三十六
数日間は何事もなかったが、その日の夕餉に佐竹が「鏡殿、明後日、登城せよ、との命が大目付様よりありました」と言った。
島田源太郎が「何用であろう」と佐竹に訊いたが、佐竹も「さぁ」と言うばかりであった。
だが、僕だけは分かっていた。大目付は何としてでも僕を葬ろうとしているのだ。この数日間は、その策を練っていたのだろう。どんな策があるのかは分からぬが、いずれにせよ、自分の嫡男が斬り殺されているのだ。ただで済むはずがなかった。おそらくは、でっち上げの冤罪で裁こうとしているのだろう。ならば、こちらも同じ手を使えばいいだけのことだ。
次の日は一の日でも十五の日でもなかった。だが、堤道場に出向いた。
たえが同席する中、堤竜之介に会い、先日起こった出来事を話した。そして、明日、大目付の詮議を受けることも伝えた。そして懐から二十五両の包み金を出し、「これをお受け取りください」と言った。
「私は武士でござる。施しは受けない、と前に申したはずではありませんか」と言った。
「これは施しではござらん。もはや、私には用のないお金。明日の詮議で命運も決まるでしょう。堤先生には、我が道場の面倒を見てもらいたいのです。私がいなくなった後のことを考えてのことです」と言った。
「命をお捨てになるおつもりですか」
「いいえ、そんなつもりはありません。命運が尽きるのは、大目付様の方でございましょう」
「そんなことが起こるのでしょうか」
「起きます。しかし、私もただでは済まないでしょう。あらゆることを覚悟しておかなければならないでしょう。ただ、このままこの藩にいられることはないでしょう」
「そんなの嫌でございます」とたえが言った。
「仕方のないことです」
「万事、承知しました。このお金も活かせるように使わせてもらいます」と堤は言った。
「では、これでおいとまさせて頂きます。長いこと、ありがとうございました」
「お父様」とたえが言った。
「鏡様をお送りしてきます。帰りが遅くなってもよろしゅうございますか」と言うと、堤は「好きにせい」と言った。
たえは着替えて外に出ると、僕の袖を引っ張るようにある方面に向かって歩き出した。
「どこに行こうと言うのです」
「鏡様と最後のお食事をしようと思っているだけですわ」と言った。
確かに食事処と書かれている看板が並んでいる通りに入った。その中で茶屋と書かれた店にたえは入っていった。僕も後を追った。
たえがお金を払おうとするから、僕が「いくら」と訊いたら「一分です」と言うので一分金を渡した。
二階の奥の部屋に通された。
その部屋には布団が敷かれていた。仲居が来て、お茶とお菓子を置いて「ごゆっくりとなさいまし」と言って出て行った。
僕は江戸時代のラブホテルに入ってしまったのだった。
仲居がいなくなると、たえが抱きついてきた。
「さっきの話は本当ですか」と言った。
「本当だよ。嘘を言っても始まらないだろう」
たえは気落ちしたような顔をした。
「たえは鏡様をお慕い申しておりました」
「…………」
「堤道場は、たえ一人しかおりませんから、婿を取る他はありません。剣の立つ方がいれば、婿にと思っておりました」
「…………」
「鏡様は剣が強いだけでなく、お優しい方です。そして背が高くていらっしゃる。わたしにとって申し分のない方なのです」
「…………」
「ですから、藩からいなくなるなんて想像もできません」
「こればかりは仕方のないことなのだ。いずれ、ここから去ることになる」
「それはわかりました」
「そうか」
「だから、わたしの心だけでなく、躰にも記憶を残してくださいませ」
たえは、そう言うと着物を脱いで裸になった。そして、僕の着物も脱がせた。トランクスは自分で脱いだ。
「たえを抱いてください」
僕はたえを抱き締めた。
「もっと強く」
もっと強く抱き締めた。そして、唇を重ねた。
それからたえの中に入っていった。その瞬間、たえは眉間に皺を寄せたが、すぐに足を絡ませてきた。
何度、たえの中で果てたことだろう。数え切れなかった。
たえは僕を離そうとはしなかった。
しかし、時は駆け抜ける速さで進んでいく。
たえは手ぬぐいで身を拭き、着物を着て、手ぬぐいを洗って、僕の躰を拭いた。
僕はトランクスを穿き、着物を着た。
その時もたえは抱きついてきた。
「いつも鏡様と一緒にいられるおきくさんが羨ましゅうございます」と言った。
そして、泣いた。
僕はたえが泣き止むまで抱いていた。
屋敷に戻ると、風呂に入った。すると、きくが鼻をクンクンさせて「女の匂いがします」と言い出した。
「そんなばかな」と言うと、きくはトランクスの匂いを嗅いで、「やっぱり女の匂いがします」と言った。
「おいおい、勘弁してくれよ」と僕は言った。
夕餉の席では、島田源太郎と佐竹に、明日の詮議次第では当家にご迷惑が掛かるかも知れないと言った。
「何故だ」と島田源太郎に訊かれたので、この間、佐竹が話した大目付の嫡男たちの食中毒騒ぎは、実は自分との決闘だったことを話した。
「明日は、何らかの咎を負わせようとするでしょう」
「それはひどい話ではないか」
「あくまで御当家は知らないことにして頂きたい。これは私と大目付、目付たちとの争いですから」
「そうは言っても……」
「明日は帰って来れないかも知れないので、今、申しておきます。これまでのご厚情に感謝しています」
「おぬしが来てから、当家も賑やかになった。道場を復活させてくれたことが大きい。ありがたいことだ」
「身に余るお言葉です」
夕餉を済ませて、座敷に入ると、まだ、きくは怒っていた。
そこで明日のことを話した。そして「今宵が最後かも知れん」と言うと、きくは泣き出した。
「そんなの嫌でございます」
「仕方がない。これも運命という奴だ」と言って、僕はきくを抱いた。これが最後だと思って抱いた。