三十八
屋敷に戻ると僕はすっかり疲れていた。
風呂に入った時も眠りかけていた。
きくが抱きつき「よく、ご無事でお戻りなされました」と言った。
きくが出してくれた中年の女中に作らせた紺色のトランクスを穿き、着物を着た。
夕餉の席では、佐竹が威勢良く、大目付以下四人の目付が切腹した事件を話し始めた。その後の城中の混乱ぶりが手に取るように分かった。大目付や目付の子弟は皆死んでいるので、大目付以下四名の目付の役職の差配は、筆頭家老の島田源之助に一任された。
これで城内も少しは風通しが良くなるだろうと思った。
佐竹に「大目付以下四名の目付が切腹した現場に、鏡殿もおられたはずだが、どういう次第だったのか」と尋ねられた時は困った。僕が返事に窮していると、島田源太郎が「佐竹、いいではないか」と助け船を出してくれた。
僕は「疲れましたので、先に休ませてもらいます」と言って、夕餉の席を抜け出してきた。
きくが座敷で待っていた。
きくに縁側に来るように言って、きくの膝枕で縁側に横になった。
「寒うございますよ」ときくに言われたが、「少し涼みたい」と答えた。
「それにしても晴れているな」
「ええ、あんなにお月様が大きく見えますもの」
「そうだな。大きな月だ」
そうして月を見ていくうちに、みるみると赤くなっていった。
「きく、月が赤くなっている」と言うと「見間違えですよ」と言った。
「いや、赤い月だ」と僕が言うと「わたしには普通の大きな月にしか見えません」ときくは言った。そして「昔から、赤い月を見た人には災いが来ると言います。鏡様に赤い月が見えるのだとしたら、災いが来る前兆なのかも知れません」と言った。
「でも、そんなの嫌です。鏡様、お月様をご覧にならないでください」と言って、きくは袖で僕の目を隠した。
座敷に戻ると僕は再びきくの膝枕で目を閉じた。
きくが布団をかけてくれるのが分かった。
僕はそのまま眠った。
次の日、目が覚めると、きくの膝枕で眠っていたことを知った。
「きく」
「なんですか」
「一晩中、起きていたのか」
「はい。鏡様のお顔を見ていました」
「きく」
僕は涙が出そうになった。
遅い朝餉を済ませると、道場に行った。
皆、稽古をしていた。
相川と佐々木を呼んで、「みんな、元気に励んでいるな」と言い、二人には「これからもよろしくな」と続けた。相川と佐々木は「はい」と答えた。
昼餉を済ませると、戸棚を開け、帰る準備をした。
きくが来て「何をしているんですか」と訊くので、「ただ、確認をしているだけだよ」と答えた。
早めに風呂に入った。きくに最後の背中流しをしてもらった。
着て来た時のトランクスを穿くと浴衣を着た。
夕餉では、島田源太郎にさりげなく、これまでお世話になった感謝を言った。
島田源太郎は「何を水くさいことを」と言った。
夕餉を済ませて、座敷に戻ると、障子を開け、月を見た。
丸く大きな月が空に浮かんでいた。
とその時、急に空が暗くなった。そして雷雲が轟いた。
僕は待っていた時が来たのだと知った。
着物を脱ぎ、上の肌着を着て、厚手のシャツを着た。そしてジーパンを穿いてベルトを締めた。側にあった巾着を腰にぶら下げ、本差を手にした。
きくはその様子を驚いて見ていた。
僕はシューズを履くと、屋敷を飛び出し、野原の方に向かって走った。その後をきくが追いかけてきた。
「鏡様、どこに行かれるのですか」と叫んだ。
「元の時代に戻るんだ」と答えた。
「きくも連れて行ってください」と言った。
「連れて行くことはできない」
「後生ですから、お連れください。きくは鏡様のものです」と言った。
僕は腰にぶら下げていた巾着をきくに投げ渡した。
きくがそれを受け取るのを見た。
その時、豪雨が降ってきた。
きくも僕もびしょ濡れだった。
「きく、そのお金はお前のものだ。大事に使えよ」と言った。
きくは「お金なんか欲しくはありません。鏡様と一緒にいたい」と泣いた。
「そのお金を私だと思ってくれ」
近くに雷が落ちた。真上の雲が光っていた。
「きく、ありがとう」
「鏡様」
「きく、もっと一緒にいたかった」
「わたしもです。置いていかないで」
「もう時間だ」
僕はそう言うと、本差の鞘から刀を抜いて空に突き上げた。
「きく、もう少し離れていろ」
「嫌です」
僕は素早く小高い所に移動して、もう一度刀を天に突き上げた。空に雷の龍が舞った。そして、刀に向けて落ちてきた。
「ああ」と泣きながら叫ぶきくが見え、そして僕の上に雷が落ちた。