小説「僕が、剣道ですか? 3」

 家に着いた。

 カードキーで中に入った。

 僕の部屋から大きな声と赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

 僕は慌てて三階に上がった。

 僕の部屋を開けると、母と父が僕を見た後、「京介」と言った。

 きくが立ち上がり、僕に抱きついてきた。

 まだびしょ濡れの着物を着ていた。

「どうしたんだよ。まだ着替えさせていなかったのか」

 僕は怒鳴った。

「その子が嫌がるんだもの。それより、お前、病院はどうしたの」

 母は驚いて訊いた。

「抜け出てきたに決まっているじゃないか」

 僕はそう言った。

「だって、先生が駄目だって言っていたじゃないの」

「僕は平気さ。それより、うちのことの方が心配だったんだ。早く着替えさせなくちゃ。それとお風呂、沸かしてくれている」

「ああ、やっておいた。もう沸いている」

「それなら、きくを風呂に入れなくちゃ」

「そうだな」

「お母さん、着物、持っている」と僕は訊いた。

「そりゃ、持っているわよ」

「喪服じゃないよ」

「わかっているわよ。振り袖の頃の物も取ってあるわよ」

「それを出してきてよ。きくに着せるんだ」

「わかったわ」と言って、母は納戸に入っていった。

「きく、震えているじゃないか。寒いだろう。風呂に入れ」

 きくの手を引くと、一階の風呂場まで連れて行った。脱衣所に来ると「きく、着物を脱げ」と言った。

 きくは「はい」と言って、着物を脱ぎだした。

「おい、京介。何、やっている」と父が言った。

「これからきくを風呂に入れるんだ」

「だったら、お前、こっちにこい」

「それじゃあ、どうやって風呂に入るか分からないだろう。教えてやる必要があるんだよ」

「どういうことなんだ」

「親父、あっちに行っててくれ」

「そうはいかんだろ」

「赤ん坊はどうしたんだよ。放っておく気かよ」

「それとこれとは……」

「頼むから、僕の言うとおりにしてくれ」

「脱ぎました」ときくが言った。

「そしたら……」と言いながら、僕は風呂場の戸を開けて「そこに入って」と言った。

 そして、僕も服を脱ぎ始めた。

「何をしてるんだ」

「服を脱いでいるんだよ」

「お前、正気か。中には女の子がいるんだぞ」

「分かっているよ」

「だったら」

「いつもこうしていたんだよ」

「どこで」

「一々、うるさいな、後で説明するから、今はほっといて」

 僕は服を脱ぐと、風呂場に入っていった。風呂には湯が張られていた。

「厠に行きたくなりました。どうしましょう」

「大きい方か」

「いいえ」

「ここでしちゃえ」

「恥ずかしいです」

「じゃあ、はばかりに行くか」

「はばかりに行きます」

 濡れた着物をもう一度着て、僕はトランクスと肌着姿で、隣のトイレを開けた。

「どうすればいいんですか」

 僕はトイレの蓋を開けた。そして、便座を指さして、「そこに座ればいいんだ」と言った。きくは便座の上に足をかけてしゃがもうとして苦労していた。

「馬鹿、そう座るんじゃない」

 僕はきくを便座から降ろすと、お尻を便座につくように座らせ、足を床につかせた。

「どうだ。この方が楽だろう」

「はい」

「それでしてみろ」

「…………」

「どうした」

「恥ずかしいです」

「分かったよ。出て行くよ。終わったら、この戸を叩くんだぞ。そうしたら開けるからな」

「わかりました」

 僕はトイレから出た。

「どうしたんだ」と父が口を出してきた。

「今、トイレに入っている」

「風呂は」

「これから」

 そのうちに、トイレの戸を叩く音がした。

 僕が開くと、後ろにいた父が見えたようで、「きゃー」と悲鳴を上げた。

 父はすぐに玄関の方に行った。

「いませんか」と中から声がした。

「もう、いない」

「では開けてください」

 僕は戸を開けた。

「この後、どうしたらいいのかわからないんです」

 僕は「ここを見て」と二連になっているトイレットペーパーのホルダーを指さした。

「ここからこうして紙を取り出すんだ」

 二枚重ねのトイレットペーパーを引っ張り出して、四つ折りにした。

「それで、またを拭くんだ」と言った。

「拭くんですか」

「そうだ」

「わかりました」

 僕はいったん、外に出た。そしたらまた戸を叩く音がした。

「この後、どうするんですか」

「水を流すんだ」と言って、きくを立ち上がらせたら、トイレの中にまたを拭いたトイレットペーパーがない。

「紙はどうしたんだ」と言うと、着物のたもとから取り出した。

「その紙をトイレに捨てるんだ」

「この中に捨てるんですか」

「そうだよ」

「もったいないです」

「それは拭くだけで、用済みなの。だから、捨てるんだよ」

「まだ、使えるのに」

「一度使った紙、これはトイレットペーパーというんだが、この紙は使ったら捨てるの。分かった」

「はい」

 きくは袂に入れていた紙をトイレの中に捨てた。

「そうしたら、このボタンを押すんだ」と、操作器の上部についている「大きい」と書いてあるボタンを押させた。大きい方をする時も困らないようにするために「小さい」と書いてある方を敢えて押さなかったのだ。

 すると、トイレの水が流れて、新しい水に満たされた。

 僕の家のトイレはウォシュレットだったが、使い方が分からないだろうと思ったから、最初は教えなかった。

 トイレを済ませたら、きくを裸にし、僕も裸になった。風呂場に入ると、かけ湯をして僕は風呂に浸かった。きくも入れよ、と言いたかったが、僕の家の風呂は小さかった。

 僕が出て、きくを風呂に入れた。

「初めてです。こういう風呂に入ったのは」

「だろうな」

 家老のところの風呂は、蒸し風呂のようだった。躰を洗う時だけ湯を使い、最後に上がり湯をかけて風呂から出た。

 きくの髪を解いて、シャンプーで洗った。きくはめったに髪を洗わないので、シャンプーで洗うことに驚いた。僕は指できくの髪をすくように洗った。最後はシャワーで流した。きくはシャワーを珍しがった。どうしてこんなに細かい水が出るのか、何度も僕に訊いた。

 僕は説明するのが面倒だった。

 今度は、きくにスポンジを持たせて、背中を洗わせた。

「面白い」ときくは言った。時々、シャボン玉ができる。それを見て、きくがはしゃいだ。

 その時、「ここに着物を置いときますからね」と母がドアの外から言った。母の声には棘があった。若い男女が昼間から風呂に入って、騒いでいるのだ。それに何といっても僕は、まだ高校一年生だった。

「分かった。ありがとう」

 僕はそう言うしかなかった。後が大変だぞ、とは思った。

 きくはシャボン玉を作っては消すのが、楽しいようだった。それをしていたんでは、いつまで経っても切りがないので、僕は「出るぞ」と言った。

「はい」ときくが言うと、僕はシャワーで躰をもう一度流して、それからきくにもシャワーを浴びせた。

 僕は躰をバスタオルで拭くと、自分の下着を戸棚から探して身につけ、新しいシャツを着て、洗い立てのジーパンを穿いた。

 きくの躰もバスタオルで拭いた。

 きくは「これはどうしたらいいんでしょう」とショーツを見せた。

 僕は前と後ろを確認してから、きくに僕の肩に両手をかけさせて、「右足を上げて」、「そう」、「次は左足」というようにしてショーツを何とか穿かせた。

「なんだか変な感じ」ときくは言った。

 後は着物だったから、襦袢から着物まで、きくが自分で着た。きくの着た着物は派手だった。よそ行きには良いかも知れないが、普段着る着物ではなかった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

   僕が、剣道ですか? 3

                                                      麻土 翔

 

 僕は西日比谷高校の一年生。ある日、雷にうたれて過去に飛ぶ。そこで白鶴藩の家老の奥方を救い、その家老の屋敷で生活するようになる。世話係としてきくが選ばれ、きくとの間にききょうという女の子を授かる。

 いろいろなことがあって、僕がまた現代に戻ろうとしたら、…………。

 

 僕は意識を取り戻した。病院のベッドの上だった。

 きくとききょうはどうしたのだろう。

 そう思っていると、僕の部屋に、ずぶ濡れの着物を着た女の子と赤ん坊がいる、と母の携帯に父からの電話があった。

 名前はきくと言っているそうだ。すると、きくとききょうが僕の部屋にいるのは間違いない。

 僕は、母に「携帯を貸して」と叫んだ。

「どういうことなんだ」と言う父の言葉が飛び込んできた。

「僕がすぐ行くから待っているように言ってくれ」と父に頼んだ。

 すると、女医は「今は病室を出ることはできません」と言った。

「緊急事態なんです。どうか、退院させてください」

「だから、それはできません」

「どうしてですか」

「あなたは、今、意識を取り戻したばかりです。まだ、本調子のあなたに回復しているわけではありません。少なくとも二十四時間は様子を観察します。それから、血液やレントゲンの検査も行います」

 腕には点滴の針が刺さっていた。意識を失っている間、水分と栄養をこの点滴が補ってくれていたのだ。

「今は何曜日の何時ですか」

「土曜日の午前十時です」

「それじゃあ、明日検査が終われば退院できるんですね」

「いいえ、検査は、土日はやっていません。月曜日にならないと検査はできません」

「では早くても退院は月曜日になるっていうわけですか」

「そうです。検査結果が出て、それでOKなら退院できます」

「検査結果はすぐ出ますか」

「ええ。でも、私たちが診るのには順番があるから、退院ができるとしても、午後になりますね」と女医は言った。

 僕は携帯を耳に当てた。切れていた。

「地下のコンビニに買い物に行っては駄目ですか」と訊いた。

「今、意識を取り戻したばかりだから、駄目ですね。お母さんに頼んで買ってきてもらいなさい」と女医は言った。

 そして、「じゃあ、また何かあったら呼んでください」と言って、女医と看護師は出て行った。

 僕は携帯でかけた。

 父が出た。

「何があったんだ。どうなっている」と言った。

「親父、落ち着いて聞いてくれ。女が自分の名前をきくと言ったのは、聞いたよね。きくはびしょ濡れだと言っていたよね。何か着替える物を与えてやって欲しい。できれば、風呂を焚いて、入れてもらいたい。それから、赤ちゃんの方だけれど、ききょうと言うんだ。やっぱり、濡れているんだろう。急いで、乾いた物を着せてやってくれ。頼む」

「それはわかった。お母さんに代われ」

 僕は携帯を母に渡した。

 着替える物などの場所を聞いているのだろう。

「とにかく、赤ちゃんは早く着替えさせて。わかっているわよ。すぐ行きます」

 母は携帯を切った。

 オーバーコートを手に取って、「今から帰るけれどあなたは大丈夫」と訊いた。

「ああ。そうだ、僕の物はクローゼットの中」と訊いた。

「そうよ。ここに来た時のまんま。もっとも下着なんかは新しいのと変えたわ」

「そうか。携帯も財布もあるんだね」

「携帯と財布はセーフティボックスの中よ。あ、いやだ。鍵を持って行くところだった。これが鍵よ」

「分かった」

「様子がわかったら携帯に電話するからね」

「ああ、分かった」

「じゃあ。行くわよ」

 母は病室を出て行った。

 僕は、すぐにセーフティボックスの鍵を開けた。

 中から、財布と携帯を取り出した。

 財布の中には、一万三千五百三十二円入っていた。

 僕はベッドから出ると、起き上がって、すぐに点滴の針を抜いた。

 そして、おむつをトランクスに穿き替えた。上の肌着と厚手のシャツを着て、ジーパンを穿いた。

 オーバーを持って、皮手袋をオーバーのポケットに入れた。

 財布はジーパンの尻ポケットに入れ、携帯もオーバーのポケットにしまった。

 病室のドアを開けて、外の様子をうかがった。看護師が歩いている様子はなかった。

 病室を出ると、見舞客のような風を装って、エレベータールームに向かった。病室は十三階だった。エレベーターが上がってくるのが、もどかしかった。

 誰か知っている看護師に見られはしないかと気が気ではなかった。

 やっと、エレベーターが上がってきて、ドアが開いた。中に入った。

 ドアが閉まろうとした時、看護師が入ってきた。さっき、来た看護師だった。

 僕は他の人の陰に隠れて、壁の方を向いた。

 その看護師は六階で降りていった。

 本当に心臓が止まるかと思った。

 一階に着いた。

 オーバーを着た。

 玄関から外に出た。

 タクシー乗り場に向かった。

 僕は家の住所を言った。

 運転手はカーナビにその住所を入力していた。

 それからタクシーは動き出した。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

四十

 僕は大きくくしゃみをした。目を開ければ僕はベッドの上だった。

「京介、わかる」と言う母の声が聞こえた。そして、ナースコールのボタンを押した。

 看護師が来て僕を診た。

「先生をお呼びしますからね」と看護師は言った。

 ほどなく医師が来た。

 僕の目蓋を手で開いて、ペンライトの光を当てた。

 眩しかった。

 両目を診て、「意識は戻っている」と医師が言った。

 きくとききょうが雷に巻き込まれたのは、覚えていた。途中までは一緒だったが、最後に手を離してしまった。

 目を閉じた。

 涙が溢れてきた。

 

 その時、母の携帯の電話が鳴った。

「どうしたの」と母が言った。

「えっ、何。何があったの」

 母は何が起こっているのか分からないようだった。

「冗談でしょう」と言った。

「冗談じゃないの」

 母の顔が真剣になっていった。

「それ、ほんと」

 

「どうしたの」と僕は涙を手で拭って訊いた。

「京介の部屋に、ずぶ濡れの着物を着た若い女性と赤ちゃんがいるって言うの」

「えっ」

 そんな馬鹿な、と思った。

 これは長い夢だったんだろう。違うのか。

「名前を訊いて」と僕は言った。

「名前は何て言うの」

 母は携帯を耳に当て、その名前を聞いた。

「で、何だって」

 僕ははやる気持ちでいっぱいだった。

「きく、だって」

 そう母は言った。

「えっ、そんな」

                                                              了

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十九ー2

 昼頃になって、「堤邸に行ってくる」と言うと、きくは「わたしも」と言い出した。

「きく。私も京太郎と別れがしたいんだ。分かってくれ」

「おたえさんともでしょ」ときくは言った。

「すぐ戻る」

 

 堤邸に行くと、堤は登城していて、たえと小姓と女中しかいなかった。

 座敷に上がると「今日はどうされましたか」とたえに訊かれた。

 僕は昨夜、赤い月を見た話をした。そして、以前にも同じことがあり、僕は未来に戻ったことも話した。たえに僕の話が理解できたかどうかは分からなかった。しかし、たえも、僕が突然いなくなったことは知っている。

 たえは抱きついてきた。そして、唇を重ねた。

 長い時間が過ぎた。

 最後に京太郎を抱き上げた。

 門を出る時、もう一度、たえは唇を重ねた。

「さよなら」と言うと、たえは「言わないで」と言った。

 

 家老屋敷に戻ってくると、道場に行き、相川、佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで後を託した。

「先生はどこかに行かれるんですか」

「ああ、前のようにな」

「この前のようにですか」

「そうだ」

「あの時は困ったよな」

「そうだろうな」

「でも、なんとかなります。先生が戻られるまで、しっかり道場を守っています」

「そうしてくれ」

 もう戻ることはないとは言えなかった。

 

 風呂に入った。きくは何も言わず背中を流した。流しているうちに泣き出した。

「もう、こうしてお背中を流すこともないんですね」

「そうだな」

 

 夕餉の席では、僕はそれとなく、今までのご恩に感謝の言葉を述べていた。

「何を急に言い出すんだ」と家老の嫡男が言った。

「いや、いつも思っていることなので」と僕は言葉を濁した。

 

 座敷に戻ると、きくは僕が着てきていた物を用意していた。

 僕は着物を脱ぎ、上の肌着を着て、厚手のシャツを着た。そしてジーパンを穿いてベルトを締めた。それからオーバーを着た。

 側にあった巾着はきくに渡して、本差を手にした。

 きくはきちんと正装をしていた。見送るための装束だったのだろう。ききょうも寒くないように包まれていた。

 僕は靴下とシューズを履いた。

 屋敷の門番に言って、脇の戸を開けてもらい、そこから外に出た。きくとききょうも一緒だった。

 そして、野原の方に向かって歩き出した。その後をきくがついてきた。

 空は俄に雷雲が立ちこめてきた。

「きく、お別れだ」と叫んだ。

「はい」ときくは言った。

 きくは少し離れて立っていた。

「もう少し離れていろ」

「はい」ときくは言った。

 その時、豪雨が降ってきた。

 きくもききょうも僕もびしょ濡れになった。

 頭上に稲光を伴った雷雲がやってきた。

「きく、楽しかった。お前に会えて良かった」

「わたしもです」ときくは言った。

「きく、もっとずっと一緒にいたかった」

「わたしもです」

「もう行く時間だ」

 僕はそう言うと、本差の鞘から刀を抜いて空に突き上げた。

 僕は天を見ていた。

 刀の先に神経を集中させた。そうすれば、雷が落ちてくると信じていた。

 頭上の雲が、光り、龍のような雷が落ちてきた。

 凄い圧力が僕にかかった。

 その時、上を見ていた視線が下を向いた。

 すぐ近くにきくがいた。

「馬鹿、離れろ」と僕は叫んだ。

 しかし、僕を通過した雷は側にいたきくたちも巻き込んだ。

 光の渦の中に僕たちはいた。

 きくとききょうの躰から魂が抜け出ようとしていた。このままでは、きくとききょうはこの過去の世界に取り残される。そうなれば、この野原に意識不明の状態で置き去りになる。僕は現代にいるからこそ意識不明の状態でも生きていられるのだ。しかし、こんな過去の時代だ。意識不明の者が取り残されて生き残れるわけがなかった。

 僕は、激しい光の中をきくとききょうの所に何とか行き、その躰をしっかりと抱いた。そして、魂が抜け出ないように魂をその躰に押し込み、押さえつけた。そして、一緒に光の渦に入り込んでいった。

 過去を通り抜けたようだった。きくとききょうの魂はその躰に残った。

 しかし、次の瞬間、また新しい光の渦が襲ってきて、僕の手からきくとききょうを離し、奪っていった。

 きく。

 ききょう。

 僕は叫んだ。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十九ー1

 次の日、堤邸に行った。

 たえが門の掃き掃除をしていた。

「今日、鏡様が来られるような気がしていました。お躰の疲れはとれましたか」

「ええ、このとおり」

 そう言うと、僕の手を取って指を絡ませてきた。

 玄関から座敷に上がると、堤竜之介がやってきた。

「今日は、お城ではないのですか」

「今日は非番です。明日、お城に上がります」

「そうですか」

「黒亀藩の話で、今や城は持ちきりですよ」

 僕は照れて首の後ろを掻いた。

「二十人槍や氷室隆太郎の話は随分と聞きました」

「会う人ごとに、その話をされて困っています」

 堤が笑った。

 その時、たえがお茶を持ってきた。

「また、凄いお働きをなさいましたね」

「ねっ」と僕が言うと、堤はまたも笑った。

「わたし、何かおかしなこと言いました」とたえは、困った顔をした。

 僕は、人に会う度に、二十人槍の話や氷室隆太郎との立ち合いの話をせがまれるし、そうでなければ聞かされるということを言った。

「そういうことでしたか。京太郎を連れてきますね」

「それにしても殿は上機嫌でしたな」

「ええ」

 僕は報奨金として三百両頂いた話をした。

「なるほど」

 たえが京太郎を連れてきた。僕は京太郎を抱いた。

 京太郎はすやすやと眠っていた。

「道場の方はどうです」

「おかげさまで、上手く行ってますよ。城崎の師範代もようやく板についてきたといった感じです」

「そうですか。そりゃ、良かった」

 堤と話をした後、堤邸を出た。

 

 屋敷に戻り、道場をみた。皆、稽古に励んでいた。

 すぐに座敷の方に行き、ききょうを見た。

 そうしているうちに眠ってしまった。

 

 夕方になっていた。

 風呂に入った。夕餉をとって、座敷に戻ってきた。

 障子戸を少し開けた。

 空が晴れ渡っていた。

 そこに大きな月が浮かんでいた。

「きく、今日は満月か」

「明日よ」

「そうか、やけに月が大きく見える」

 そう言った瞬間に、月が見る見るうちに赤くなっていった。

「きく、月が赤くなっている」と言うと、きくが走ってきて、月を見た。

「赤くなんかなっていませんよ」ときくが言った。

「いや、月が赤くなっている」

 僕がそう言うと、「わたしには普通の月にしか見えませんが、前にも鏡様は同じことを言われましたよね」と言った。

「その時、わたしは、昔から、赤い月を見た人には災いが来ると言いますと言った記憶があります。そして赤い月が見えた鏡様は、次の日、落雷に打たれて消えてしまった」と言った。

「あー、あの時と同じだ。鏡様がいなくなって、わたしがどんな思いをしたか、ご存じですか。もう、半狂乱になったんですよ。でも、この子が救ってくれました。お腹の中の子が暴れたのです。いえ、そう思ったのです。私がいる、そう言っているように思えたのです。鏡様がいなくなってからは、このお腹の中にいた子がわたしを救ってくれたのです」ときくは言って泣き出した。

「もう、いや。あんな思いはしたくない」

 僕は言葉を失っていた。

「これは予兆なんですよね」

「分からない」

「前と同じだとしたら、明日、鏡様は消えてしまわれる。そんなの、きくには堪えられない」

「本当に分からないんだ。だが、その時が来れば、感じる」

「今度は連れて行ってください」

「それはできない」

「どうしてですか」

「私が来たのは、未来というところからなんだ。そこには過去の人を連れては行けない」

 あー、ときくが叫ぶように泣いた。

 一晩が長かった。

 きくは僕に抱きついたまま、離そうとはしなかった。

 夜が明けても、ききょうに乳を飲ませるほかは、僕にしがみついていた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十八

 帰りも湯沢屋で一泊した。

「あーあ、いい湯だ」

 中島と近藤は上機嫌だった。大任を果たした安堵感が滲み出ていた。

 僕はひたすら疲れを癒やしていた。

 風呂から上がり、夕餉を食べると、布団が敷かれる前に僕は眠ってしまった。それだけ疲れていたのだ。

 起きたのは、昼近かった。

 二人は早く藩に戻るより、この先の別の宿でもう一泊するつもりだった。

 

 城に戻ると、もの凄く歓迎された。

 藩主綱秀の前で、番頭の中島伊右衛門と近藤中二郎が、まず二十人槍の場面を演じて見せた。

「さぁて、そこにずらりと棒状の槍が鏡殿を囲んだ」と中島が言うと、「その時だった」と近藤が続けた。

「待たれぃ、と鏡殿が言った。それでは不服である」と中島が言うと、「本物の槍と真剣での勝負がしたい」と近藤が引き継いだ。

「これには黒亀のお殿様も驚いた。しかし、本物の槍と真剣での勝負を受けて立たないわけにはいかない。そこで、本物の槍と真剣での勝負が始まった」

 二人の講談は、ここからが本調子になっていった。

 僕は疲れていたので、本当は休みたかった。しかし、そんな雰囲気ではなかった。

 二十人槍の話が終わると、今度は氷室隆太郎との立ち合いの話が始まった。

「当世随一の剣客氷室隆太郎と鏡京介の立ち合いである。黒亀藩のご当主がこれを見ずに鏡殿を帰すはずがない」と中島が言うと、「帰すはずがない」と近藤が相槌を入れた。

 こうして、宴席は夜まで続いた。しかし、僕は疲れていたので、やはり途中で帰らせてもらうことにした。

 隣に居た者に「本人に帰られては、宴席がしらけてしまう」と言われたが、疲れはどうにもならなかった。

 藩主に先に帰る無礼を詫びて、宴席を後にした。

 

 屋敷に戻るときくが出迎えてくれた。

 すぐに風呂に入り、そのまま眠った。

 翌朝、起きたのは昼頃だった。

「お疲れになったでしょう」

「ああ」

 すでに三日経っているのに、疲労感が残っていた。

 昼過ぎに、城から使いの者が来て、すぐ登城するようにと言われた。

 僕はきくに着替えを手伝ってもらって、その使いの者と一緒に登城した。

 藩主綱秀の前で、番頭の中島伊右衛門と近藤中二郎がいて、今は氷室隆太郎との立ち合いの話をしていた。側には、筆記者がいて二人の話を筆で紙に綴っていた。

  綱秀は「先程、二十人槍の話が終わって、今は氷室隆太郎の話になっている」と言った。

「余りに面白いので、記録させて読もうかと思っているところだ」

 僕はもじもじと居心地の悪い思いをするだけだった。

「そうだ、おぬしを呼んだのは報奨金をつかわそうと思ったからじゃ」と小姓に三方を持たせて来て、僕の前に置いた。

「三百両ある。今回の褒美だと思って、取っておいてくれ」と藩主は言った。

 僕は頭を下げて「謹んで頂きます」と言った。

「ついでだが、五百石で仕官してはくれまいか」と言われた。五百石といえば、なかなかの石高だった。役職に就いていない者が貰える石高ではなかった。

「その件については、謹んでご辞退させて頂きます」と答えた。

「そうか、残念なことよのう。おぬしが側にいれば何かと安心なのだがのう」

「ありがたきお言葉、心に留めおきます」

 

 三百両を貰って城から帰ってきた。

 きくに見せると、驚いた。

「この前、七百五十二両もらって、また三百両ももらったのですか。千両を超えましたね」

「ああ」

 僕は金蔵を呼んで三百両を蔵に入れた。

 

 道場に出た。

 練習中の門弟も稽古を止めて、僕の元に寄ってきた。

「二十人槍の話や氷室隆太郎様との立ち合いの話で道場は持ちきりです」と相川が言った。

「やっぱり先生は、この藩一番です」と佐々木が言った。

「そうですよ」と他の者も言った。

「分かった。久しぶりに稽古を付けるぞ」と僕が言うと、皆は散るように木刀を構えた。

 僕が道場の中央に立つと、次々に木刀で僕に向かってきた。僕は木刀でそれをかわしていった。

 小一時間ほども稽古をすると、僕も汗をかいてきた。そこで切り上げた。

 相川や佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで、今月行われる選抜試験について、訊いてみた。

「いつも通りです」と相川が答えた。

「もう慣れてきましたからね」と佐々木が言った。

 他の者も頷いていた。

「そうか、じゃあ、任せたぞ」

「はい」と六人の勢いのある返事が返ってきた。

 

 屋敷に戻り、少し早かったが風呂に入った。

 風呂を出ると座敷に向かった。

 ききょうを抱いた。

 そのうち夕餉の時間になった。

「殿は、二十人槍の話や氷室隆太郎との立ち合いの話がお好きで、今日も番頭の中島伊右衛門や近藤中二郎にその話をさせておられた。それだけじゃないぞ、二人の話を筆記者に書き取らせてもいらした」と家老が言った。僕は知っていたので、黙って聞いていた。

「鏡殿は仕官する気はないのか」とも言われた。

「五十石ぐらいなら、すぐにでも口利きするがな」と言われた。今日、藩主から五百石の仕官の話を断ってきたとは言えなかった。

 僕は首を左右に振って、その気がないことを示した。

「残念なことだな」と藩主の言われたようなことを言った。

 

 座敷に行くと、きくはききょうをあやしていた。

「もうすぐ寝ますよ」ときくは言った。

「そうか」

「今日は、疲れは取れましたか」

「ああ、道場で汗を流してきた」

「そうでしたか」

「久しぶりに門弟と打ち合うのもいいものだな」

「そうなんですか」

「何て言うか、ホッとする」

「そういうものですか」

 ききょうが眠った。

 大きなざるのようなところに敷いた布団に、ききょうをそっと寝かせた。

 そして、上に白い小さな掛け布団を掛けた。

「ききょうが眠りました」

「うん」

「わたしたちも寝ましょう」

「そうだな」

 行灯の火を消すと、きくが僕にしがみついてきた。

「寝るって言ったじゃないか」

「そう言いましたよ」

「こういう意味なの」

「他にどういう意味があるんですか」

 僕には答えられなかった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十七ー2

 試合場に出ると、氷室隆太郎は「鏡殿、おぬし本気か」と尋ねられた。

「真剣でやるということだ」

「本気ですが」

「真剣でなかったから、二天一流は本差と脇差を使ったが、私の二天一流は真剣なら両方とも本差を使うが、いいのだね」

「どっちでも同じでしょう」

「本気でそう思っているのか」

「ええ」

「私と同じ技量を持つ者を二人相手にするのと同じことだぞ」

 僕は笑った。

「そんな馬鹿な。ただ、二本剣を持っているというに過ぎません」

「笑っていられるのも、今のうちだ。真剣でこそ、二天一流の価値がわかろうというものだ」

 

 太鼓が打ち鳴らされた。

 立ち合い開始の時を知らせるものだった。

 試合場には、真剣を持った鏡京介と氷室隆太郎がいた。

 審判の侍が「始めい」の声をかけた。

 僕はゆっくりと刀を抜いた。氷室は左に走った。そして、抜刀しながら斬りかかってきた。それを受けていると、左から刀が向かってきた。僕は跳び退いて避けた。

 僕の受けが弱ければ、斬られていたところだった。

 すぐに激しい剣の応酬が始まった。左右から繰り出される剣は、一様に鋭く速かった。そして何よりも力強かった。『私と同じ技量を持つ者を二人相手にするのと同じことだぞ』と言った氷室隆太郎の言葉が冗談ではなかったことが証明された。

 僕は苦戦した。

 少しずつ相手に押し込まれてきていた。

 ここぞとばかりに打ち掛かってきた。僕は凌ぐのがやっとだった。

 いつもならスローに見える剣も、氷室の剣はスローに見えなかった。いや、スローに見えていたのだが、この時の僕にはそれが分からなかったのだ。そうでなければ、とっくに僕は氷室の剣の餌食になっていたはずだから。

 とにかく、氷室の剣に堪えた。

 堪えた後は、今度は打ち込んでいった。小手、小手、胴の要領で愚直に攻めた。攻めながらスピードを上げていった。

 今度は相手がかわす番だった。とにかく四方から剣を繰り出し、相手の隙を狙った。しかし、相手に隙はできなかった。

 だが、相手に間を与えず、どんどん攻めていく他はなかった。少しでも気を緩めると相手が攻め込んでくる。

 三十分ほど、激しいせめぎ合いが続いた。

 僕はわざと隙を作って、相手に攻めさせてみた。すると、最初の鋭さが鈍くなっていることが分かった。人は疲れるものだ。まして、二本の剣を同じ力で振り回していたのだ。人の倍も疲れているのに違いなかった。

 僕は一気に攻め立てていった。相手が必死にかわすのがやっとといった感じで攻めていった。

 そして、相手の右の刀を大きく払いのけた。と同時に肩に刀を置いた。

 僕は自分が勝ったと思った。

「相打ちだな」と氷室隆太郎が言った。

 左脇腹あたりに剣を突き立てようとしていた。それは僕が氷室の肩に剣を置いた後だった。だから、その瞬間に僕の勝ちだったが、しかし、一瞬のこと故、誰もそれに気付いてはいなかった。

 僕はさっと跳び退いた。

「この代償は高くつくよ」と僕は言った。

 そして、再び剣を繰り出した。氷室も対抗した。しかし、次第に僕の剣のスピードが彼のより勝ってきた。彼に悟られぬように僕も剣のスピードを落として、斬り合いを続けていた。

 彼の右腕が僕の脇を通過しようとした時、さっと剣を引き、峰打ちでその右腕をしたたかに打った。これは誰の目にも止まらなかったに違いない。骨の折れる音がした。氷室の右手はもう剣が持てんだろう。そして、すぐに胴を峰打ちにして気絶させた。

「勝負あり。鏡殿の勝ち」

 審判の侍の声が響いた。

 周りで見物していた侍たちが響めいた。

 

 中島と近藤が駆け寄ってきた。

「凄かった」と中島が言った。

「ほんとに良かった」と近藤が言った。

「水が飲みたい」と僕が言うと、小姓が湯呑みに水を入れてきた。

「もう一杯」

 また小姓が走って戻ってきた。

 手ぬぐいで汗を拭うと、藩主の前に行き、片膝をついた。

「怪我を負わせてしまいました」

 僕はそう言った。

「仕方がない。いい試合だった」

 藩主は一言そう言って立ち上がった。