小説「真理の微笑 真理子編」

十三

 家に戻ると、真理子はようやく解放された気分になった。

 TS-Wordについては、製作数を六千ロットからいきなり一万ロットにしたが、あれは言ってみれば勢いのなせる技だった。何か考えがあるわけでもなかった。自分で決定できる位置にいたときに、何かしてみたくなった。ただ、それだけのことだった。

 以前の自分には考えられないことだった。ただの社長夫人だったのが、その時の自分だったのだ。

 真理子は、富岡の車のブレーキに細工をして見送りだしてからの自分は、何かが変わった気がしたと思った。何かはわからない。何かの一線を越えたのだ、と思った。

 今は、富岡が事故に遭ったということ以上に怖いことがあるのか、という気持ちが強かった。

 夕食をとって、シャワーを浴びてベッドに入ると、一日の疲れが一度に襲ってきた。それだけ、真理子は気を張っていたのだった。

 

 水曜日までは、病院に行っても会社に行っても、特にこれといったことはなかった。ただ、水曜日に家に帰ると、保険会社からの書類が山のようにポストに入っていた。それらを取り出すと、一通り目を通した。すぐに返送しなければならないものはなかった。生命保険については、まだ入院中だし、手術はこれからだったからだ。

 ただ、自動車事故の保険については、もう一度担当者に連絡する必要がありそうだった。

 

 木曜日は、午前八時に病院に行くと、歯科医からの説明があるというので、医師が来るまで三階のナースステーションの前で待っていた。しばらくすると、医師が現れ、この前、顔の形成について説明を受けた小部屋に案内されて入った。

 やはり医師が窓側の椅子に座り、机を挟んで廊下側の椅子に真理子は座った。

「私は歯科医の湯川です。富岡さんの歯の整形を担当します」

「よろしくお願いします」

「富岡さんの場合、上下の顎骨が粉砕骨折しているのでそれを人工骨で形成することになります。これはその専門の形成外科が行うのですが、歯の方は私たち歯科医が引き受けることになります。富岡さんの場合、通常は総入れ歯になります」

「総入れ歯ですか」

「はい」

インプラントとか、そういうことはできないんですか」

「できなくはありませんが、非常に難しい治療になります。通常、インプラントを行うには、歯槽骨が必要になりますが、ご主人の場合にはこれがありません。インプラントを行うには、歯槽骨を作らなければなりません。これは人工の顎骨を作る時に一緒に作ることになります。これには、精密な顎の設計図のようなものを作り、歯をどのように埋め込むのか、基本的には歯槽骨の位置を確定していかなければなりません。そのようにして作った顎を顔に埋め込んでから、顎の定着を待って、インプラントの手術を行うことになります」

「できなくはないんですね」

「難しいと言っているだけで、できないわけではありません。それと費用ですが、保険が利きませんから、相当な高額になります。全部の歯をインプラントにした場合、数百万円から一千万円、或いはそれ以上かかる可能性もあります。ただ、ご主人の場合、全身症状がありますから、手術自体ができないかも知れません」

「あのう、顔の整形は来週の水曜日ということになっているんですが、今のお話を前提にインプラントを考えた場合に、間に合いますか」

「それは形成外科と相談してみます」

「では、インプラントを前提にご相談ください。費用については、いくらかかっても構いません」

「わかりました」

 

 真理子は医師と一緒に部屋を出ると、そこで礼をして別れた。

 会社に向かったが、妙な昂揚感があった。医師が何と言っても、このインプラントをさせてみせるという意志でみなぎった。

 会社では、TS-Wordに関する決裁書類が山積みになっていた。

 それらに目を通して、次々と判を押していった。

 

 午後五時になったので、会社を出て、病院に行くと、顔を担当する医師から話があると言うので、この前話を聞いた小部屋に入り、前と同じように座った。

「富岡さんの顔の形成を担当する秋月です。湯川君から話を聞いて驚きました。歯についてはインプラントをご希望なんですね」

「はい」

「はっきり申し上げて、この手の術例はほとんどなく、と言うか私が検索した限りでは前例が見つかりませんでした。もちろん当病院では初めてのことになります。従って、お勧めはできません」

「駄目ですか」

「いえ、前例がないと言っているだけです。ですから、リスクが高い手術になると思います。従って、お勧めできないと申し上げているのです」

「リスクがあることはわかりました。でも、できないわけではないんですね」

 秋月は軽く頷いて「可能だと思っています。はっきり言って、このような手術は前例がないだけにやってみたいという気持ちはあります」と言った。

「では、お願いできますか」

「もう一度確認しますが、リスクは高いですよ。それでも選択されるということであれば、喜んでやらせて頂きます。ただ、来週の水曜日には間に合わないので、顔の形成はもう少し先になりますが、いいですか」

「ええ、わかりました」

「歯科医の湯川と相談して日程を決めます。それと、主治医の判断も仰がなければなりません。しかし、それほど待たせることはしません」

「よろしくお願いします」

 そう言うと二人はほとんど同時に立ち上がった。真理子が先になり部屋を出ると、後から出てきた秋月に頭を下げた。

 

 真理子の頭の中には「リスクは高いですよ」と言った秋月の言葉が、反響していた。

 リスクですって、それは高ければ高いほどいいわ、と真理子は思った。

 医療事故で亡くなるのも、自動車事故で亡くなるのも、真理子にとっては大差はなかったのだ。

 

 それから、百貨店に向かった。この間、注文したスーツを受け取りに行ったのだった。丈が合っているかどうか、試着室で全部確認してから、五着のスーツを持って車に戻った。