小説「真理の微笑」

十八-1
 病室に戻って考えた。
 今までは、富岡を知る事を避けてきた。というよりも逃げていた。自分が殺した奴の事など知りたくもなかったからだ。忘れる事ができるなら、そうしたかった。
 しかし、今日のような事があればどうする。相手を知らずして、どう対応、対処できるというのだ。もう、富岡から逃げているわけにはいかなくなった。富岡について、分かる事はできるだけ頭に叩き込んでおかなければならない、そう固く心に誓った。
 いつか、富岡がインタビューを受けている記事を見て放り投げた事を思い出していた。あの記事には、何ショットか富岡の写真が載っていた。
 殺す前の最新の写真は、あれだったかも知れない。見たくはないが見る必要があった。そして、インタビューの記事も。そればかりではない。富岡が載っている記事、書いた本はすべて目を通さなければならないと思った。そして、何よりも彼の手帳が欲しかった。

 看護師が来て、採血は手首のところから行った。それから車椅子で、長い廊下を通り、エレベータ室の前まで来ると、下に向かうボタンを看護師は押した。
 放射線科は五階にあった。A、B、C……と表示されていて、C室の前で待たされた。すでに二人ほど椅子に座っていたから、彼らの後になるだろう事は分かった。

 レントゲンが終わると病室に戻り、少し微睡んだ。
 靄がかかっていた。足元が見えない。まるで雲の中にいるようだった。そんな中を、夏美は祐一の手を引いてどこかに行こうとしていた。だんだんと遠ざかっていく。私は、必死に夏美と祐一の後を追おうとした。しかし、距離は縮まらない。私は大声で「夏美ぃ」と叫んだ。その自分の叫び声で起きた。
 すると、枕元には真理子がいた。少し驚いた。私が女性の名前を呼んだ事は聞いていたはずだ。だが、彼女は顔色も変えず「譫言を言っていたわよ」と言っただけだった。そして、汗をかいている額を乾いたフェイスタオルで拭いてくれた。
「よほど怖い夢を見たのね。それとも……」
 その先を真理子は言わなかった。何を言おうとしていたのだろうか。

小説「真理の微笑」

十七
 真理子がいなくなると考える事しかできなかった。
 松葉杖をついてある程度歩けるようになっても、ほとんどは車椅子の生活になる。そうなれば、真理子が側に付いてくるか、介護士が付き添う事になるだろう。とすれば、夏美と祐一の事が気にかかっても、こっそり会いに行く事はできそうになかった。
 第一、どうやって連絡を取ればいいのか、いい方法がまだ思いつかなかった。
 殺人者の夫や父を持つよりも、このまま失踪者のままでいた方が良いのだろうか。昨日まで考えていた事がまたしても頭をもたげてくる。だが、私の心は高瀬のままだった。夏美と祐一を放っておく事などできやしなかった。
 自由に動く事ができれば何とかなるが、このままではどうにもならなかった。真理子に分からないように、夏美に連絡をとる方法を真剣に考え出さなければならなかった。

 看護師が、車椅子を運んで入ってきた。体温と脈拍を測った後、「これから眼科に行きます」と言った。前もって伝えられていなかったので、私は途惑った。
「視力と視野の検査をするそうです」
 先程は、二人の看護師が手伝って車椅子に乗ったが、今回は一人だった。私は看護師からベッドから一人で車椅子に乗る方法を教わった。最初は上手くできなかったので、看護師に手伝ってもらったが、何度か試しているうちにできるようになった。それほど時間はかからなかった。
 車椅子で三階に向かった。
 眼科の検査室に入ると、両眼で顕微鏡を覗き込むような器械に両目を押し当てて、cのマーク(ランドルト環)の方向を右指で示した。それが済むと、同じような別の器械に移動し、今度は右手に押しボタンのスイッチを持たせられた。
「中心のマークを見つめていてください。そしてどこか光ったらスイッチを押してください。わかりましたか」
 私はゴロゴロする声で「はい」と答えた。
「では、左から始めますね」
 検査は十分ほどで終わっただろうか。
「視野には異常はありませんね。視力は両眼とも1.5です。非常にいいですね。よく見えていますよ。お疲れ様でした」
 検査技師はそう言った。私は得意げに微笑した。目だけは両眼とも良かったのだ。小・中学校の視力検査の時も、2.0のところまでは楽に見えていたからだった。
 私は車椅子で病室に戻った。
「また、後で来ますからね」と言って出て行った。午後二時からは採血とレントゲンがあった事を思い出した。
 車椅子で廊下を移動する間に、自分でも分かるほど、顔色が変わっていった。私は重大なミスをしたかも知れなかったのだ。
 私は今日の眼科検査に真理子が立ち会っていなかった事に感謝した。
 富岡は眼鏡はしていなかった。だから、目はそれほど悪くないはずだった。コンタクトレンズを入れているふうでもなかった。もし、そうなら今までにその話が出ていてもおかしくはなかっただろう。
 しかし、視力については知らなかった。考えてもみなかった。ともあれ、1.5っていう事はないかも知れない。1.2、1.0、0.8、それぐらいまでなら眼鏡はかけないだろう。富岡の視力は、一体どれくらいなのだろう。当然の事だが、そんな事、分かるはずもなかった。つい調子に乗って、さっきは本当の視力を告げてしまっていた。
 何て馬鹿な事を!
 できる事なら、もう一度やり直したかった。しかし、もう、やり直す事はできなかった。仮に富岡の視力が良かったとしても、事故に遭ったのだから、視力が落ちていてもおかしくはなかったのだ。だが、その逆はない。
 もし、富岡の普段の視力よりも今日の検査結果が良かったら、おかしな事になる。だから、さっきの検査の時に、見えていても「分からない」と答えれば済む話だったのだ。
 簡単な事だった。そんな事もできないのか。私は自分自身が腹立たしくなった。
 うっかりでは済まないのだ。今は細心の注意を払わなければならない立場にいるのだ。

 

小説「真理の微笑」

十六
「今日は、午後二時頃だと思いますが採血があり、その後レントゲンを撮ります」
 そう看護師が言って、膳を持って出ていった。
 朝食が済んだ後に、車椅子が運ばれてきて、二人がかりで車椅子に座った。
 病室から出るのは初めてだった。車椅子に乗り、六階に降り、理髪店でしてもらうように、仰向けになって頭を洗面台に付け、看護師に頭を洗って貰っていた。この二ヶ月、洗髪をしていなかったから、気持ちが良かった。シトラスの匂いが漂っていた。
 病室に戻ると真理子が来ていた。
「さっぱりしたわね」
「ああ」
「会社に寄ってきたわ」
「そうか」
「昨日みたいに混乱していなかったわ。田中さん、張り切っていたわよ」
「…………」
「指揮官がいないと駄目ね。あなたには、早く治ってもらわなければ……」
 真理子は半身を起こしている私の後ろに回って、後ろから顔を近づけてキスをした。上下逆さまのキスをすると、前に回ってディープキスをした。
 私は包帯に巻かれた手を動かして真理子の腰を触った。くびれたラインが掌に残った。
 昼食が運ばれてきた。
 食べ終わるのを見届けた真理子は、「会社に寄ったらまた来るわね」と言って病室を出て行った。

小説「真理の微笑」

 十五-2

 真理子がいつもより早い時間に来た。午後三時を少し過ぎた頃だった。
「どうしたの」と言ったつもりだった。他の人なら、喉がゴロゴロ鳴っているようにしか聞こえないだろうが、真理子にはこれで通じた。
「修正プログラムは今週中には出来るそうなのよ。で、それをどうしたらいいのか、迷っているようなの」
 そうなのか、と思った。
「もちろん、ユーザー登録してくれている人には、修正プログラムを送付すればいいんだけれど、皆が皆、ユーザー登録しているわけじゃないし、すでに出荷した分についてはどうするんだっていう事になっているの。回収して配布し直すには、かなり刷り増ししているから大変だって」
 真理子が早く病室を訪れた理由が分かった。そして、社内の混乱ぶりも。
 私は笑った。仕込んでおいたトラップに見事に引っかかり、その収拾に大慌てしている様が思い浮かぶようだ。ざまあ見ろっていうんだ。可笑しくてしょうがなかった。
 真理子は私が笑っているのを見て意外に思ったようだった。それはそうだろう。こんな時に笑うなんて、普通ではあり得ないからだ。
 真理子は早く何とかしなければならないと思って、病室を訪ねたのだろう。しかし、私が慌てていない事を意外に思うと同時に安心もしたようだった。
「何か考えがあるのね」
 私は頷いた。
「プログラムを担当している者と営業の責任者を呼んでくれ」
「わかったわ。電話してくる」と真理子は病室を出て行った。病院では電話できる場所が限られていた。しばらくして、真理子は戻ってきた。
「すぐに来るって」
 三十分ほど待っただろうか。三人が病室に駆けつけた。
 二人はこの間来ていたプログラマーだった。名前は何とか言っていたが、覚えていなかった。もう一人は営業部長の田中であると真理子が説明した。
 真理子にメモ用紙を取ってもらうと、箇条書きにした。
『一、ユーザー登録しているお客様には、修正プログラムを送る。
二、今出荷している分は、修正プログラムを添付する。これは外箱に貼り付ける。
三、フロッピーディスクを付録にしているパソコン雑誌に修正プログラムを載せてもらうように頼む。
四、そうでない雑誌には、修正プログラムの入手方法を掲載してもらう。
 三と四は、広告費をはずめば何とかしてくれるだろう。』
 上手くしゃべれない私は真理子を介して、メモした事も含めて事細かに二時間ほど説明した。営業部長の田中には、出版関係の方をくれぐれも頼むと指示をした。方針さえ決まれば、彼らは上手くやってくれるだろう。プロという者はそういうものだ。
 そうこうするうちに、六時になり、夕食が運ばれてきた。そこで、彼らは帰っていった。真理子だけが残った。
「この前もそう思ったけれど、今まであなたの仕事ぶりを見て来なかっただけに、今度もやっぱり目の当たりにすると凄いわね。事故に遭ったなんて思えないぐらい」
「そんな事はないさ。田中の顔も覚えていないんだから」
「そんなの気にする事ないわ。そのうち思い出すわよ。いいえ、思い出さなくても覚えていけばいいのよ」
 真理子の「いいえ」の後の言葉が、私にはずっしりと来た。そうだ、これからは一つ一つ覚えていくしかないのだ。
 夕食は真理子に手伝ってもらって食べた。どれも薄味で、実際のところ、美味しくはなかった。それで、つい「真理子の手料理、食べてみたいな」と言ってしまった。言ってしまってから、真理子と呼んだ事にドキドキした。他の者が聞けば、彼女の手料理を食べた事のない者が言っているようにも聞こえたはずだが、真理子はそうはとらなかった。そんな風にとれるはずもなかった。
「嬉しい事を言ってくれるのね」
 あまりに病院食がまずかったので、私は余計な事を言ってしまった、と思っていた。
「そんな言葉、久しぶりよ。初めてわたしの作ったものを食べてみたいと言った時以来かもしれない」
「そうだったかな」
「ええ、そうよ。女はそういう事は、はっきり覚えているものなの」
 そうなんだと聞きつつ、言葉には注意しなければいけない、そう思った。過去や思い出につながる事はできるだけ控える事、そう肝に銘じた。

 消灯時間になると、私は富岡という仮面の下からでも高瀬に戻っていた、或いは戻ろうとしていた。
 夏美と祐一の事が気がかりでならなかった。どうしているのだろう。連絡を取りたいと思ってもそれができなかった。
 まず、第一に私は今はベッドから自由には出られない。仮に出られたとしても、どうやって連絡をとればいいのだろう。
 電話か。今の私の話し方では、誰が電話を取っても言っている事を正確に聞き取る事はできないだろう。それに声からしても私だとは分からないに違いない。いたずら電話だと思われるのが関の山だ。
 問題はそれだけではなかった。話す事ができたとしても、何て言えばいいのか。
 私が生きている事を知れば、会いたいと言うに決まっている。だが、今の私は夏美にも祐一にも会う事はできない。会ったとしても、私だとは分からないだろう。
 それに何て言えばいいのだ。私は人を殺したとでも言うのか。そんな事できるはずもなかった。だったら、人殺しの夫や父を持つよりも、失踪していた方がましだろう。
 …………
 浅い眠りに落ちた。
 霧の中、森にいた。埋めたはずの穴の土を手で掻き出していた。
 そのうちに、泥だらけでひどく傷ついた人の顔が地中から現れた。そして、その顔はみるみるうちに傷が治り、突然、目を開いた。
 そこで目が覚めた。ひどく寝汗をかいていた。
 確かに、その泥だらけではあったが傷の治った顔を見た。しかし、それが一体誰だったのか、起きた途端に分からなくなっていた。常識的に考えれば、富岡のはずなのだが、何故か高瀬である自分の顔のような気がしてならなかったのだ。

小説「真理の微笑」

十五-1
 次の日、体温と脈拍を測りに来た看護師に起こされた。午前七時を少し過ぎた頃だった。
 昨夜は何時に眠ったのだろうか。窓の外が明るくなり出した頃だった記憶がある。
 夢の中で、私は夏美や祐一と食卓で歓談していた。たわいもない話だった。たわいもなかったが、それが可笑しかった。私も夏美も祐一も笑っていた。だが、どんな話だったか、どうしても思い出す事はできなかった。
 八時に朝食が運ばれてきた。
 スプーンには慣れたが、食器の蓋を取るのは難しかった。看護師が全部の蓋を外してくれた。普通なら、一口食べたら別のおかずを食べるのだろうが、食器をずらしながら食べるのでは、それは面倒だった。一つの食器を口の下に持ってくると、スプーンで掬ってそれを全部食べた。そして、食器をずらしながら次のを持ってきた。その様子を看護師はずっと見ていた。
「もう少しゆっくりと食べるといいですね」と言った。私は一つのおかずを飲み込むように食べていたのだ。食材がすべて砕いてあった事も影響していたが、もともと私は早食いだったのだ。だから、数分で食べ終わった。その後、何種類かの薬を飲んだ。
 私はベッドを倒し、毛布にくるまった。食事をとるようになってから、点滴はなくなった。左腕にしていたから、それだけでも少しは拘束感がとれた。水をこまめに良く飲むようにと言われた。
 私は少し眠ったようだ。午前十時半を少し過ぎた頃、真理子が来た。祐一が大きな口を開けて笑っているところで目が覚めた。何がそんなに可笑しかったのだろう。
「起こしてしまったわね」と真理子は私の頬を撫でて言った。
「いや、いいんだ」
 私は電動ベッドを起こした。もう、そうするのが習慣になったかのように、真理子は顔を寄せてきた。私は真理子に口づけした。
「あなたの指摘通りだったようよ。昨日、泊まり込んだ人もいたくらい。すぐに修正プログラムを作るって張り切っていたわ」
「そう」
「でも、やっぱり不思議よね。プログラムの事は覚えていたのね」
 記憶の話になると、ドキッとした。
「他の事は忘れてしまったようなのに……」
 真理子が私の目を覗き込むようにして、そう言った。
「でも、それでいいと思っているのよ」
 言葉にこそしなかったが、「何故」と訊きたかった。
「新鮮だもの」
 真理子は私の腰近くのベッドに座って「まるで新婚時代に戻ったようだもの」と続けた。

 真理子が「また夕方来るね」と言って出て行くのと、引き換えるように看護師が入ってきて、「包帯を取り替えましょうね」と言った。
 二日に一度、包帯を取り替えた。その度に熱いタオルをいくつか用意していて、それで躰を拭いた。腕を見たが、ケロイドのようになっていた。顔や指のように綺麗にはなっていなかった。胸の方はよくは見えなかったが、やはりケロイド状になっているのだろう。
「明日は頭を洗いますからね。シャンプーすると気持ちいいですよ」と言った。
 頭髪は二、三センチほど伸びていた。髭は、少し伸びていたので、看護師が電動髭剃りで剃ってくれた。その後で、熱いタオルを顔に被せられ、拭われた。
 包帯を取り替えたら、昼食になった。
 看護師が私の食べるところを見ていた。変な食べ方をして、気管に食べ物が入らないか注意して見ていたのかも知れない。味噌汁にもほうじ茶にもやはりとろみがついていた。
 食べ終わると薬を飲んだ。
 腕の上げ下げをしてみた。以前よりはスムーズにできた。ただ、肘にはプラスチックの器具が付けられていて、少しは動かせるが、まだ自由に曲げる事はできなかった。

小説「真理の微笑」

十四-3

 真理子が帰っていくと急に寂しくなる。どうしてだろう。分かっていながらそう思った。
 夕方に来ると言っていた。数時間の辛抱だった。
 今日、ファイルを見ていて改めて思った事だが、トミーソフト株式会社用にカスタマイズされてはいるが、あれは紛れもなく(株)TKシステムズのワープロソフトだった。今までのワープロソフトと違って画期的なのは、文書の中に罫線を引いて表を作れば、その表はまるで表計算ソフトのように扱える事だった。トミーソフトが手を加えていたのは、もう一つの機能の方だった。それはファックスをプリンター代わりに使えるようにする事だった。これで文書をプリントアウトしなくても直接相手のファックスに送信する事ができる。ただ、問題はこちらのパソコンが電話回線に繋がっていなければならないという事だった。パソコン通信がようやく流行りだしていた頃だった。電話回線に繋がっているパソコンはそう多いとは言えなかったが、使える機能である事に違いはなかった。
 次のワープロソフトについては、アイデアはいっぱいあった。表計算もどきのような機能を付けられたのだから、次のバージョンでは住所録を付けて、差し込み印刷機能を使って、年賀状なども作れるようにしたらどうだろうかと思っていた。今は年賀状ソフトは別に売られている。結構、いい値段がしていた。これらを合体したら売れるに決まっている……と思った。だが、その製品は(株)TKシステムズではなく、トミーソフト株式会社から出る事になるのだ。アイデアを思いついても、釈然としない思いが抜けなかった。

 それにしても、今日の事で分かった事だが、車を運転してから目覚めるまでの記憶は曖昧だったが、それ以外の記憶、例えばプログラムもすぐに理解できた。と、そこまで考えてきて、今日はやり過ぎたのかも知れないと思った。私は富岡を知らない。富岡がこのソフトの開発に携わっていたとは限らないではないか。いや、むしろアイデアだけ出して、後はプログラマーに任せていたのではないか。プログラミングなんて自分ではできないに違いない。その方が私のイメージする富岡に合っていた。
 そうだとしたら、あの社員たちは、私が膨大な資料の中から、どうやってバグの在処を見つけたのか、不思議に思わなかっただろうか。いや、そう思ったに決まっている。彼らが見せた驚きの表情は、それを物語っていたのではなかったのか。
 迂闊だった。
 資料をただ置いていかせれば良かったのだ。そして、後日、このあたりは試したのか、ぐらいにしておけば良かった。何故、ああも易々とバグの在処を教えてしまったのだろう。
 …………
 答えは分かっていた。真理子がいたからだ。真理子の前でいいところを見せたかったのだ。不用意にも、そのために愚かな危険を冒してしまった。

 夕方、真理子がやってきた。自分の気持ちが明るくなっていくのが分かった。
「ちょっと、会社に寄ってきたけれど、あなたの指摘、どうやらいけそうよ。何となく活気づいていたもの。でも、不思議よね。ソフトの事だけ、どうして覚えていたのかしら。まして、あなたがプログラムをわかるとは思ってもいなかったわ」
 その言葉で明るくなった気持ちは萎んでいった。痛いところを突かれて言葉もなかった。
「それにね」と言い始めて、彼女は少し顔を赤らめた。
「キスしたの、どれくらい前になるのかしら。この前はついそうしてしまったけれど……」
 血の気が引いていくのが分かった。しまった、と思った。結婚してすぐならともかく、しばらく経っていたとしたら、それほどキスをするだろうか。それにキスには個性が出る。
 夏美を思い浮かべた。祐一ができてから、キスらしいキスをしただろうか。少なくとも結婚前のようなキスはしていなかった。
 だが、真理子とは婚約したばかりの恋人同士のようなキスをしていた。唇を重ねる事にどれほど心が弾んだ事だろう。その時、キスに内在する個性について考えていたのか。
「あなた、そんな顔をしないで」
 真理子は私の腕をとって言った。
「この前も今日も嬉しかったの。ほんとよ」
「…………」
「出会った頃のあなたを思い出していた」
 真理子は私を抱き締めるようにし、頭を胸に押し当てた。
 私は心の誘惑に負け、そんな真理子を抱き締めた。そしてたどたどしく言った。
「記憶を失った事で、初めて出会った頃のような気がしている」
 下手な言い訳のような気分だったが、「そうね。そうよね」と、胸のあたりから聞こえて来る真理子の言葉が心地良かった。その心地よさに浸っていたかった。
 真理子のような女性から、心を寄せられている事が分かっていて平気でいられる男がいるだろうか。私にはできなかった。富岡の仮面を被っている事を忘れ、真理子とキスをした。とろけるような時間だった。富岡とは違うキスをしていても構うものかと思った。
 だが、それも永遠には続かなかった。ドアがノックされ、今度は夕食が運ばれてきた。
 真理子はベッドに移動式のテーブルを持ってきて、看護師がそこに夕食の膳を置いた。
 真理子がウィンクして笑った。昼食の時と同じだったからだ。

 やはり真理子が帰っていくと寂しくなった。私は真理子に恋をしていた。だが、私は彼女の夫を殺した男だった。その事が消えて無くなるわけでもなかった。いつまでもこの状態が続くとは思えなかった。どこかで破綻する。それまでの儚い夢なのだ、と思った。
 心が落ち着いてくると、夏美と祐一の事が思い出された。真理子と違って、美人ではなかったが、愛嬌のある顔をしている夏美の困惑している顔が浮かんだ。もう二ヶ月ほども私は失踪している事になっている。(株)TKシステムズはどうなっているのだろう。次のソフトの発売に向かって動き出していただけに、混乱しているに違いなかった。
 会社がどうなっているのか、知りたかった。だが、ベッドにいる自分にはどうする事もできなかった。思いだけが広がっていった。
 中島や岡崎はどうしているのだろう。まだ、会社に残っていてくれているのだろうか。それとも……。疑問だけが次々に湧き起こり、眠れなかった。

 

小説「真理の微笑」

十四-2

 次の日、朝食を終えた頃に、主治医の回診があった。何人かの医者を従えていた。いつも説明に来る医者もその中に交じっていた。
「気分はどうです」
 看護師にカルテを渡されながら訊いた。
 私は「いいです」と言おうとした。ガラガラな声でも「いい」という言葉をなんとか発する事ができた。
「あなたがここに運ばれてきた時は、重度の上半身火傷で、普通はそれだけでも助からない場合があるのですよ。でも、最初に搬送された病院の処置が良かった。そして全身が打撲状態でした。手足の骨はもちろんの事、関節もほとんど砕けていました。何より、深刻だったのが内臓です。腎臓は一時は透析も考えたくらいでしたが、何とか助かりました。でも肝臓の損傷がひどく、一時は危篤状態にまで陥ったのですよ。でも、あなたは生命力の強い方だった。意識はなかったかも知れませんが、ちゃんと怪我に立ち向かったのです。そして、闘って勝った。顔は、ほとんど原形を留めていないくらい複雑に骨折していて、あなたの写真をもとに何とか前の顔に戻しましたが、顔の細かな神経を全部治す事はできませんでした。だから、思ったようには表情を作れないでしょうが、それが今の医学の限界です。それから、手は上手く皮膚移植できたので、手首から先はケロイド状にはなっていません。顔と手以外はケロイドが残るでしょう」
 私は、いかに自分が死の淵から脱して、今の状態にまで回復する事ができたのかという説明を黙って聞くしかなかった。
「言葉の方は、時間はかかりますが、そのうち話せるようになります。もうしばらくしたらその訓練が始まります。声帯は随分と損傷していましたが、なんとか声帯を取らずに済みました。しかし、おそらく全く元の声に戻るというわけにはいかないでしょう」
 私は、声についてはどういう事なのか分からなかったが、反射的に頷いた。
「まずは、体力をつけましょう。今日から流動食ではなく、ちゃんと食べられる食事が出ます。お昼から食べる練習をする事になります。来週には車椅子にも乗れますよ」
 そうなれば、看護師付きだが、トイレにも行けると告げた。慣れたら廊下を押してもらって散歩もできると話した。
「とにかく順調です。血圧も安定している。リハビリには時間がかかるでしょうが、少しなら松葉杖を使って歩けるようにもなりますよ」
 彼は回りの医者に何か言って、「では、これで」と言って去って行った。
 それと入れ替わるように、真理子が入ってきた。
「連れてきたわよ」
 見知らぬプログラマーが二人、真理子の後ろに立っていた。大きな鞄を提げていた。その中に、数千頁からひょっとしたら一万頁にも及ぶプログラムデータが打ち出されて入っているのだ。
 彼らはキョロキョロするように病室に入ってきた。真理子が椅子を勧めて、彼らは座った。真理子も私の隣に座った。
 私は半身を四十五度ぐらいに起こしていたから、座った真理子の顔が近かった。二人のプログラマーがいなければ、口づけするかも知れなかったほどにだった。
「あ、あの~」
 近くに座った方が口を開いた。そして、不器用な言い方で、どうバグっているのかを説明した。やはりコピー&ペーストを一度に何度も繰り返すとフリーズするようだった。
「どうしてそうなるのか、さっぱり分からないんですよ」
 もう一人が言った。
「続けて、コピー&ペーストをしなければ大丈夫なんですけれどね。それでバッファに問題があるかと思ったんですが……」
 年長らしい、近くに座っている方がその後を引き取って続けた。バッファとは、メモリ上にデータを一時的に蓄えておく場所の事を意味する。コピー&ペーストするには、コピーしたデータをメモリ上に置いておかなければならない。そこをクリップボードという。そうしてから別の場所にペーストする。通常のコピー&ペーストでは、次にコピーするとき、前のデータを消去して書き換えていたが、今はクリップボード拡張機能を使って前のデータを残したままでもコピー&ペーストをする事ができる。これが便利なのは、一度、コピーしたデータをもう一度使いたいとき、コピーしたデータの履歴の中からペーストしたいデータを選択する事ができる事だった。コピーを残すデータについては回数かデータ量を決めておけばいい。
 フリーズするのは、一度に連続してコピー&ペーストする事が原因なのだから、彼らはバッファのあたりに問題があると思ったのに違いなかった。当然、普通はそう思う。
 開いたプログラミング言語のデータファイルではそのあたりが一番手垢がついていた。
 だが、そこじゃないんだな、と私は思った。
 トミーソフト株式会社の製品のプログラムを知らないから、問題の箇所を探すのに苦労した。一時間ほどプログラム言語の渦の中にいた。そんな時でも(株)TKシステムズで慣れ親しんだ文字列に出会うとホッとした。やがて、何冊かに分冊されたファイルの中から、ついに該当箇所を見つけ出した。一人に赤のポールペンを出させて、ある一行を○で囲った。
『これを削除してみろ』と、その○で囲った隣の余白にそう書いた。
 二人は「えっ」と驚いた声を出した。それはソフトがメインメモリに読み込まれるその場所にあったからだ。
「試してみろ」と、私がゴロゴロする声で言ったのを、真理子が通訳した。
「分かりました」
 二人はファイルをしまうと帰っていった。
 その様子を見ていた真理子は、顔を近づけると「凄いわね。なんだか、前より鋭くなった感じ」と言って、今度も真理子の方から唇を重ねた。
 私はその柔らかい唇の感触を楽しんだ。そして、私は舌を真理子の口に入れた。その瞬間、真理子はちょっと驚いたようだったが、すぐに応じた。真理子が何に驚いたのかについては、深く考えなかった。とにかく、永遠にでも続けていたかった。
 だが、ドアがノックされて、「昼食です」と看護師が入ってきた。
 慌てて離れた真理子は、私のベッドの上に移動式のテーブルを持ってきた。運ばれてきたお膳はその上に載った。六種類の器があった。
 私はベッドの角度をさらに起こして、背中をベッドから離した。
 蓋を開けようとしたが、指が上手く動かなかった。文字は書けるのに……と思った。
「わたしがやるわ」
 真理子がそう言った。看護師は、お願いしますね、と言って出て行った。
 スプーンは何とか掴めた。それで「何にする」と、真理子が訊くので「煮物がいい」と答えたつもりだった。上手く話せなかったが、真理子には私の言いたい事が伝わった。
 真理子がおかずの入った皿を顔のすぐ下まで持ってきた。おかずは細かく砕いたものを成形したような感じだった。成形された煮物のようなものはスプーンで掬えた。口に入れるとすぐに崩れた。そして喉を滑り台のように通っていく。
 味噌汁は、とろみが付けられていた。意外な事にそれが番茶にもだった。
 お粥を半分食べたところで食欲がなくなった。
「もう少し食べなくちゃ」
「いや、もういい」と、しゃべりにくいところをなんとか言い、私はスプーンを置いた。
「わかったわ。でも、なるべく食べて力をつけてね」
 私は頷いた。