小説「僕が、剣道ですか? 1」

二十四

 翌日、道場に行くと、どこで知り得たのか、龍音寺の噂で持ちきりだった。

 噂話はだいぶ大袈裟になっていた。こういう話は大袈裟に伝わるものなのだろう。

 僕がいくら修正しようとしても、余計に悪くなっていった。

 

 午後になって、家老が横手門の前で襲われたという話が伝わってきた。

 家老の嫡男、島田源太郎と侍頭の佐竹重左衛門、そして僕が城に向かうことになった。

 三人とも馬で向かうことになったが、馬に乗ることが初めての僕はやはり、馬に嫌われて、佐竹に掴まって佐竹と馬に乗った。

 城に着いたのは、午後三時頃だったろうか。

 城中に入り、家老の座敷に向かった。

 家老は幸い、手傷を負っただけだった。

「屋敷に帰ろうとしたところを襲われた」と家老は言った。

 島田源太郎が「一体、何者に襲われたのですか」と訊いたが、「相手は覆面をしていて、わからなかった」と答えた。

「その者たちはどうしたのですか」

「わしを斬ることに失敗すると、すぐに逃げていったそうだ」

「なにゆえに、屋敷に帰られようとしたのですか」と島田源太郎が訊いた。すると、家老は「目付が鏡殿の素性をあらためようとしているようだったので、先手を打とうとしたのだ」と答えた。そして、僕に「鏡殿、ちこう寄れ」と言った。

 僕は家老の側に寄った。

「これからの話はお前たち三人だけの胸の内にしまっておけ」と言った。

 島田源太郎は「承知しました」と言い、僕と佐竹は「わかりました」と答えた。

「鏡殿は遠い高潮藩にあるわしの縁戚の次男だということにした。訳あって鏡家の跡取りになることになったが、その挨拶がてらわしの所に逗留しに来たということにした」

 胸から書状のようなものを出して、「鏡殿、それがわしがおぬしに当てた書状じゃ。それを持って、当藩にやってきた。そういうことだ」と僕に渡した。

 僕はそれを受け取ると、胸にしまい、深く頭を下げた。

「私のような者をご信頼頂き、ありがたく存じます」

「何、当然のことじゃ。目付は、鏡殿のことを幕府の隠密か何かだと疑っている」

「決して、そのような者ではありません」

「わかっておる。だが、どこから来たとは言えないのだろう」

「その通りです」

「源太郎の妻を助けてくれた時に、鏡殿が屋敷に来た時の風体を、屋敷の者から伝え聞いた時に、何か訳があるのだろうと察した。それで他藩にいる縁戚の者ということにした」

 僕は「差し出がましいようですが、当藩は跡取り問題で、二つに割れているのではありませんか」と訊いてみた。

 家老は驚いて、僕の顔を見たが、「そこまで見抜かれていたのか」と言った。

「そうかと思いました」

「今のお殿様は病弱でな。床に就かれておる。その弟君の綱秀様が聡明なお方で、わしは次の藩主にと推しておる。だが、今のお殿様の側女に男子がいてな。まだ二歳になったばかりだ。そちらを藩主にすべきだと言う者もいる。綱秀様には、お子がいないから、お殿様の側女の男の子は綱秀様の養子に迎えて、やがて元服した後に、藩主になればいいと思っている。だが、今すぐにでも、その側女のお子を藩主にしたがる者がいる。それらの者は、側女のお子が幼いことをいいことに藩政を自分たちの思うようにしたいと思っているのだ」

「それでですか、ご家老がお屋敷にお戻りにならずにお城に詰めておられるのは」と僕は言った。

「どういうことです」と佐竹が訊いた。

 僕は「万が一、藩主に何かあれば、お殿様の側女の男子を推している者たちは、その子をすぐにでも次の藩主にと推すことだろう。家老が場外に出ていれば、門を閉め、次の藩主が決まるまで門は開けまい」と僕は言った。

 家老には言えないことだった。

「しかし、それでもその書状を屋敷に持ってこようとされたのは、龍音寺の一件があったからですね」と僕は言った。

 家老は頷いた。

「鏡殿が、灸をすえた者たちは、お殿様の側女の男子を推している者たちの子弟が多い。その者らが鏡殿の素性をあらためろ、と言い出したのだ」

 僕は「それでこの書状を届けようとしたのですね」と言った。

「そうだ」

「それは敵の策略ですね」

「なんと」と島田源太郎が言った。

「家老が城内にいたのでは、襲えない。だから、何としても城外に引き出す必要があったのだ」と僕は言った。

「卑怯な奴らだ」と島田源太郎は言った。

 僕は「卑怯な奴らです。だから、御家老の言われるように、お殿様の側女の男子を次の藩主にしてはならないのです」と言った。

 島田源太郎も佐竹も頷いた。

「家老職に就かれている者は何人です」と僕が訊いた。

「わしも含めて六人だ」

「御家老を除く五人は、どちら側なのですか」

「四人はわしに同意してくれている。一人はわからぬ」

側用人と目付は、相手側なのですね」

「そうだ。目付だけでなく大目付もだぞ」

「年寄り衆はどうですか」

「様子見だ。勝ち馬に乗ろうとしている。とにかく、はっきりしておるのは、わしとわしを含めた家老の五人と、大目付側用人とが対立しているということだ」

「もし、相手の言うようにお殿様の側女の男子が次の藩主になられたら、どうなりますか」と僕は訊いた。

「まず、わしを隠居させて源太郎に家老職を継がせるようにするだろうな。他の者も隠居させられて、息子に後を継がせる。そうすれば、一番の年上は、今、様子見をしている家老になるから、彼を家老職の首座に就かせるだろう。そうして、綱秀様を推していた者を次々と排除していくことだろう。そうすれば、お殿様の側女の男子を意のままに操れる、大目付側用人の天下となろう」

「では、今の藩主に隠居して頂き、綱秀様が今の藩主の養子となり、次の藩主になるように幕府に願い出たらどうでしょうか」と僕が言うと、「そうしているが、相手もお殿様の側女の男子が次の藩主になるように願い出ておるのだ」と家老は答えた。

「それでは、幕府も困っていますね」

「藩内の意志を統一せよ、と言ってきた」

「期限は」と僕が訊くと「年内に、と言われている」と家老が答えた。

 年内では、もう四ヶ月ほどしかない。期限までに意志が統一できなければ、この藩は取り潰されることだろう。こんな内紛をしている場合ではないではないか、と僕は思った。第一、藩内に内紛があるということが幕府に知られたことがいたい。末期養子武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、緊急に縁組された養子のことで、この藩の場合、嗣子がいないわけではなく、あくまでも綱秀が養子になる時に限られる)は禁止されていたから、早く綱秀様が今の藩主の養子にならなければ、自動的にお殿様の側女の男子が藩主になってしまう。

 藩主の病状も気になる。藩主が亡くなれば、その時点で綱秀が藩主になることはなくなるからだ。

 僕は「藩主の意向はどうなのですか」と訊いた。

「揺れている。本来なら、すぐに綱秀様を養子にし、その綱秀様がお殿様の側女の男子を養子にしてくれれば、それで丸く収まるのだが、万が一にも綱秀様を養子にした後で、綱秀様にお子ができたら……と思っているのだろう。側用人たちもそのことをお殿様に吹き込んでいるようだ。だから、決断できないでいる」

 僕は「放置しておけば、幕府は当藩を潰しますよ。そうでなければ、側用人大目付の思うままになる。期限は、後四ヶ月。御家老を襲ったというのも、相手も焦っているからでしょう。このまま藩の意志統一ができなければ、格好の藩潰しの理由になる。何としてもそれは避けたい。お殿様もそれはわかっているから、期限が迫ってくれば、綱秀様を養子にすることを願い出る可能性もある。彼らは、御家老を襲うという賭けに出たのでしょう」と言った。

「そうだな」と家老は言った。

「しかし、失敗をした。だが、これで引き返せぬ道を進むことにならざるを得なくなった」と僕は言った。

「鏡殿の言うとおりだ」と家老は言った。

「父上はどうされるのですか」

「後四ヶ月、この城に籠もるしかなくなった。また、出かければ、襲われるだろう。次に襲撃してくるときは、今日のようなへまはしないだろう」

「そうですね。でも、父上、私たちにできることはないのですか」

「ない。奴らは鏡殿の身元を調べて、それで不審ならば、このわしに責めを負わせようとしたが、もうそれもできぬ。鏡殿の素性は、鏡殿に渡したその書状が証明してくれる。もう、相手にできる事はない。ただ、時間が過ぎていくのを待つだけだ」

「父上が屋敷に戻られないとなったら、どう連絡をすればいいのでしょう」

「佐竹」

「はい」

「お前に頼む。毎日、大変だろうが城に来てくれ。伝えたいことはお前を通して、源太郎に伝える」

「はは、わかりました」

「よろしく頼む」

「承知しました」

「これで、お前たちに伝えたいことは、伝え終わった。暗くならないうちに帰るがいい」

「わかりました」と島田源太郎が言った。

 

 城を出た。

 今度は佐竹の馬には乗らず、僕は歩いた。

 城を出てから、間もなく、付けてくる者がいた。

 島田源太郎が「誰か付けてきているな」と言った。

「早く、屋敷に戻りましょう」と佐竹は言った。

 僕は「ゆっくりと戻りましょうよ」と言った。

 佐竹は、「それは何故か」と訊いた。

 僕は「まだ、相手の数が揃っていないからですよ」と答えた。