二十一
二週間ほどが経った。十五の日が来た。道場が休みの日だった。
僕は一人で町に出た。
堤道場がどうなっているのか、見てみたいと思ったのだった。
道場の近くに来ると、中から稽古をしている音が聞こえてきた。門の所に立っていると、たえが来た。
「鏡様、そんな所にいないでお入りください」と言った。
僕は言葉に甘えて中に入った。玄関の方には向かわず庭から縁側に回った。玄関に向かうと道場が見えるからだった。僕は縁側から、座敷に上がった。
しばらくして、稽古中だった堤竜之介が現れた。
座ると、すぐに頭を下げ「この度は、大変なお心遣いをして頂き、恐縮の限りでございます」と言った。
「何のことですか」
「この道場を推挙してくださったんでしょう。門弟に聞きました」
「推挙だなんて。ただ、私に教えられないことを教えてくれると言っただけです」
「それ、それですよ。今では、門弟で溢れかえっている」
「いいことじゃないですか」
「恐れ入ります」
その時、たえがお茶を運んできた。
「不躾なことを伺うようですが、奥方はいないんですか」と僕は訊いた。
「この子が十二の時に、流行病に倒れました。その薬代に困り、金貸しに借りたのが、この前来た奴らのところです。妻は長く患っていて、一昨年、亡くなりました」
「そうでしたか」
「それ以来、この子には母のような役目を負わせて、本来なら楽しい盛りなのに、苦労をさせました」
僕は頷きながら、たえの入れてくれたお茶を飲んだ。
たえはちらちらと僕の頭を見ている。僕は気になったので、「私の頭が気になりますか」と訊いた。
たえは「はい」と言って、「鏡様はどうしてそのような髪型をしているのですか」と訊いた。
「これは私の時代では流行なのですが、この時代には合いませんか」
「時代って何のことですか」
「あ、いや、今のは独り言です。忘れてください。今はこの頭ではおかしいですか」
たえは頷いた。
「参ったな。やはり、月代(さかやき)を剃らなければなりませんかね」
「剃りたくはないのですか」
「できればこのままの方がいいのですが」
「でも、その頭だと、後ろから見ると女だと思われはしませんか」
「確かに、そうかも知れません」
「それでは総髪にして髷を結ったらどうでしょう。わたくしが父にしているように」
「たえ。後は任せたぞ。鏡殿、私は門弟の稽古を見に行かなければなりませんので失礼します」
僕は軽く頭を下げた。
「縁側にいらしてくださいませんか」
僕はたえに従った。
「用意をしてきますね」
たえは奥の部屋に入ると、白い布と櫛とはさみと紐を持ってきた。それから、また奥に引き込み、桶に水を入れたものを僕の横に置いた。たえは、白い布を僕の肩に巻くと、手を濡らし僕の髪を丁寧に撫で付けた。それから櫛で後ろにとかし、後頭部の上の方を紐で縛った。そして垂れた髪をはさみで切った。切られた髪は白い布に落ちた。これで終わった。たえは手鏡を差し出した。
「どうです」
男がポニーテールを結んでいるようだったが、こうしたヘアスタイルの若者は現代にもいる。自分に似合うとは思わなかったが、この時代に合わせるとしたら、このあたりで我慢するしかないだろうと思った。
「もう少し髪が長ければ、より見栄えがすると思うのですが」
「いや、これで結構。ありがとうございました」
「いえいえ」とたえは手を左右に振った。
「これから、町を見物しようと思うのですが、どこか面白いところはありますかね」
たえは少し考えていたが、すぐに立ち上がると、道場の方に向かった。
「お父様」と言う声が、稽古のかけ声の間から遠くに聞こえた。
そして、戻ってくると「少しお待ちになってください」と言って、奥の部屋に入っていった。
しばらくすると着替えて出てきた。
「父に話したら、案内して差し上げろ、と言われました」
えっ、と思っているうちに「出かけましょう」と言われた。
町中を歩いていると、僕とたえは目立った。
僕は百七十八センチでこの時代では背のかなり高い方で、たえも百六十センチを少し超えているぐらいで、モデルのような体形をしている上に、この時代の背の高い男性と変わらない高さだったからだ。そんな二人が歩いていれば、通り過ぎて振り返らない者はいなかった。
いろいろな店を覗いては、あれこれと話をした。たえは、このような形で町に出るのは、子どもの時以来だと言う。だから、子どもが喜びそうな遊び道具でも、目を輝かせて見ていた。
そのうちに昼頃になり、小腹も空いてきたので、ぼくは食事処を探したが、たえと入れそうな店は蕎麦屋しか思いつかなかった。しかし、蕎麦でもないだろうと思っていたところに、団子屋が目に入った。
「団子でも食べませんか」とたえに言うと「はい」と答えたので、店先の席に座った。
女将が、お品書きを持ってきたので、串団子のあんことごま団子を二皿頼んだ。
「こんなにゆっくりしたのは、いつぶりかしら」とたえが言った。
僕はたえが、亡くなった母親の看病と父親の世話で、ほとんど毎日が過ぎていったであろうことを思った。
「殿方と出歩くのは、初めてですのよ」とも言った。
「そうなんですか。それなら、よく、お父上がお許しになったものだ」
「それは鏡様とですもの。これほど頼りになる方はいらっしゃらないでしょう。父もそう思ったのだと思います」
団子を食べ終わると、また通りを歩いた。頭一つ出ているので、周りの者の頭がよく見える。女はかんざしをしている者が多かったが、たえはしていなかった。
かんざしを買う余裕もなかったのだろう。
僕は周りを見廻して、かんざしを売っている店を見つけた。
たえの手を引いて、その店に入った。
「この娘に合うかんざしを選んでくれ」と店員に言った。
たえは驚いて「わたし、かんざしなんて」と言ったが、「私に任せて」と応えた。
店員は何種類かのかんざしを出してきた。
あまり派手なのは、たえの良さをかえって奪ってしまう。僕は赤い球の付いたかんざしを選んで、たえに挿してみた。似合っていた。
「これをもらおう」
店員はかんざしを抜いて包もうとしたので、「このままでいい」と言って代金を払った。
店を出ると、「ありがとうございます」と言って、たえは頭を下げた。
「髪を結ってくれたし、こうして案内してくれた御礼だよ」と僕は言った。
そのうちに川に出た。橋を渡ろうとしたら、「子どもが川に落ちたぞ」と言う声が川上から聞こえてきた。続いて「あそこを流されている」とこちらの方に声が飛んできた。
僕は走って、橋の川上の方を見た。もう橋のすぐ近くまで子どもは流されてきていた。僕は橋の川下の方に走りながら、着物を脱いだ。それを丸めて、後からやってきたたえに渡すと、橋の上から川に飛び込んだ。
「誰か川に飛び込んだぞ」と言う声が後ろから、聞こえてきた。
川は意外に深かった。もう少し浅ければ、川底を蹴って、子どもに近寄れるのにと思ったが、泳いで行くしかなかった。川の流れは速かったが、僕にしてはそれほど速くは感じなかった。ただ、子どもを掴むのが大変だった。着物の襟首を掴もうとしたが、そのまま脱げてしまいそうだった。しかたなく、脇の下に手を入れたが、子どもは必死になって暴れた。仕方なく、当て身を食らわせて気絶させ、何とか岸に泳ぎ着こうとしたが、子どもを抱えての川での水泳はそう容易くはなかった。気が焦るばかりで、岸はなかなかに遠かった。そのうち、自分も水を飲んでしまった。陸で刀を振り回しているのとは違い、時間がスローに感じるだけに、余計に水に浸かっている時間が長く感じた。そして、足が川底に着かない恐怖が襲いかかってきた。左手に抱えている子どもも重かった。両手が使えたら、難なく泳げる距離が遠くに見えた。
一度沈んだ。駄目かと思った。すると、川底に足が届いた。思い切り蹴った。躰の半分ぐらい宙に出た。そして、また水に沈んだ。また蹴った。今度は藻に足を掬われた。上手く蹴れなかったが、それでも少し進んだ。そして一かきしたら、完全に川底に足が着き、立ち上がれていた。子どもを抱き上げ、岸まで歩いた。
倒れ込みそうになったが、まだそうはいかなかった。子どもの胸に耳を当てると音が聞こえなかった。心停止状態だった。すぐに胸骨圧迫を三十回行い、その後で鼻をつまんで人工呼吸を二回一組として、これを何度も繰り返した。これは防災訓練の時に、人形を使ってやった経験に基づいてのことだった。
永遠とも思える時間だった。何度、繰り返しても心臓の音は聞こえなかった。それでも、止めることはできなかった。蘇生するまで、繰り返すことが大切なんです、という訓練を行ってくれた人の声が聞こえてきそうだった。
子どもの母親が、そしてたえが僕の着物と草履を持って、駆け寄ってくるのが分かった。もう駄目だと思って胸骨圧迫をした時、子どもは水を吐いた。僕はすぐに人工呼吸をした。
子どもの心臓が再び動き出したのが分かった。僕はしばらく人工呼吸を続けた後、倒れ込んだ。たえが駆け寄ってきた。濡れた躰を抱き締めてくれた。温かかった。
子どもは六歳になる男の子だった。僕はたえが渡してくれた手ぬぐいで躰を拭き、着物を着た。そして、川の側の石の上に座った。さすがに疲れていた。
子どもの母親は意外に若かった。十六の時に子どもを産んだと言うから、まだ二十二歳だった。
「お名前をお聞かせください」と言われたが、僕は応える元気を失っていた。代わりにたえが「鏡京介様です」と答えた。
「お住まいはどちらですか」
「家老家の島田様の屋敷です」と、これもたえが答えた。
「ありがとうございました。わたくしは高木なみと申します。この子は勇太と言います。また、御礼に伺います」と言って、子どもをおぶって帰って行った。
堤道場に戻ったのは、夕刻近かった。
帰る道すがら、たえは「あなた様はお強い人ですね」と言った。
「剣のことを言っているのですか」
「いいえ」
「では何を」
「川に飛び込む時、怖くはありませんでしたか」
「そうだなぁ、本当のことを言おう」
「ええ」
「飛び込む時は怖くはなかったが、飛び込んだら怖くなった」
たえは笑った。
「また、ご冗談を」
「冗談じゃないよ。本当に怖かったんだ。そして……」
「そして……」
「子どもを川から助け上げた時が一番怖かった。もう助からないんじゃないかと思って」
「あなた様は必死でしたものね」
「ああ」
「あんなご処置の仕方、初めて見ましたわ。でも、正しいご処置でした」
「一度、訓練でやったことがあるんですよ」
「まあ、そんな訓練があるんですの」
「あっ、いや、ここでの話ではありませんが」
「でも凄かったですわ。あなた様は強いだけでなくお優しいお方ですね」
「そうまともに言われると照れるなぁ」
「まぁ」と言いながら、たえは僕の肩をぽんと叩いた。
「お屋敷では、お世話をしている女の方がいらっしゃるんでしょう」と訊いた。
「きくのことですか」
「おきくさんと言うのですか」
「ええ、私の世話係をしています」
「そうですか。いつかお会いしたいものですわ」
「はぁ」と溜息をつきながら、何故だろう、と思った。
家老の屋敷に戻ったのは、すっかり暗くなった頃だった。
風呂に入った時、きくに「この髪は誰に結ってもらったんですか」と訊かれた。そしてすぐに「女の人でしょう」と言われた。
僕は何も言わなかった。
「こんな結い方をするのは、女の人に決まっているでしょう」
きくは紐を解き、結い直した。
夕餉の後、座敷に戻ってもきくは怒っていた。
「おたえさんって言うんですね、その人は」
「ああ」
「で、今日もその堤道場に行ったんですね」
「ああ」
「そのおたえさんは何歳ぐらいなんですか」
「十七」
「十七ですか」
「そう」
それからきくは口を利かなくなった。
布団に入って、手を掴もうとしたが払われた。