小説「真理の微笑」

十八-2

 キスをしたが、私の頭はさっきの事で占められていて、いつもよりは淡白だったかも知れなかった。真理子がちょっと変な顔をしたからだった。だが、気にしているわけにもいかなかった。
「会社の方はどうだった」
「大丈夫よ。うまく行っているわ」
「そうか」
「あなたの方は、どお」
 今日、眼科の検査があった事は黙っていた。かわりに「退屈で仕方がない」と答えた。
「良くなっている証拠ね」と、真理子が笑った。
「明日来る時、私の手帳を持ってきて欲しい」と言うと真理子は不思議そうな顔をした。
「どうした」
「今、わたし、って言った」
「それがどうした」
「変ね、いつもは俺って言うのに」
 私の顔がみるみるうちに青ざめていった。顔色を見られたくなかったので俯いた。
「記憶を失っているからだろう」と答えたが、しまったと思った。会話の中で自分の事をどう呼ぶのかについては、考えていなかったからだ。富岡なら、「俺」って言いそうだった。何故、気付かなかったのだろう。いつまでも俯いているのは不自然だったから、顔を上げて「それと、この前、インタビューした記事の載った雑誌も。それと……」と、続けようとしたら、真理子が人差し指で私の唇を封じた。
「気になるのはわかるけれど、無理はだめよ。今は躰の方が大事。早く治してね」
 そう言った後、真理子は少し何かを考えているようだった。
「でも、いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」
 違う! 富岡の手帳は別荘にある。富岡は別荘から忽然と姿を消してしまった、そういう筋書きだった。だから、富岡の別荘から持ちだしたものは、富岡を除いては何もないはずだ。普段、持ち歩いている手帳があるとしたら、それは机の上か引出しの中だろう。だが、机の上も引出しもよくは見ていなかった。だから、富岡の手帳が何処にあるかなどは知らなかった。
「いや、手帳は持って出なかった……と思う」
「事故前の記憶が戻ったの」
「いや、そう思うだけだ」
「どうして」
「どうしてって、理由など……」
「だって、東京に戻ろうとしたんでしょ」
 私は首を左右に振った。
「やっぱり、事故前の記憶が戻ったんじゃないの」
「そうじゃない」
「そう。じゃあ、どうして普段着で車に乗ったの」
 どういう事なのだ。真理子が、富岡が普段着だった事を何故知っている?
「あなたが、意識をなくしているひと月の間、わたしは何もしなかったわけじゃないのよ」
「…………」
「警察の人に案内してもらって、事故現場を見に行ったわ。保険の調査員も一緒だった。もちろん、わたしはわたしの車で行ったけれど。事故現場は急カーブの手前だった。そこでブレーキをかけたけれど間に合わなかったのね。ガードレールを突き破って崖下に落ちてしまった……。車は大破してしまったけれど、こうして助かったのが、奇蹟的なくらい」
 私は、真理子の言っている事を一言も聞き逃さないようにしていた。
「それから別荘に行ったわ。合鍵を持っていたからそれで入ったの。警察の人とは事故現場で別れたけれど、保険調査員には、上がってもらってお茶を出したわ」
「…………」
「ジャケットとズボンがクローゼットの中にあったの。ジャケットの中には財布もあったわ。そして、あなたの言っている手帳は机の上だった。だから、東京に戻ろうとしていたんじゃない事は、すぐにわかった」
 分かっていて、真理子は「東京に戻ろうとしたんでしょ」と訊いたのだ。その前に、それが机の上にある事を知っていたにもかかわらず「いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」とも言っているのだ。真理子は、明らかに私を試していた。私の記憶喪失を疑っているのだ。いや、それだけではないかも知れない。
「それにね。不思議なのは、お酒を飲んでいたあなたが、どうして車を運転しようとしたのかなの」
 富岡のコップを拾った記憶が、まざまざと蘇ってきた。確かに富岡は酒を飲んでいた。
「そんな事分からないよ、どうしてなのか。第一、酒を飲んでいた事も覚えていない」
「そうよね、事故前の記憶がないんだものね」と言ったので「ああ」と応えた。
 真理子がそれで納得しているわけではない事は分かっていた。分かっていたが、どうにもならなかった。
「それで手帳はどうした」
 私は、どうにもならない事に目をつぶって、訊きたい事を訊く事にした。
「もちろん、持ってきたわ。財布や服も一緒に」
「それなら、明日、持ってきてくれ」
「いいわ」
 空気が重苦しかった。今はこの状況から解放される事だけを望んでいた。
「一階に売店があったよね」
「ええ」
「車椅子で買物に行けるかな」
「欲しいものがあるのなら、買ってきてあげるわよ」
「あ、いや。自分で行ってみたいんだ。雑誌なんかも選びたいし……」
 私がそう言うと、真理子は「そうよね、退屈だって言っていたものね。いいわ、看護師に訊いてくる」と言って出て行った。真理子が出て行くと、ホッと一息つけた気分だった。
 真理子は、すぐに車椅子と看護師を連れて戻ってきた。
 看護師が車椅子に私が自分で乗るのを確認すると、真理子は包帯だらけの姿に甚平のようなパジャマを着ている私を見て、病室備え付けのクローゼットから薄手のカーディガンを取り出して、私に羽織らせた。一階の売店に行くのだから、人目が気になったのだろう。
 病室を出ると、「あとはわたしが……」と真理子が言い、看護師はナースステーションに戻って行った。