤が駆け寄ってきた。

「凄かった」と中島が言った。

「ほんとに良かった」と近藤が言った。

「水が飲みたい」と僕が言うと、小姓が湯呑みに水を入れてきた。

「もう一杯」

 また小姓が走って戻ってきた。

 手ぬぐいで汗を拭うと、藩主の前に行き、片膝をついた。

「怪我を負わせてしまいました」

 僕はそう言った。

「仕方がない。いい試合だった」

 藩主は一言そう言って立ち上がった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十七ー1

 朝食後、藩主に朝のお目通りをした。

「昨日はゆっくりと眠れたかな」

 滝川は僕に向かって言った。

「はい、ゆっくりと休ませてもらいました」

「そうか、それは何より。体調は万全かな」

「ええ、調子はいいです」

「それは良かった。時間まで、ゆるりとしていられよ」

「ははー」

 

 僕らは控えの間に通された。

 立ち合いの衣装が用意された。

 僕は着物を着、袴を穿いて、着物にたすき掛けをした。

 また鉢巻きが用意されたので、それを額に巻いた。

 やがて、時間が来た。

 太鼓が打ち鳴らされた。

 中庭に案内された。

 昨日と同様に、右側の席に、藩主滝川の姿があった。

 前方に氷室隆太郎がいた。

 中央に二人の若侍が木刀を掲げるように持っていた。本差だけでなく、脇差にあたる木刀も用意されていた。

「珍しゅうござるな」と僕が言うと、「拙者の得意とするのは二天一流でね」と氷室隆太郎は言った。二天一流とは、宮本武蔵の得意とする流儀であった。

 僕と氷室は歩み寄って、その木刀を手にした。僕が手にした木刀は少し軽い気がしたが、そのまま僕は脇差を腰に差した。

 そして、少し離れた。

 審判役の侍が、「始めぃ」と声を上げた。

 氷室は今まで出会ってきたどの侍とも違っていた。躰が冷えているとでもいうような感じを僕に与えた。

 なかなか、前に出られなかった。右に本差を持ち、左に脇差を持つ形は、なかなかに威圧感があった。

 じりじりと右回りに移動していた。

 そのうちに、氷室隆太郎と太陽が重なった。

 その時、氷室は打って出てきた。右の木刀が素早く繰り出されると同時に、左の脇差も突き上げてきた。僕は、両方の木刀をほんの一瞬で叩いた。

 が、次の瞬間、右の本差がまたも向かってきた。

 左右交互に打ち叩く行為が続いた。

 なかなかに踏み込めなかった。

 相手も同じだった。

 剣の素早さは同じぐらいだった。あるいは僕の方が速かったかも知れないが、両手に木刀を持っている分だけ、速さをカバーしていた。それに氷室隆太郎の凄さは、両方の腕とも両手で剣を持っているくらいに、力が強いことだった。片手で剣を持っていれば、両手で剣を持つよりも力は半減する。それが氷室隆太郎にはなかったのだ。

 僕は精神を統一して、正眼の構えから木刀を突き出した。

 木刀はスローモーションのように相手に向かっていく。相手は、スローに右手の本差を向けてきた。こちらの木刀の方が一歩速く、相手の胴に達していた、と思った。だが、その瞬間、相手の脇差が胴を守っていた。

 僕は離れた。

「見えているのか」と僕は訊いた。

「見えているとも」と氷室は答えた。

 容易ならざる相手だった。

 動きたくとも動けなかった。

 それは相手も同じだった。

 再び、踏み込んだ。僕の繰り出す木刀を相手は弾き返していった。

 そして、離れた。

 その時、相手の弱点が分かった。脇差の方だった。脇差は短い。リーチ差が活かせる。そして、その長さの違いが木刀の力も弱めていた。

 僕は本差を狙うつもりで向かっていき、氷室の脇差に渾身の力を込めて、打ち下ろした。その瞬間に氷室の脇差が手から離れた。と同時に僕の木刀が折れた。この力加減で木刀が折れるとは変だった。最初に感じた木刀の軽さが原因しているのかも知れなかった。

 氷室は、僕の木刀が折れたのを見ると、すかさず本差の木刀を打ち下ろしてきた。木刀を失った僕は、当然木刀では避けられなかった。仕方なく、真剣白刃取りの木刀版をやった。

 相手から木刀をもぎ取り、横に放り投げた。

「そこまで」と言う審判の声がかかった。

 

 中島と近藤が走り寄ってきた。

「良かったなぁ、無事で」と中島が言った。

「ほんとに肝を冷やしましたよ」と近藤が言った。

 僕は汗を手ぬぐいで拭った。

 その時だった。

「鏡殿、氷室殿、こちらにおいでください」と審判が言った。

 僕と氷室は審判のところに行った。

「お殿様が二人の決着を見たい、と仰せられている」と言った。

「もう一度、立ち合って貰えぬだろうか」

「私に異存はござらぬ。殿の申し出とあらば、受けなければしょうがないでしょう」

 氷室隆太郎はそう言った。

「氷室殿がそう言うのなら、受けねばならないでしょう」と僕も言った。

「ただし、やるからには真剣でお願い申す」

 僕は木刀が折れたことが気にかかっていた。あの程度で折れるとは、思ってもいなかったからだ。

「し、真剣ですと」と審判の侍が慌てた。

 審判の侍は、藩主のところに走って行った。そして、すぐに戻ってきた。

「許すそうです。ただし、何があっても文句を言わぬように、とのことです」と言った。

 そのことを審判の侍は、番頭の中島や近藤にも伝えた。

 中島や近藤は、僕のところに走り寄って来て、「お前、本気か」と中島が言った。

「あーあ、言わないこっちゃない」と近藤は嘆いて見せた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十六

 その日の夕餉は、妙に滝川劍持の機嫌が良かった。

「いやー、あの二十人槍を氷室隆太郎以外の者が破るとは思ってもみなかった。珍しいものを見せてもらった」

 滝川は酒を注いでもらっていた。

「こうなるとどうしても気になる」

 氷室隆太郎の方を見て、「彼とおぬしのどちらが強いか」と言った。

「氷室様の方がお強いでしょう」と僕は言った。

「それは謙遜か」

「いいえ、事実を言ったまでです」

「どういうことかな」

「あの二十人槍を氷室様は、お破りになっているんですよね」

「そうだ」

「その時は、真剣でしたか」

「そんなはずがなかろう。木刀と木の槍での立ち合いだった」

「そこです」

「なんじゃ」

「一見、真剣での二十人槍と一人の真剣での刀の対決では、一人の方が不利に見えるでしょう」

「実際に不利だろう」

「ええ、もちろん、不利ですが、木刀と木の槍での立ち合いよりは有利ですよ」

 滝川は頭を振って、「わしにはわからん。氷室、こやつの、いや鏡殿の言うことがわかるか」と訊いた。

「鏡殿の言われていることは、正しいです」と氷室は言った。

「何だと」

「棒状の槍から本物の槍に変えて欲しいと鏡殿が願い出た時、殿は私の顔を見られましたよね」

「ああ、見た。そんなことをして良いのか、尋ねたくなった」

「その時、私は首を左右に振りました」

「そうだった。危険だから、止めろという意味だと思った」

「違うんです。それでは鏡殿が有利になるからです」

「なに」

「棒状の槍を木刀で切り落とすのは不可能ですが、本物の槍の柄を切り落とすことは真剣なら可能なんです。つまり、棒状の槍は木刀ではせいぜい一、二本叩き折るのが精一杯で、そう何本も折ることはできないのです。従って、槍対刀の戦いにならざるを得ない。しかし、真剣の刀を使われては、見ての通り、槍の柄を切り落とすことで、槍を無力化することができます。そして、そこに鏡殿は活路を見いだされた。そういうことです」

「氷室殿が言われたとおりです」

「なるほど」と滝川も分かったようだった。

「だから、私は氷室殿の方がお強いと申したのです」

「それは棒状の二十人槍を木刀で破ったということでか」

「そうです。私にそれができたかどうか」

 滝川は笑い出した。

「おぬしにはできないと言うのか」

「そう思ったから、真剣に変えてもらったつもりですが」

「道理はわかった。しかし、本物の二十人槍を前にして、おぬしはまるで慌てた素振りを一度もしなかったな」

「そうでしたか」

「そうだとも。ちゃんと見ていたからな」

「なら、そうなのでしょう」

「いずれにしても二十人槍を破ったのは、事実だ。そして、棒状の槍ながら二十人槍を破ったもう一人の剣士がいる。この二人が同じ場所にいるのは、めったにあることではない。私はどうしても二人の立ち合いを見たい、どうだ、鏡殿。承知してくれぬか」

「承知するも何も、この状況では断ることはできないでしょう」

「じゃあ、明日、今日と同じ時刻に氷室隆太郎と立ち合うということでいいな」

「分かりました」

 

 布団の敷いてある部屋に入った。

 中島も近藤も複雑な顔をしていた。

「真剣勝負の二十人槍を破ったのは凄かった」と中島が言った。

「確かに凄かったですね。一生で一度見られるかどうかですね」と近藤が言った。

「しかし、面倒なことになったな」と中島が言った。

「明日、立ち合うのは、あの氷室隆太郎ですからね」と近藤が言った。

「どうせ、そういうことになっているんでしょう」と僕は言った。

「どういうことだ」と近藤が訊いた。

「二十人槍は前座でしょう。本命は氷室隆太郎との立ち合いにあったのだと思いますよ」

「なるほど。しかし、おぬしはどうするのだ。氷室隆太郎と言えば、四国随一の使い手として知られている。もしかしたら、全国一かも知れないのだぞ。その者を相手にしなければならないということがどういうことかわかっているのか」

「分かってますよ。強い奴と戦うっていうことでしょう」

「おいおい、そんなに気楽に言うな」

「戦ってみなければ、分からないじゃないですか」

「それはそうだが、おぬしは平気なのか。怖くはないのか」

「そりゃあ、怖いですよ。逃げ出せるものなら、ここから逃げ出したいくらいですよ」

「全く、剛毅な奴だな。こっちが不安に思っているというのに」と近藤が言った。

「さあさあ、早く寝ましょう。明日も大変なんだから」

 僕はそう言って布団に真っ先に潜り込んだ。

 

 翌朝もよく晴れていた。

 僕は二人より早く起きて、紅葉した山々を見ていた。

「おはよう」

「おはようございます」

「昨日は眠れたか」と中島が訊いた。

「もう、ぐっすりと」

「そうか」

「二十人槍とやり合ったせいですかね。疲れ切っていたのか、夢も見ませんでしたよ」

「お前はのんきでいいな」

「これでも緊張しているんですよ」

「そうか、そうは見えないがな」

 近藤も起きてきた。

「私が一番後か」と言った。

「私たちも、今、起きたところですよ」と僕が言った。

「今日は氷室隆太郎と立ち合うんだよな」と近藤が言った。

「もちろん、そうですよ」

「傍で見ているだけだが、心臓に悪い」と近藤はこぼした。

「全くだ」と中島も同意した。

「湯の旅気分だったのが、こうも殺伐とするとはね。考えもしなかった」と近藤が言った。

「湯の旅気分で来ているのが、間違いなんですよ」と僕は言った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十五

 次の日はよく晴れていた。

 僕はぐっすり眠れた。中島と近藤は、よくは眠れなかったようだ。

 寝間着から着物に着替えた僕が「おはようございます」と元気に挨拶しても「おはよう」と返すのがやっとのようだった。

 僕は朝餉をすっかり平らげ、中島と近藤は半分ほど残した。

「残すんなら、もらいますよ」

 僕は中島と近藤の食べ残した分まで食べた。

「よく、それだけ食べられるな」

「これから一働きしなくちゃならないでしょう。食べておかなくちゃ」と僕は言った。

「二十人槍の怖さを知らないからですよ」と近藤が言うと、「そうだな」と中島が相槌を打った。

 食膳が片付けられると、僕は横になった。そして、つい眠ってしまっていた。

「おい、呼ばれたぞ」と中島に起こされた。

 

 起き上がると、着物を直して、藩主滝川の前に出た。

「昨夜は眠れたか」と訊かれたので、僕は「はい、ぐっすりと眠れました」と答えた。

 これには滝川も笑いをかみ殺して、「よっぽど肝が据わっているんだな」と言った。

「巳二つの刻(午前十時)に立ち合いをする。それでいいな」

「結構です」

 午前九時半頃だったので、僕は立ち合いの準備を始めた。

 袴を穿き、着物にたすき掛けをした。白い鉢巻きが渡されたので、額に巻いた。

 時間が来た。太鼓が打ち鳴らされた。

 中庭に案内された。

 右側の席に、藩主滝川の姿もあった。

 前方に真剣の付いていない棒状の槍を持った侍が二十人揃っていた。

 僕が現れると、一斉に視線が向けられた。どの視線も刺すように鋭かった。

 僕には木刀が渡された。それを持って、試合場の中央に進み出た。

 棒状の槍を持った侍が、隊列を組んで歩き出した。そして、ぐるりと僕を中心に輪になるように囲んだ。

 そして、棒状の槍を僕の方に一斉に向けた。

 この時、僕は「待ってください」と叫んだ。

「この期に及んで何だ」と滝川劍持は言った。

「止めたいとでも言うのか」と続けた。

「いや、違います」と僕は叫んだ。

「何だ」

「真剣でやりたいです」と言った。

「真剣で、だと」

「そうです」

「そっちだけ真剣と言うことか」

「いいえ、槍も本物を使ってください」

 滝川劍持は氷室隆太郎の方を見た。氷室は否定するように頭を左右に振った。

 滝川はそれを本物を使うのは、危険だという意味に受け取ったようだ。氷室は真剣の方が僕に有利になるから否定したのだ。

 木刀で棒状の槍を折るのは、一本一本なら難しくないが、二本、三本となると、同時に折るのは非常に難しい。しかし、真剣なら、柄の部分なら続けて切り落とすことができる。もちろん、本物の槍と立ち合うのは、非常に危険である。しかし、それを分かった上での判断だった。

 棒状の槍でも、同時に突き出されれば、避けるのは真剣と同じく難しい。同じ難しさなら、こっちも真剣で立ち合えるだけ有利と僕は考えたのだ。

「本物の槍で戦うと言うのだな。怪我をするだけでは済まなくなるぞ」

「構いません。こちらも真剣を使うので、怪我をさせるかも知れません」

「後で吠え面をかくな」

「それは終わった後で言ってください」

 二十人槍の隊列は戻っていき、棒状の槍から、本物の槍へと取り替えた。それらは光を反射して光り輝き、鋭かった。

 僕には、木刀からいつも使っている刀が渡された。刀を鞘から出して振ってみた。

 刀がうなりを上げながら光っていた。

 鞘を若い侍に預けて、抜き身の刀を持って、試合場の真ん中に立った。

 そして、二十人槍の隊列が、真剣の槍を持って戻ってきた。そして、僕をぐるりと囲んだ。距離は二十メートルほど離れていたろうか。

 どこにも逃げ道はなかった。

 四方八方が槍で塞がれていた。

 槍先の鋭い刃が僕に向けられていた。

 僕は正眼の構えで待っていた。隊列の乱れを見ていたが、隊列は一糸乱れぬ構えを見せていた。その構えに脅威を感じたが、どこかを崩さなければならない。しかし、その隙を隊列は見せない。じわじわと間隔を狭めてくる。

 二十メートルほど離れていたのが、十五メートルほどに近付いてきた。たった五メートル近付いただけなのに、巨大な壁が立ち塞がったかのような感覚に囚われた。

 槍の先の刃の間隔が狭くなった。二十本の槍がずらりと周りを取り囲んでいる。槍の先だけを上から見れば、銀色の輪のように見えただろう。

 そのまま隊列が突き進めば、槍はこの身を突き刺すだろう。隊列はまた一歩、近付いてきた。

 もう動くしかなかった。右に動いた。しかし、右の者は下がることなく、一歩踏み込むように槍を突き出してきた。そして、その左右からも槍は突き出された。槍は僕の躰すれすれの所で止まった。というより、そこが槍の突く一番先だった。もう一度、突くには槍を引いて、突き出すほかはなかった。そのタイミングで、僕は、一度地面に屈み、そして上空に飛び上がった。

 槍を引いた方に向けて、飛び上がり、慌てて繰り出してくる槍を刀で受けた。そして、刀で受けた右側の槍部隊の中程に着地した。槍は長い。相手はすぐに体勢を立て直そうとしたが、その槍の長さが邪魔をした。槍を引いて刺そうとしたが、その前にその槍の柄の部分を真剣で叩き切っていった。最初に三本切り、次の槍が伸びてくると、その槍先を避けながら、その柄を切り落としていった。そして、切り落とした槍を取って、刃の部分ではない方、つまり切り落とした方で、右側の侍の胸を強く突いた。その一人が倒れると、それにつられて二人ほど足を取られた。槍が上に上がり、胴ががら空きになった。その者を峰打ちにした。

 右側の一角が空いた。しかし、倒れた者が邪魔になって、すぐには突いてこられなかった。僕は刀を振り上げて前に向かって走った。前の槍部隊は刃先をしっかりと揃えた。そこにジャンプして、槍の上に乗り、乗った槍の柄を次々と切り落としていった。そして、そのまま彼らの背後に回り、槍を持っているのですぐに振り向けないうちに、刀の峰でその首の後ろの部分を強く叩いていった。叩かれた者は足から崩れ落ちていった。

 そして、一人の槍を取るとぐるぐる回して、敵を攪乱し、散り散りにさせた。そうなると二十人槍は見る影もなかった。バラバラになった一人一人を、槍を突いてきた者は、その槍を捕まえて、僕は刀の峰でその肩を思い切り叩き、また、別の者は槍をかわしてその腹を叩いた。叩かれた者はもだえるように蹲った。

 二十人槍の隊列は、もう数人を残すだけとなった。

 槍を突き出してくればかわして、その胴を叩き、あるいは槍を捕まえて、引っ張りその肩を叩いた。

 最後の一人が倒れると、僕は刀を振って、若い侍から渡された鞘に収めた。

 僕の後ろには、地面に苦悶の表情を浮かべている侍たちが転がっていた。

 

 僕は藩主の前に行き、片膝をついた。

「そちの勝ちじゃ」と藩主は言った。

「ははー」

 僕は立ち、中島や近藤の元に歩いて行った。

「やった、やった」と近藤が騒いでいた。

「もう一晩泊まっていけ」と滝川劍持は言った。

 まだ昼前だったから、帰れると思っていた中島や近藤は意外な顔をした。

 僕は「もう一人いるでしょう」と二人に言った。

 御指南役、氷室隆太郎のことだった。

 彼もまた二十人槍を破ったことがある者と聞かされていた。二人の剣豪が出会う機会はめったにない。その機会を滝川劍持が逃すはずがないと思っていた。