二ー1
僕は空中に飛び出していた。
しかし、乳母車は抱えていなかった。
凄いスピードで落下していくのが分かった。
躰を反転させた。林が見えた。落下スピードを落とそうとした。しかし、上手くコントロールができなかった。しかし、林に近付くと最初の木の枝に手が触れた。僕は革手袋の手で掴んだ。その枝はすぐ折れたが、次の木の枝をすぐに掴んだ。その枝も折れたが、また次の枝を掴み折れ、また次の枝を掴み折れ……を繰り返すうちに次第に落下スピードが落ちていくのが分かった。そして、今度こそと思って掴んだ枝は少し手応えがあった。結局折れたが、その間に、もう一方の手で別の枝を掴み、今度はその枝を両手で掴んで木にぶら下がった。そこから、枝伝いに木から下りた。
いつか五十余人とやり合った場所だった。
夕暮れ時だった。
行くあてもないので家老の屋敷に向かった。
門はまだ閉まっていなくて、門番は僕の顔を覚えていて、すぐに「鏡様」と言った。
中に入れてもらい、門番は家老と嫡男を呼びに行った。
僕は玄関に座り込んでいた。
やがて、家老と嫡男が来た。
家老が「その姿は」と訊いた。嫡男が「前に来た時も最初はそんな姿だった」と言った。
僕は何も言えなかった。そのうちにきくが来た。
「鏡様」と言って近づき、やがて泣き出した。きくを見ると、お腹が大きくなっていた。
嫡男が「何か着る物を用意してやってくれ」と言った。
僕は「風呂を」と言った。
風呂の支度は、きくがしてくれた。僕は湯をかぶり、躰を擦っては、また湯をかぶった。手の平を見ると、傷だらけだった。革手袋をしていなければ、手の皮が剥けたところだった。
髷はきくが結ってくれた。
湯から上がると、中年の女中の作ってくれた紺色のトランクスがあった。それを穿き、着物を着た。
夕餉の席には、家老と嫡男、そして佐竹がいた。
佐竹は「これまでどうされていたのですか」と訊いた。
僕は雷に打たれたことを話した。
「それはきくから聞きました。そして、忽然と消えてしまった、と」
僕は頷きながら、「遠くに飛ばされたのです。その時に意識を失い、しばらく記憶をなくしていたのです」と言った。
家老が「まぁ、いいではないか。こうして鏡殿が戻られてこられたことだし」と言った。
僕は気になっていたことを訊いた。
「綱秀様はどうなされましたか」
「殿のご養子に決まった。これで藩は安泰だ」
「それはようございました。」
「綱秀様が勇様をご養子に迎えることも決まった」
「すべて、良い方向に進みましたね」
「そうだな。ところで鏡殿は行く所はござるのか」
「いいえ、それがありません」
「なら、当家にいるといい。いつまでいても構わん」
「ありがとうございます」
また、家老の屋敷にご厄介になることが決まった。
夕餉の後は、今まで使わせてもらっていた座敷を使うことになった。
すでにきくは女中部屋から自分の荷物を座敷に運んでいた。
「きく、私がいなくなって何ヶ月になる」と訊いた。
「四ヶ月になります」と答えた。
「今は四月か」
「はい、四月十八日です」
そう言った後、きくは泣き出した。
「死んでしまわれたのかと思いました。どこを捜しても鏡様はいらっしゃらないんですもの」
「済まなかった」
「刀だけが落ちていました。わたしはその刀を拾い、屋敷に戻りました。もしや、鏡様は屋敷に戻られているのではと、儚い期待をしました。でも、いませんでした。この四ヶ月間は苦しゅうございました。でも、この子を授かったことを知って、わたしは嬉しくなりました。鏡様はいなくなったけれど、あなたの分身はわたしのお腹の中にいる。そう思うと、生きる勇気が湧いてきました」
「そうか」
「でも、会いとうございました」
「私もきくに会いたかった」
「嬉しい」
きくは抱きついてきた。
「夢ではないのね、こうして鏡様がいらっしゃる」
夢なんだがなぁ、これは、と僕は思ったが、それにしても夢にしてはリアルすぎる。
僕は着物を脱いで、浴衣のような寝間着に着替えた。
布団に入ると、きくも布団の中に入ってきた。
そして、裸の躰を押しつけてきた。
「子どもは大丈夫なのか」と訊くと、「これくらい平気」と答えた。
僕はきくを抱いて眠った。これがしっくりとくるから不思議だった。