小説「真理の微笑」

二十三-1
 次の日も午前中には真理子は姿を見せなかった。
 昼食後、リハビリが始まった。
 四階のリハビリルームに行くと、看護師が富岡修と書き込んで理学療法士を紹介した。
「矢島です、よろしく」
 まず手指の練習から入った。手首を回すところから始めて、それぞれの指が動くか確かめた。指でキツネの形を作ろうとしたが、これがなかなか上手くいかなかった。次に腕を上げる事をしたが、右は肩あたりまでしか上がらず、左は耳の近くまで上げる事ができた。
 その後は奥の個室に入った。そこには女の先生が待っていた。
「頭の働きと、どの程度、記憶が戻っているのかを調べますね」
 頭の働きは、いろいろな図形を何秒か見せられて、それと同じ図形を書く事だった。指がまだ上手くは動かないので、綺麗には描けなかったが、大体、同じようには描けた。
 次は積み木のようなものを出して、一度、形を作ったら、バラバラにし、「同じように作ってみてください」と言われた。これも何とかできた。
 次は百から七を引く計算を暗算でやらされた。上手くしゃべれなかったが、ラストまで辿り着く事ができた。
 そして、記憶について訊かれた。
「子どもの頃の記憶は」
 高瀬としての記憶ならあったが、富岡の子どもの頃の記憶などあるはずもなかった。
「いいえ」
「では事故を起こした直前はどうです」
「いいえ」
「何か覚えてはいませんか」
「いいえ」
 私は記憶喪失を装わなければならなかった。しかしどう装えばいいのか分からなかった。下手な事をして疑われるのは絶対に許されなかった。だからすべて「いいえ」で答えた。

 リハビリを終えて病室に戻ると、真理子が来ていた。
 もうそれがほとんど習慣のようにキスをして、真理子はプリンタで打ち出した社屋の資料をベッドの上のテーブルに並べた。
「大体、こんなところね」
「今の所は何平米なんだ」
「そうね。二百はないわね、百九十ぐらいかしら」
「だったらその二倍ぐらいの所にしろよ」
 真理子は呆れたような顔をした。
「あなた、一体いくらかかると思っているのよ」
「せいぜい月五百万ぐらいだろう」

小説「真理の微笑」

二十二
 真理子が来るのが待ち遠しかった。
 伝えたい事や、やって欲しい事はいくらでもあった。
 今、来たら、まずカード型データベースの事を訊き始めるだろう。
 だが、昨日の話は会社移転の事だった。今日、真理子はその事を会社の経理と営業に相談して、その事でいっぱいいっぱいのはずだった。
 夕食後、午後八時近くになって真理子はやってきた。
 この前連れてきた営業の田中ともう二人いた。一人はバグの件の時に連れてきた者だとは分かったが、名前は覚えていなかった。
「ああ。社長、こんなになって」
 年のいった見知らぬ男が近づいてきた。真理子が素早く「経理の高木さんよ」と言った。
 私はきょとんとしていた。そう言われても、初めて見る顔だった。
「社長、わかりますか、私が……」
 私は「いいや」と言った。高木は私の声に驚いたようだった。初めて私の声を聞く者は、皆、驚いた。
 高木が真理子の方を振り返ると、「記憶喪失なの。それに喉も痛めているの」と答えた。
「そうですか。無理もありませんね。大変な事故でしたからね。私、すぐに病院に駆けつけたんですよ、でも、社長はその時は意識がなかった」
「そうでしたわね」
「でも、意識が戻られて良かった」
「…………」
「聞きましたよ、会社移転の話」
 高木は急き込むように言った。
「いいじゃないですか。今の所だと手狭だし、不便だし。前から社長、おっしゃってましたよね、ヒット商品出したら、移ろうって。ちょうどいい機会だと思いますよ」
 高木は田中を引っ張ってくるようにして、「田中も喜んじゃって……」と言った。
「痛いですよ、高木さん」
 田中は私に向き直って「でも、いい決断だと思いますよ。トミーワープロが売れている今がチャンスだと思いますね」と言った。
「そうか。他の人たちも同意見だと考えていいんだね」
「ええ」
 高木と田中が同時に言った。
「分かった。だったら、物件探しから進めてくれ。早い方がいい。今年中に移転するぞ」
 後、三ヶ月しかない事は分かっていた。
「急ですけれど、できない事もないでしょう」
「いくつか物件が見つかったら、知らせてくれ」
「わかりました」
 高木と田中が下がった。
「そこの……」
 病室の隅にいた社員に声をかけた。
 真理子が「西野さんよ」と言った。
「西野君か。確か、バグの件だったよね」
「はい。修正プログラムは作りました。該当する部分を含めた一部を削除して、そこを書き換えるプログラムになります」
デバッグは大丈夫なんだね」
「ええ、大丈夫です。何度も確認しましたから。今、修正プログラムを入れたフロッピーディスクを制作中です。今週中にはできます」
「修正プログラムの方は、雑誌の付録に入れてもらえるように手配しました。フロッピーディスクを付けていない雑誌には広告で修正プログラムの入手方法を載せました」
 営業の田中がそう言った。
「そうか」
「では……」と言って、帰ろうとしていた三人に「ちょっと待ってくれ」と言った。
「今、新製品の開発はどうなっている」と尋ねた。
 三人は顔を見合わせた。
「新製品ですか」
 経理の高木が訊いた。
「そうだ」
「グラフィックソフトと文書変換ソフトの方は順調に進んでいますよ」
「それじゃない」
「もしかして、カード型データベースの事ですか」
「そうだ」
「それは社長案件で、本来ならトミーワープロが売り出されて、その様子をみて半年後ぐらいに発売する予定になっていましたが、事故に遭われたので全く進んでいません」
 西野が答えた。
「β版のようなものはあるのか」
 西野が「ありません」と答えた。
 私はほっとした。しかし、北村がメインパソコンからカード型データベースのプログラムも持ち出していた事は分かっていた。富岡のパソコンにそのデータが入っているのだろう。カード型データベースの事に詳しい者がいれば、製品化する事は難しくないはずだった。北村が生きていれば、トミーソフト株式会社から売り出していたかも知れない。
「分かった。今、私はこんな状態なので、当面、カード型データベースの事は凍結にする。いいな」
「わかりました」
「今は、会社の移転とトミーワープロの事に集中しよう。それからグラフィックソフトと文書変換ソフトはそのまま続けてくれ」
「はい」

 三人が出て行くと、どっと疲れが襲ってきた。
 カード型データベースについての心配はないようだった。トミーワープロのバグも大したものではないから、修正プログラムも簡単に作れたのだろう。後は配布だけだ。
 一番、面倒なのは会社移転だが、場所さえ決まれば、どうにでもなる。
 真理子が「遅くなってごめんなさいね」と言いつつ、キスをしてきた。
 富岡はどんな風に真理子とキスをしていたのだろうか、という事がやはり頭を過ったが、真理子の唇の誘惑には勝てなかった。

 

小説「真理の微笑」

二十一
 会社移転となれば、形式的にでも取締役会と株主総会を開かなければならないだろう。
 まだ、私には株主の事も、誰が取締役になっているのかさえも分からなかった。どんな会社組織になっているのかも把握していないのだ。これらの事は真理子を通して、速やかに知らなくてはならなかった。
 会社の約款と、議事録を見れば、これまでの事は分かるだろう。
 思いつけば、すぐにでも手を付けたくなった。躰が自由であれば、会社に行けば済む事が、今はまどろっこしくてしょうがなかった。

 今日は午前中には、真理子は現れなかった。会社移転の事を誰かに話しているのだろう。突然の話だから、そう簡単に切り上げる事はできないのに違いない。
 退屈していた私は、パソコン雑誌を広げていた。ラップトップパソコンの記事が出ていた。ラップトップというのは、膝の上に載せて操作できるといった種類のパソコンを意味していた。通常はパソコン本体とディスプレイは分かれているが、ラップトップパソコンは、それが一体化していた。その最上位機種は五十万円を超えていた。しかし、今の私にはそれが欲しくて仕方がなかった。
 パソコンがあればできる事が広がる。病室の隅に電話の端子があるのが見えていた。モデムか音響カプラを使えば、パソコン通信もできるようになる。社内にある自分のパソコンにアクセスする事も可能になるのだ。真理子が来たら、ラップトップパソコンと必要な機器一式を購入するように話そうと思った。

 昼食を終えて、しばらくすると看護師が来て、「さあ、シャワーに行きましょうね」と言った。私は真理子が用意してくれていたバスタオルとフェイスタオルに肌着を車椅子の膝の上に置いた。そして、看護師が持ってきたレンタルのパジャマがその上に載せられた。
 私は一階下の浴室に向かった。
 脱衣室には、もう一人の看護師が待っていて、膝に載せていた荷物は、傍らの籠に入れられた。パジャマを脱ぎ、包帯と紙おむつを取られて私は真っ裸になった。
 看護師二人はゴムでできたつなぎのようなものを着ると、ゴム長靴にゴム手袋を嵌めた。私を浴室の椅子に座らせると、一人が壁のポールにかけられていたシャワーへッドを掴み、湯加減をみて、私の肩から全身にかけた。もう一人がシャンプーを手に取り泡立てた後、頭に付けてゴム手袋で洗った。その後は、ガーゼのようなものに液体石けんを染み込ませて、私は二人に全身を洗われた。私は終始、目をつぶっていた。二人のどちらかが性器を洗ったのだが、それも分からなかった。
 石けんまみれになった私は、シャワーで丁寧に洗われた。その後、浴室から出て、タオルの敷かれた椅子に座らされて、フェイスタオルで頭を、バスタオルで躰を拭かれた。そこで、新しい紙おむつをはき、肌着と新しいパジャマを着た。包帯は巻かなかった。長袖に隠れていない手首から先は、ケロイドにはなっておらず綺麗に見えた。
 着替えが終わると、車椅子に乗った。そして、この浴室に連れてきた看護師に車椅子を押されて部屋に戻った。二ヶ月ぶりに躰を洗ったのだ。気持ちよくないわけがなかった。包帯が取れたのも大きかった。急に身軽になった気分がした。
「さっぱりしたでしょう」と、看護師が訊いたので、「ええ」と答えた。
「来週からは週二回、火曜日と金曜日にシャワーに入れます」
「そうですか」
「今日は軽く流すように洗っただけだけれど、皮膚もしっかりしてきたから、そのうちスポンジを使って洗えるようになりますからね」
「そこのシャワーはいつから使えるようになるんですか」
「まだまだです。手足のリハビリが始まって、自分で立てたり、躰が洗えるようにならないと駄目ですね」
「そうですか」
 私は自分の両手を持ち上げてみて、まだまだ無理そうだと思うと、残念だった。
「それじゃあ、ベッドに上がりましょうね」
 車椅子がベッドの横に着くと、私は車椅子から降りて、腰をベッドの端に降ろした。そして、看護師に両脇を抱えてもらい、ベッドの中央に腰を移動させると、足をベッドに乗せた。躰がベッドの中央に来ると、ベッドを高く上げた。
「明日から、午後、リハビリが始まりますよ」
「えっ、そうなんですか」
「ええ。今のように車椅子に自分で乗れるだけでなく、操作して動かせるようにならないと不便でしょう」
「それはそうですが、できるようになるんですか」
「もちろん、できますよ。努力次第ですけれどね」
「頑張ります」

 看護師が出て行くと、富岡の手帳を見た。インタビューは五月半ばだった。すると、その直後に発売された雑誌にインタビュー記事が載った事になる。
 私は、その記事を読んで、怒りでその雑誌を投げつけたものだった。
 手帳を見ていくと、来年四月にも新しいソフトを発売する事になっていた。それはカード型データベースソフトらしかった。
「カード型データベースソフトだと……」
 私は再び怒りに躰が包まれた。
 おそらくそれも(株)TKシステムズが開発していたものに違いなかった。(株)TKシステムズが開発していたのは、カード型データベースソフトといっても、基本は表計算ソフトだった。見た目がカード型データベースソフトに見えるというだけだった。
 通常のデータベースソフトは、入力項目のフォーマットを作らなければならない。どの項目に何のデータを入力するのか、最初に決めなければならない。これが面倒なのだ。カード型データベースソフトは、白紙状態のカードに見立てたページという概念のディスプレイ画面の任意の位置に、入力したい項目名を書き、その隣に入力するデータのサイズ(半角で何文字とか)を決めたら枠を作る。これがデータ入力領域になる。この作業を、ディスプレイ一画面を一枚のカードに見立てて、全部行う。それが済んだら、入力フォーマットのできあがりだ。後は、カードにデータを入力して、改ページしたら次のデータが打てるようになる。基本が表計算ソフトだというのは、入力項目は最初の行になっていて、次の行には、そのカード一枚分のデータが入力されているからだった。例えば、カードを何枚も入力していけば、表計算ソフトのように表示させた場合、名前の列にはずらりと名前が並ぶ。名前の前か後に「ふりがな」の項目を付けておけば、あいうえお順に並べ替える事もできる。
 ワープロソフトは北村がリーダーとなって開発していたが、カード型データベースソフトは私が中心になって開発していたものだった。ただ、ワープロソフトに表計算ソフトを組み込む際に、北村には手伝ってもらった。そのカード型データベースソフトまで富岡に渡していたというのか。
 確か、トミーソフト株式会社はワープロソフトでは実績があったが、カード型データベースソフトには手を出していなかったはずだった。それよりもグラフィックソフトに力を入れていたはずだった。
 …………
 カード型データベースソフトだと……。その時、私はある事を思い出した。
 私は自分のプログラムにちょっと分からないように妻と息子の名前を入れていたのだった。それはヘルプメニューのバージョン情報に入れていた。使用者名に私の名前を入れ、法人名を(株)TKシステムズにし、ユーザーIDを0000-0000-0000とすると、ユーザ名の私の名前の隣に妻と息子の名前が現れるような仕掛けを作っていたのだった。
 これをそのまま生かしておいては致命傷になる。
 ごく初期のプロトタイプはパソコンにインストールしなくてもフロッピーディスクだけで動くものだった。簡単なプロテクトはかけてあったが、北村なら外せるだろう。それを富岡に渡していたら、そして、富岡が誰かにやらせるようにフロッピーディスクのコピーでも作っていたら……。考えるだけでもぞっとした。もし、そうなら何としてでもすべてのフロッピーディスクを集めてそれを消してしまわなければならない。誰かが私の仕込んだものを偶然発見するとも限らないのだから。開発が進んでいなければいいのだが、と思った。β版が作られて、無差別に社外に持ち出されたらおしまいだ。

 

小説「真理の微笑」

二十
 昼過ぎに体温と脈拍を測りに来た看護師が「明日の午後、シャワーをしましょうね」と言った。
「そこでですか」と、病室に備わっているシャワー室を見て言った。声はまだ上手く出せていなかったが、看護師も聞き取る事ができるようになっていた。
「いいえ、下の階の共同浴場でです。もう包帯はしませんから、上だけでも肌着があった方がいいけれど……」
「あると思うんですけれど、なければ妻に持ってこさせますよ」と言った。しかし、私は真理子が来たら一階の売店で肌着を買おうと思っていた。この二ヶ月と少しで私は随分と痩せてしまっていたからだった。それよりも何よりも、富岡が着ていた肌着なんて着たくもなかった。

 真理子は六時の夕食の後にやってきた。今日は遅かった。
「何かトラブったのか」
 もう習慣のようになっているキスの後に、私は尋ねた。
「そうじゃないんだけれど、サポート要員が少なすぎて、サポート・サービスが追いついていないのよ。開発部門の人たちまで電話対応に追われていて、大変だったの」
「そうか」
「このままじゃあ、通常業務にも支障をきたしかねないわ」
「そうだな」
 トミーソフト株式会社へは行った事がないので、どんな規模の所でやっているのか分からなかった。(株)TKシステムズなら、こんなヒット作を出したら、会社移転するしかない事は目に見えていた。
 私はどうしたらいいのだろう。と考えているうちに、閃くものがあった。さっき富岡が着ていた肌着なんて着たくもないと思った事が会社についても言えるのではないのか。そうだとしたら会社を新しくしてしまえばいいのだ。それには会社移転は好都合ではないのか。そして、会社移転に合わせて、社長室の事務用家具も含めて内装なども一新してしまえば、会社から富岡の痕跡を少しでも消す事ができる。一石二鳥ではないか。

「こんな事言うのは情けないのだが、会社がどんな所だったか分からないんだ」
「思い出せないの」
「ああ。何処にあるのかも、覚えていない」
 真理子は困った顔をした。
「そこは狭いのか」
「狭いって言うか……」
「今は手狭になっているんだね」
「そうね。バイトでオペレーターを何人か雇ったんだけれど、もう限界ね」
「会社移転しよう、もっと広い所に」
「それはそうしたいけれど、今のあなたの状態じゃあ……」
「俺が病院にいたって、会社移転なんて簡単にできるさ」
 真理子は私の顔を見た。私は真剣な表情をしていたのだろう。すぐに「経理と相談してみる」と言った。

 北村と渋谷界隈を歩いた事がある。いくつかのビルを見て、あそこに会社を持ちたいな、と言っていた事を思い出していた。
 表通りはどこも名のある会社の看板が並んでいた。しかし、表通りを一つ入れば、名前の知らない幾つもの会社が並んでいた。そんな所の方が性に合っていた。
 私たちは勝手に「あそこに決めた」と指さしていた。
 結局、真理子と話し合って、会社移転の話は、経理と営業に相談して決める事にした。

 私は、真理子に明日のシャワーの話をした。それで売店に肌着を買いに行く事にした。看護師を呼んで自分で車椅子に乗ると、私と真理子は一階の売店に降りていった。
 肌着は幾種類もあるわけではなかった。白のランニングシャツと、半袖と長袖のそれぞれS・M・L・LLしかなかった。私はMの長袖を選んだ。腕にはケロイドが残っていたからだった。バスタオルとフェイスタオルも買った。
 甚平のようなパジャマは毎日着替えていた。それはレンタルだった。バスタオルとフェイスタオルもレンタルできたが、毎日、シャワーを浴びるようになってから、レンタルすればいいと思って、レンタルはしていなかったのだ。
「ようやく、躰を洗えるようになったのね」
「うん」
「わたしも何か手伝える事あるかしら」
「いや、いいよ」
 私はお腹も背中もケロイド状態だという事は分かっていた。真理子が富岡の躰をよく見ていなかったとしても、躰つきを見て富岡ではないと思わないとも限らなかった。
「それより、会社移転の方の話を進めておいて欲しい。心に留まった物件があるなら、チラシでもなんでもいいから見せて欲しい」
「わかったわ」と言った後、「ほんとは裸を見られるのが恥ずかしいんでしょう」と珍しく真理子は冗談を言った。
「馬鹿」
 私は右手で真理子のおでこを押した。

小説「真理の微笑」

十九
 次の日、真理子は手帳と富岡のインタビュー記事が載った雑誌を持ってきた。
「これでいい」と真理子が訊くので「うん」と頷いた。
 その時、医師が入ってきた。ドアをノックしたのだろうが、気付かなかった。
 昨日の採血とレントゲンの結果を伝えにきたのだった。
「腎臓は、一時は透析も考えたくらいでしたが、随分と回復してきましたよ。肝機能の数値も良くなっている。皮膚はもう安定してきているので、包帯は明日取りましょう。手と足の骨折は、ほとんどくっついているんですが、肘と膝はまだ保護が必要なので、もう少しっていうところですね」
「歩けるようになるんですか」と真理子が訊いたが、医者は首を横に振った。
「短い距離なら、松葉杖でも移動できるでしょうが……」
 それは車椅子での生活が待っていると言われているのと同じ事だった。
「膝の損傷が激しいので、普通に歩くというのは難しいでしょう」
 私は絶望的な気分になった。私が気落ちしている事を真理子も気付いたのだろう。
「大丈夫よ。わたしが足になるから」
 彼女はそう言った。その言い方が何故か嬉しそうに聞こえた。
 自由に歩けないという事は、真理子の目を盗んで、夏美や祐一に会いに行く事ができない事を意味した。もちろん、夏美や祐一に直接会うつもりはない。遠目にでもその姿を見る事ができればいいぐらいにしか考えていなかった。その些細な願いもできそうにはなかった。
「頭の方は、脳に損傷も見られませんし、外科的にいえば何の問題もありません。ただ、記憶が失われているというのは、原因は事故によるショックとしか言いようがありません」
 医者がそう言うと、真理子はすぐに「全部を忘れていると言うのではないんですよ。プログラムの事はよく覚えていたし……」と言った。
「もちろん、全部の記憶を失っているわけではないと思いますよ。部分的に記憶があるというのは、よくある事です。第一、私の話している事が理解できているでしょう。言語能力は失われていないわけです。そのうち、記憶を取り戻すという事もあるでしょう」
 そう言うと彼は椅子から立ち上がった。「では、これで……」と、医者は部屋から出て行った。真理子はドアまで見送ったが、振り向いたその顔は決して暗くはなかった。私は車椅子生活をしなければならない事に、かなりショックを受けているにもかかわらず、真理子の顔は逆に輝いて見えた。そんな真理子の口から出た言葉が「急いで、おうちをリフォームしなければね」だった。
「えっ」
バリアフリーにするのよ。一階と二階全部」
「…………」
「あなたが退院してくるまでに改修しておかなくちゃ」
 真理子の事は、元々知らなかったが、彼女がこんなにも行動的だったとは分からなかった。今までは、ただ見た目で判断していただけだった、と思った。
「ありがとう」と私が言うと真理子は、不思議そうな顔をした。
「どうした」
 私がそう言うと、「えっ、だって、あなたがそんな事言うなんて……」と答えた。
 私は富岡を知らなかった。だから、自然と出た言葉が、富岡が普段は決して言わない言葉とは知らなかったのだ。まずいと思ったが、「事故のせいだろう。事故が性格を変えたのかも知れない」と、上手い言い訳ができない代わりに、適当な事を言って誤魔化した。
「そうね、そうかもしれない」

 私は、真理子が持ってきた手帳を開いてみた。びっしりと癖のある文字でスケジュールが埋まっていた。入院前のある日付をめくった。北村が事故を起こした日だった。
 星印がついていてPM2:00と書かれていた。そういえば、あの日、北村を街で見かけたのは二時半頃だったろうか。私はある会合の帰りで、会社からは離れた所だった。
 手帳を遡って見ていくと、何箇所かに星印と時間が記入されていた。北村と接触を持った日時だと思われた。
 新しいソフトを開発していた頃には、二週間毎に会っていたようだ。手帳には、今年の初めから星印が付いていたから、北村と富岡が出会ったのは、去年だろう。
 午後五時以降は、違うイニシャルが毎日のように付けられていた。
「何か思い出した」
「いいや」と言い、手帳をめくりながら、「俺はどんなんだったのだろう」と呟いた。
「会社人間だったのかな」
 高瀬だった頃の私は、七時に夏美と祐一と一緒に夕食をとる事にしていたから、六時には退社した。社員たちにも六時には帰るように言ったが、北村は遅くまで残業していたようだった。それが富岡のためだったとは、気付くよしもなかった。
「あなたが、会社人間?」
 真理子は呆れたように言った。
「違うのか」
「さぁ」と、真理子ははぐらかした。だが、その様子からすれば、違うような気がした。
 それにしても、あの午後五時以降に付けられたイニシャルは何なのだろう。毎日、接待でもしていたか、されたのだろうか。私も接待したり、されたりする事はあったが、ごくたまにだった。
 今度はインタビュー記事の方を読んだ。最初に目に飛び込んできたのは、富岡の写真だった。右足を下にし左足を上にして組んで、椅子に座っていた。その左膝の上に右手の親指が上に来るように両手を組んで置いていた。こうした座り方や手の組み方は、個人差がある。つい、ベッドの上で手を組んでみた。普通に組むと、左親指が上に来た。慌てて組み替えた。そんな私を見ていたのだろう。「何してるの」と真理子が不思議そうに言った。手を雑誌に戻して、「いや、何でもない」と言ったが、ひやりとした。うっかりやっていい事ではなかった。真理子がいなくなってからしても良かったのだ。
「良く写っているわね」
「ああ」
 私は次のページを開いた。こちらは顔だけがクローズアップされた写真が載っていた。見たとたん、咄嗟に雑誌を閉じたくなったが、今はインタビュー記事を読む事に集中すべきだと思い直した。
 ページを前に戻した。今後、どのようなソフトが流行ると思いますか、という質問に対して、『まず、ワープロソフトだと思いますね。今、パソコンはゲーム機のように思われていますが、事務処理能力は高いですから、質の良いワープロソフトが出てきたら売れると思いますよ。今、開発中のワープロソフトは画期的ですからね。世に出れば、きっと評価されると思います』と答えていた。
 いけしゃあしゃあと自分で作りもしないソフトの事を持ち上げて、しゃべっていた。読むだけでムカムカしてくるが、ここは落ち着かなければならなかった。私は富岡なのだ。高瀬ではない。そして、側に真理子もいる。
「ここで言っている事、みんな、あなたの言ったとおりになったわね」
 真理子は私に顔を向けてそう言った。褒めているのは分かっていたが複雑な気分だった。
 インタビュー記事は編集してあるから、そこからは富岡の生の言い癖はあまり読み取れなかった。ただ、自己主張が強く、自慢したがり屋だという事は分かった。
「き……」
「えっ」
「君の言う通りかも知れないが……」と言いかけ、真理子をどう呼んだらいいのか、分からなかったので、慌てて止めた。富岡なら「君」と言うだろうか。「お前」と言いはしないだろうか。真理子の事をどう呼ぶのか、考えた方がいい、と思った。それで「きょうは、これから会社に行くのか」と言い直した。
「ええ」
「毎日、大変だね」
「そうでもないわ。これも慣れね」
「そうか」
「サポートで大忙しよ。何しろユーザー数が何十倍、いえ何百倍にもなったんだから」

 真理子は夕方に来ると言って病室を出て行った。
 真理子が出て行くと、私は週刊誌を隅から隅まで見た。蓼科の事故の事は出ていなかった。しかし、突然、失踪した某ソフトウェアの社長の事については、一誌だけが記事を書いていた。まず、社長の失踪する二ヶ月ほど前に専務が交通事故で亡くなった事が報じられていて、それで会社が見る見るうちに傾いていき、遂には社長までが会社を捨てて失踪した、という書き方になっていた。会社は倒産し、自宅も手放して、途方にくれる夏美と祐一の姿が目線は隠されていたが、妻の実家から出てくるところを、それと分かる形で写真に撮られていた。それを見て、私は胸が締め付けられるような思いがした。

 

小説「真理の微笑」

十八-3

 一階の売店は普通のコンビニとあまり変わりなかった。違っていたのは、ドラッグストアのように紙おむつや包帯などのようなものも数多く、何種類も売られている事だった。
 私は角の書籍コーナーに連れて行ってもらって、雑誌を見た。パソコン雑誌は二つしか置いてなくて、いくつかの週刊誌と一緒に買い物かごに入れた。
「これでいい」と真理子が訊くので、私は頷いた。レジで会計を済ませると病室に戻った。

 パソコン雑誌を開くと、目次の次には、トミーソフト株式会社のワープロソフトの広告がバーンと大きく見開きで出ていた。真理子が後ろから覗き込むように見ていた。
「凄いでしょう」という声とともにいい匂いが漂ってきた。何もかも忘れたくなった。
 本来なら(株)TKシステムズの広告として、ここにそのソフトが載っているはずだった。でも、今ここに載っているのはそうじゃない。トミーソフト株式会社のものとして載っている。ここの場所に広告をうつのは、(株)TKシステムズの夢だった。しかし、それは叶わなかった。もはや、永遠に叶わない夢になってしまった。
 だが、一方、表面的に見れば、皮肉な事に私は成功者になっていた。だから、何も考えなければ、その成功者として、私は私の果実を受け取ってもいいはずだった。美しい妻を抱き寄せて、その成功に浸れば済む話だった。
「何を考えているの」
 真理子が後ろから、私の首に腕を巻き付けるようにしながら訊いた。
 私は今考えていた事を振り払い、パラパラとパソコン雑誌のページをめくった。トミーソフト株式会社が売り出したワープロソフトの記事が多くを占めていた。
「こんなにも載っている」と見せると「そうね」と真理子は言った。
 トミーソフト株式会社の広告は今までも見てきた。しかし、雑誌の最後の方に載せているのが関の山だったはずだ。
 トミーソフト株式会社が売り出したワープロソフトの正式名称は「TS-Word」だったが、誰がそう言い出したかは分からないが、すでにトミーワープロで通用していたし、もはやそう呼ばれていた。特集記事も「トミーワープロのすべて」と銘打たれていた。TS-Wordはトミーワープロの横に括弧書きで添えられていた。もう一冊のパソコン雑誌もトミーワープロを特集していた。私が入院している間に、トミーワープロはビジネスソフトのトップの座を駆け上がっていたのだった。
 パソコン雑誌の記事の中にも、私が事故を起こして入院中だという事が書かれていた。書かれてはいたが大した内容ではなかった。
 本当は週刊誌の方が読みたかったが、それは真理子のいるところではやめた。自分の事故の後追い記事を捜している事は、真理子には決して気付かれたくなかったのだ。

 

小説「真理の微笑」

十八-2

 キスをしたが、私の頭はさっきの事で占められていて、いつもよりは淡白だったかも知れなかった。真理子がちょっと変な顔をしたからだった。だが、気にしているわけにもいかなかった。
「会社の方はどうだった」
「大丈夫よ。うまく行っているわ」
「そうか」
「あなたの方は、どお」
 今日、眼科の検査があった事は黙っていた。かわりに「退屈で仕方がない」と答えた。
「良くなっている証拠ね」と、真理子が笑った。
「明日来る時、私の手帳を持ってきて欲しい」と言うと真理子は不思議そうな顔をした。
「どうした」
「今、わたし、って言った」
「それがどうした」
「変ね、いつもは俺って言うのに」
 私の顔がみるみるうちに青ざめていった。顔色を見られたくなかったので俯いた。
「記憶を失っているからだろう」と答えたが、しまったと思った。会話の中で自分の事をどう呼ぶのかについては、考えていなかったからだ。富岡なら、「俺」って言いそうだった。何故、気付かなかったのだろう。いつまでも俯いているのは不自然だったから、顔を上げて「それと、この前、インタビューした記事の載った雑誌も。それと……」と、続けようとしたら、真理子が人差し指で私の唇を封じた。
「気になるのはわかるけれど、無理はだめよ。今は躰の方が大事。早く治してね」
 そう言った後、真理子は少し何かを考えているようだった。
「でも、いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」
 違う! 富岡の手帳は別荘にある。富岡は別荘から忽然と姿を消してしまった、そういう筋書きだった。だから、富岡の別荘から持ちだしたものは、富岡を除いては何もないはずだ。普段、持ち歩いている手帳があるとしたら、それは机の上か引出しの中だろう。だが、机の上も引出しもよくは見ていなかった。だから、富岡の手帳が何処にあるかなどは知らなかった。
「いや、手帳は持って出なかった……と思う」
「事故前の記憶が戻ったの」
「いや、そう思うだけだ」
「どうして」
「どうしてって、理由など……」
「だって、東京に戻ろうとしたんでしょ」
 私は首を左右に振った。
「やっぱり、事故前の記憶が戻ったんじゃないの」
「そうじゃない」
「そう。じゃあ、どうして普段着で車に乗ったの」
 どういう事なのだ。真理子が、富岡が普段着だった事を何故知っている?
「あなたが、意識をなくしているひと月の間、わたしは何もしなかったわけじゃないのよ」
「…………」
「警察の人に案内してもらって、事故現場を見に行ったわ。保険の調査員も一緒だった。もちろん、わたしはわたしの車で行ったけれど。事故現場は急カーブの手前だった。そこでブレーキをかけたけれど間に合わなかったのね。ガードレールを突き破って崖下に落ちてしまった……。車は大破してしまったけれど、こうして助かったのが、奇蹟的なくらい」
 私は、真理子の言っている事を一言も聞き逃さないようにしていた。
「それから別荘に行ったわ。合鍵を持っていたからそれで入ったの。警察の人とは事故現場で別れたけれど、保険調査員には、上がってもらってお茶を出したわ」
「…………」
「ジャケットとズボンがクローゼットの中にあったの。ジャケットの中には財布もあったわ。そして、あなたの言っている手帳は机の上だった。だから、東京に戻ろうとしていたんじゃない事は、すぐにわかった」
 分かっていて、真理子は「東京に戻ろうとしたんでしょ」と訊いたのだ。その前に、それが机の上にある事を知っていたにもかかわらず「いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」とも言っているのだ。真理子は、明らかに私を試していた。私の記憶喪失を疑っているのだ。いや、それだけではないかも知れない。
「それにね。不思議なのは、お酒を飲んでいたあなたが、どうして車を運転しようとしたのかなの」
 富岡のコップを拾った記憶が、まざまざと蘇ってきた。確かに富岡は酒を飲んでいた。
「そんな事分からないよ、どうしてなのか。第一、酒を飲んでいた事も覚えていない」
「そうよね、事故前の記憶がないんだものね」と言ったので「ああ」と応えた。
 真理子がそれで納得しているわけではない事は分かっていた。分かっていたが、どうにもならなかった。
「それで手帳はどうした」
 私は、どうにもならない事に目をつぶって、訊きたい事を訊く事にした。
「もちろん、持ってきたわ。財布や服も一緒に」
「それなら、明日、持ってきてくれ」
「いいわ」
 空気が重苦しかった。今はこの状況から解放される事だけを望んでいた。
「一階に売店があったよね」
「ええ」
「車椅子で買物に行けるかな」
「欲しいものがあるのなら、買ってきてあげるわよ」
「あ、いや。自分で行ってみたいんだ。雑誌なんかも選びたいし……」
 私がそう言うと、真理子は「そうよね、退屈だって言っていたものね。いいわ、看護師に訊いてくる」と言って出て行った。真理子が出て行くと、ホッと一息つけた気分だった。
 真理子は、すぐに車椅子と看護師を連れて戻ってきた。
 看護師が車椅子に私が自分で乗るのを確認すると、真理子は包帯だらけの姿に甚平のようなパジャマを着ている私を見て、病室備え付けのクローゼットから薄手のカーディガンを取り出して、私に羽織らせた。一階の売店に行くのだから、人目が気になったのだろう。
 病室を出ると、「あとはわたしが……」と真理子が言い、看護師はナースステーションに戻って行った。