三十一
帰りがけにナースステーションを通ると、看護師に呼び止められて、「富岡さんは、明日から流動食になりますので、ご承知ください」と言われた。
「点滴はなくなるんですか」と訊くと、「いいえ、点滴はそのままです」と応えが返ってきた。
「わたしが食べさせるんでしょうか」と訊くと、「いえ、自分で食べられるようになるまでは看護師がやります」と答えた。
病院を出て車に乗ると、富岡とのキスが思い出された。思えば、久しぶりだった。随分としてなかった気がした。
キスをした時、富岡の歯に自分の歯が当たった。初めて、富岡とキスをして以来のことだった。
違和感はあった。しかし、それは歯を形成したことと唇がまだ上手く動かせないからなのだろうと思った。
ただ、舌を絡ませてきたのには驚いた。それは富岡が、新婚当初とは違い、この数年ではしないことだったからだ。
木曜日に会社に行くと、大騒ぎになっていた。
「どうしたの」と滝川に訊くと、「さぁ、バグがどうした、こうしたとか言っているようなんですけれど、わたしにはわかりません」と答えた。
社長室に開発部長の内山を呼んで、事情を聞いた。
「まだ原因はわからないんですが、製品にバグがあったようなんです」
「バグって」
「ソフトに欠陥があったということです」
「大変じゃない」
「そうなんですけれど」
「すぐに直せるものなの」
「今、調査中です」
「そうなの。困ったことね」
「なるべく早く対応します。失礼します」
そう言うと、内山は走るように社長室を出て行った。
金曜日に会社にいると病院から電話がかかってきた。長野から刑事が二人やってきていると言うのだ。
真理子は「わたし、すぐに行きますので、わたしが行くまで病室に入れないでください」と言った。
真理子は滝川に早退する旨を告げて、病院に向かった。
ナースステーション前のソファに刑事が二人座っていた。
真理子が近づいていくと、一人が島崎、もう一人が高橋と名乗った。前に来た二人だった。
島崎が「病院に電話をしたら、富岡さんの意識が戻られたということなので、お伺いしました」と言った。
「またですか」と真理子が言った。
「済みません。ご本人から直接、お話を伺いたいものですから」
「本人はほとんどしゃべれませんよ」
「構いません」
「では、どうぞ。しかし、できるだけ早く済ませてください」と真理子は言った。
「わかっています」と島崎が答えた。
二人を病室に案内すると、富岡はベッドを起こして、窓の外を見ていた。
真理子が入っていくと、顔をこちらに向けた。
その後ろに二人の男がいたので、富岡は医師だと思ったようだ。
「刑事さんよ。この人たち、前にも来たのよ、あなたが意識をなくしている時に」と真理子が言うと、驚いたような顔をした。と言っても、まだ上手く表情を作れるわけではなく、真理子にはそう見えたのだった。
刑事達はそれぞれ警察手帳を、富岡に見せて名乗った。
「事故当時のことを訊きたいんですが」と高橋が言った。
富岡は無表情だった。
「スピードを出し過ぎていたんですか」と島崎が訊いた。
富岡は首を傾げた。
「それでは、運転していて何か変わったことはありませんでしたか」
今度は高橋が訊いたが、やはり、富岡は首を傾げた。
「何か思い出したことはありませんか」と高橋が訊いても、同じように首を傾げるばかりだった。
そして、何か言おうとした。
「何ですか。何か言いたいんですか」
島崎が意気込むように訊いた。
富岡は首を左右に振って、真理子の方を見た。真理子は富岡の口元に顔を近づけた。
すると、ゴロゴロする声で「思い出せない」と言った。
「思い出せない、と言っています」と真理子は二人に向かって言った。
「何か思い出せませんか」と高橋が言った。
真理子は富岡の口元に耳を近づけると、「記憶がない」と言っているように聞こえた。
「記憶がないそうです」
真理子がそう言うと、「わかりました。これも手続き上のことなので、ご理解ください」と島崎が言った。
「手続き上のことなら、電話でも済むんじゃありません」と真理子が言うと、「そうも行きませんものですから。お手数をおかけしました」と島崎が言い、二人は病室を出ていった。
「全くいやね。手続き上のことなら、何もここまで来ることなんてないのに……」
真理子は腹を立てていたが、その一方でビクビクもしていたのだった。ただの自動車事故に二度に亘って、茅野から刑事が来ることなんてあるのだろうか、と思った。何か事故に疑いを持っているのではないか、とも思った。
だが、そんな考えてもわからないことに拘ることは無駄だと考え直した。
その時、富岡が真理子の腕を軽く叩いた。
刑事が出ていった方を向いていた真理子が富岡を見ると、メモ帳のようなものを持っていた。そこには、『会社の方はどうなんだ』と書かれていた。
真理子は、「売上は順調よ。もう凄いの。もうすぐ一万本売り上げるそうよ」と答えた。
富岡はまたメモ帳に何か書いた。そこには『いい事じゃないか』と書かれていた。
「そうでもないの……。バグが見つかったそうなの」
真理子がそう言うと、『そのバグがどこか、分かれば修正できると思う』と、富岡が書いてメモ帳を渡した。
「そうなの」
富岡は頷いた。
それを見て「やっぱり、あなたは凄い」と真理子は言った。
すると、富岡がメモ帳に『明日、デバッグをやっている誰かを連れてきてくれ』と書いて真理子に渡した。
「デバッグって」と真理子が言うと、富岡は『ソフトのバグを発見し修正すること』とメモ帳に書いた後に『今、デバッグをやっている人を連れてきて欲しい』と続けた。
「わかったわ」
そう真理子は言うと、富岡にキスをして病室を出た。