小説「真理の微笑 真理子編」

十八

 真理子が起きたのは、午前十時を過ぎていた。

 午前中のアリバイ作りは失敗したが、午後には面会に行こうと思った。ただ、あの富岡の様子では、時間を潰すのが難しそうだった。何か文庫本でも持っていって読んでいようと思った。

 

 午後の面会から帰ってきたのは、午後九時頃だった。やはり、途中の中華レストランで食事をした。

 家に帰ってきてまで、家事をしなければならないというのは、ただ面会に行ってきただけなのに、難しかった。

 帰ってきたら、すぐに休みたかった。

 シャワーを浴びるとベッドに入り、すぐに眠った。

 

 朝は、午前八時に起きた。

 軽く朝食を済ますと、会社に向かった。

 会社には午前九時前に着いた。

 社長室に入ると、いつものように滝川がお茶を運んできたので、今週の予定を訊いてみた。滝川は自分の部屋に戻り、スケジュール帳を持ってきた。

 真理子は自分のスケジュール帳を取り出すと、滝川の読み上げるスケジュールと照合していった。

「明日、午前十時に須藤さんが見えられるだけで、その他の面会予定は入っていませんよね」と真理子は確認した。

「はい、水曜日の午後二時から遠藤様の面会予定が入っていましたが、これは金曜日にキャンセルのお電話を差し上げました。もちろん、社長の手術の件は伏せています。これは了承して頂けたんですが、ただ、次に会う機会について尋ねられましたので、近いうちにご連絡申し上げますので、お待ちください、と言っておきました」

 滝川がそう言うと真理子は考えた。

「近いうちねえ」と呟いた。

「参ったわねぇ。水曜日の手術の結果次第では、どうなるのかわからないから、どうしよう」

「…………」

「その遠藤さんについては、木曜日に決めます。わたし、忘れっぽいので、覚えておいてくださいね」

「わかりました」

「他に無いようでしたら、これで結構です」

「失礼します」

 滝川が出て行った。

 しばらくして電話がかかってきた。出ると滝川だった。

「どうしたんですか」

「外線に病院からお電話がかかっていますので、お繋ぎします」

「わかりました。繋いでください」

 そう言うと、電話が切り替わった。

「お電話、かわりました。わたしは富岡真理子です。お早うございます」

「お早うございます。私は富岡さんの歯を担当している湯川です」

「ああ、湯川先生ですね。この間、インプラントの件についてお話を伺った……」

「ええ、そうです。今日、病院には見えますか」

「ええ、退社したらそちらに向かおうと思っていました」

「それなんですが、今日、午後一で、あ、いや、午後一時に病院に来ることはできますか」

「それは構いませんが」

「顔を担当している秋月医師とも話し合ったんですが、全部の歯をインプラントで形成することをお望みなんですよね」

「はい」

「それですと、顔形成外科との連携が不可欠になるので、彼と話し合いました。当病院での術例はありませんがやろうということになり、それならば、もう一度、リスク等についてご説明する方がいいということになりまして、私たちが手が空いている時間にお越し願いたいんですね。それで、急ではありますが、午後一時に来て頂いてご説明したいと思っています。今六階のHCUに移られていますよね。それでは六階のナースステーションに寄って、呼び出してもらえますか。そうすれば、そちらに向かいますから」

「わかりました。午後一時ですね」

「急で申し訳ありませんが、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 電話は切れた。

 時計を見た。

 午前十時を回っていた。後三時間ほどしかなかった。

 しかし、滝川と話をしていて、今日は他に急ぎの案件はないことはわかっていた。

 真理子は受話器を取って、内線で高木を呼び出してもらった。

 高木はすぐにやってきた。

 真理子は、病院から電話があったことを話した。

「それで、今日はこれで帰ろうと思うんですけれど、いいかしら」

「そういうことでしたら、後はお任せください」

「ありがとうございます。では、お任せします」

 高木が出て行くと、早速、真理子は帰り支度をしてハンドバッグを持った。

 滝川に声をかけて会社を出た。

 いったん、家に帰り、ベッドに倒れ込むと起き上がれそうにはなかった。

 実際に少しうたた寝をしたようだった。慌てて起き上がり、時計を見ると、午前十一時半を少し回っていたところだった。

「今度は、ベッドに倒れ込むんだったら、目覚ましを掛けてからにしないとね」と自分に言って聞かせた。

 食欲はなかった。野菜ジュースを飲むと、シャワーを浴びて化粧をした。

 控えめな藤色のワンピースを着て、腰に赤い幅広のベルトをした。

 車ではパンプスを履いて運転をし、病院に着いたら、ベルトに合わせた真っ赤なハイヒールを履いた。

 午後一時前だった。

 六階に上がり、ナースステーションに向かった。用件を伝えると、待つように言われた。

 しばらくして、二人の医師が真理子の前に現れた。顔の形成を担当している秋月と歯の担当の湯川だった。二人は、近くの小部屋に真理子を案内した。

 窓側に二人の医師が座った。

 まず湯川医師が「急にご足労願い、ありがとうございます」と言った。

「こちらこそ、お願いします」

「それでこの間、申し出を受けた件なんですが、顔を担当している秋月君と相談をすると、当病院では初のケースですが、やってみようということになったんです」

「ありがとうございます」

「顔と歯の形成を同時に行う術式になります」と湯川が言うと、それを引き継ぐように「通常のインプラントですと、インプラント体である歯根部を顎骨の中に埋め込み、その上にアバットメントと呼ばれる支台部をつけ、最後に人工歯をつけるんですね。しかし、今回のようなケースですと、顎骨を作る段階で、歯根部及び人工歯を最初から埋め込んだ状態で下顎と上顎を形成することはできないかということが検討されたわけなんです。噛み合わせなども検討して、まず正確な模型を作り、それに従って本番で使う顎骨及び歯を作ることになります」と言った。

 湯川が「はっきり言って非常に難しい手術になると思います。歯の噛み合わせについて言えば、やってみないとわからないというのが本音です。ただ、術後も経過観察して、微調整をしていくことは可能です」と言った。

「その模型を作って顎骨と歯を形成するのに、どれほど時間がかかるんでしょうか」

「ご主人の場合、早い方がいいと考えています。今はコンピューターの3D画像も進歩していますし、模型作りから本番に使用する顎骨と歯を作るのには、一週間もあればできると思います」

 今度は秋月が引き取った。

「これまで顔の形成は骨を埋め込んでから、様子を見て皮膚移植しようと思っていたのですが、歯も入れるのであれば、同時に顔の皮膚移植も行おうということにしました」

「わかりました」

「それで手術の日なんですが、この水曜日に行われる手術が順調に行われたと仮定した場合、最短で二十五日、火曜日になります」

 そう秋月が言うと、真理子は「それはお任せします」と言った。

「では、はっきりした手術日は水曜日の術後の経過を見て、またお知らせします。大体の見当ですが、来週の初めにはご連絡できると思います」

「わかりました」

「その時、もう一度確認しますが、この術式は大変難しく、かなりのリスクが伴います。当病院では初めての手術になります。従って、成功すればメリットは大きいですが、失敗した時のデメリットについてもお考えください。ちなみに失敗した場合は、通常の顎骨の形成と総入れ歯になりますが、顎骨の形成はやり直すということになりますので、患者様のご負担は大変重くなります。その場合のリスクは、通常の顎骨の形成に比べて、比較にならないくらい高いものになるでしょう」

 秋月はこの術式に伴うリスクについて説明をしていたが、内心では初めての術式であるだけにやりたくて仕方がなかった。論文も書けるし、実績にもなるからだった。それを隠して、真理子に、その他のリスクについても淡々と説明していった。

 しかし、真理子の腹は決まっていた。

「リスクについては、十分にわかりました。それでもお願いします」

「我々も最善を尽くします」

 秋月と湯川は、ホッとして言った。