三十七
時を動かした。
立っていた者が次々と倒れていった。
川に飛び込んだ役人が必死に泳いでいた。
僕は、倒れている者の間を縫って、橋を渡っていった。橋の向こうにいた人も、渡ってきた。しかし、そこに切られて呻いている者たちを見て、立ち止まった。彼らの間をすり抜けるように、僕は橋を渡りきった。
そして、きくとききょうと風車の待つところに歩いて行った。
「終わりましたか」と風車が言った。
「ええ、けりは着きました」と応えた。
「ご無事でようございましたわ」ときくが言った。
「心配をかけたね。でも、もう終わった」と僕が言った。
これでようやく公儀隠密からは解放されたのだ。
「行こうか」と僕は言ったが、風車が橋の方を指さして「あれでは」と言った。
橋の上は人の山で、身動きが取れない状態だった。いざ渡ろうとした人も、橋の上や向こう岸に倒れている公儀隠密たちを見ると、通り抜けることができなかったのだ。
そのうち役人たちがやってきて、整理しようとしていた。しかし、時間がかかりそうだった。
「待つしかないですね」と僕は言った。
「そうですね」と風車が応えた。
僕はショルダーバッグの中からチョコレートを取り出して食べた。それを見て、きくも風車も食べたそうにしていた。
「申し訳ないがこればかりはあげられません。疲れたときの栄養補給食なんです、数に限りがあるし、この先何があるか分からないし」と僕は言った。
小一時間待っただろうか。橋の上の人が動き出した。
僕らも立ち上がった。
台車を押して歩き出した。
橋を通る時、橋の上は血で染まっていた。
斬られた者は、道の両側に並べられていた。僕らはその間を通っていった。
血の臭いが漂っていた。
通り過ぎると、「ふぅ」と風車が息を吸い込んだ。
「とんでもない修羅場でしたね」と言った。
「そうですね」と僕は他人事のように応えた。
きくが小さな声で、「あんなにもお斬りになったのですか」と訊いた。
僕は黙って頷いた。
「そうですか」
次の宿場が見えてきた。
「昼餉にしましょうか」と風車に声をかけた。
「拙者は何だか食べる気分には」と応えた。
「きくは」と訊くと「きくもです」と答えた。
でもこの先は関所を通らなければならない。この宿場の先にある関所を通るには、時を止めるほかはなかった。
この宿場で休むしかなかったのだ。
「私は休みたい」と言った。
「では、そうしましょう」ときくが言った。
「拙者も付き合いますよ」と風車も言った。
僕らは、食事処に入った。
僕は鮭定食を頼んだ。きくと風車は、甘いものはあるかと訊いて、饅頭があると言うので、それにした。
僕は沢山食べた。この先の関所では時間を止めなければ、ならなかったからだ。
きくと風車は、死体の山を見てきたせいで、本当に食欲はないようだった。しかし、ききょうは饅頭をちぎってやると、よく食べた。
お茶を飲んで、きくが哺乳瓶に白湯をもらって来ると、代金を払って、食事処を出た。
しばらく歩いて行くと、関所に出た。行列ができていた。
風車は最後尾に並んだ。
僕らも並ぶと思っていたようだが、僕は台車を押して、先に進んだ。
「並ばないんですか」と風車が言った。
僕は懐に手を入れて、「特別の通行手形を持っているんです」と言った。もちろん、嘘だった。
「そうなんですか」
「ええ。先に行って待っています」と言った。
「わかりました」と風車が一緒でないことを残念そうに下を向いた時に、僕は時を止めた。
「さぁ、きく行こう」と言った。
「えっ」ときくは言った。
僕は台車を押して歩き出した。
「周りの人が……」ときくは言った。
「気にするな」
「でも」
「ただ、止まっているだけだから」
きくは僕の横に来て、「本当に止まっているんですか」と訊いた。
「そうだ」と答えた。
「時を止められるって、こういうことだったんですね」ときくは言った。
「そうだよ。根来兄弟の時も時を止めただろう」
「でも、あの時はお一人でした。今はみんな、止まっています」
「きく、おしゃべりはそれくらいにしてくれ。早く行こう。時を止めるのには、とても力がいるんだ。早く、関所を出ないといけないんだ」と言った。
「申し訳ありませんでした」
僕は台車を押して、関所を通過した。
役人が一人一人の検査をしているまま止まっていた。きくは不思議そうにその役人を見ていた。
関所を抜けると時を動かした。そして、しばらく歩き、関所が見えなくなったところで休んだ。
僕はショルダーバッグの中から、チョコレートを取り出して食べた。
きくはききょうに乳を与えていた。
「お訊きしてもよろしいですか」
「もう、いいよ」
「あの橋の時も、時を止めていたんですよね」
「そうだ」
「それであんなにも沢山の人を斬ることができたんですね」
「ああ」
「京介様のお強さの秘密がわかりました」ときくは言った。
「時を止めてしまえば、相手を斬るのは簡単ですものね」と続けた。
「いつもそうしているわけではない」と僕は言った。
「それはわかっています。道場での稽古を見ていましたから」ときくは言った。
「でも、時を止められるのでしたら、京介様にかなう者はいませんね」と続けた。
「世の中はそんなに甘くはないさ」と僕は言った。
「でも、今までだって、一度も負けてはいませんよ」ときくは言った。
「いや、これでも負けたことはあるんだ」と僕は御前試合を思い出していた(「僕が、剣道ですか? 2」参照)。
「そうなんですか」
「そうだよ。無敵なんてこと、あるわけないじゃないか」
その時、風車がやってきた。
「こんな所におられましたか」
「どうでした、関所は」
「大変でしたよ。拙者が四十両近くのお金を持っていたので、これはどうしたんだと散々問い詰められましたよ」
「風車殿も関所を通られたことだから、先に進みましょうか」と僕が言った。
「そうですね」
「もう、江戸も近いから、いい宿に泊まりましょうね」と僕が言った。
「いいですね」
そうして歩いて行くうちに、宿場が見えてきた。
この辺りになると人の数も多くなっていた。
何軒かに当たったが、個室はなかった。そこで、大きな構えの宿に向かった。
「個室ですと、お一人一泊二食付きで六百文になりますが、いいですか」と訊かれたので、「個室が取れるなら、それでいい」と答えた。
風車は僕らの隣の相部屋に泊まることにした。一人一泊二食付きで二百文だった。