四十八
病室に戻り、パソコンを起動し、パソコン通信のメールボックスを開く時が辛くなっていた。
メールを開くと次のようなメールが届いていた。
『隆一様
あなたが失踪した日の朝の事を思い出すのです。
あの時、わたしは何も気付きませんでした。きっとあなたは思い詰めていたでしょうに、それに気付く事ができませんでした。
その日の朝、わたしたちは普通に朝食をとりましたよね。何にも変わらない一日のはずでした。あなたが車で出かけていくのをわたしは祐一と見送りました。それが最後です。
それっきり、あなたは消息を絶ちました。二日待ってもあなたは帰っては来ませんでした。ですから、警察に相談に行きました。すると捜索願を出すように言われ、その用紙に書いてきました。そして、生存連絡のお願いも一緒に提出しました。
そして何の連絡もなく二ヶ月が過ぎました。しかし、ある日、突然あなたから電話がありました。最初の時は、何も言いませんでしたね、でもあなたからだと思いました。次にかかってきた時には、声こそ変わっていましたが、あなただとすぐわかりました。わたしはあなたが生きていてくれた事を感謝しました。さすがに二ヶ月も連絡がなければ、行方不明の死体となっているのかと思ってもきていたからです。警察にもよく足を運び、行方不明者の死体で、あなたに似たような人がいないか尋ねてみたほどです。しかし、そのような事がないと知ると安心する一方で不安もつのっていたのです。
そんな時でした、あなたからの電話があったのは。わたしは、受話器を耳に押し当てながら泣きました。あなたが生きている。それがわかり、わたしはとても安心しました。そして、あなたを追い求めていた苦しさからやっと解放されたと思ったのです。
でも、あなたは会えないと言いました。わたしが、なぜ、と訊いても答えてはくれませんでした。ただ、会えない。あなたの口から出る言葉はそれだけです。
ねぇ、あなた。わたしがどれほどあなたに会いたいと思っているか、わかる。わからないでしょうね。今のわたしは全てを失ってもいいからあなたに会いたいと思っているのよ。
お願い。あなたに会いたい。お願いします。あなた、あなたの顔をもう一度見たい。見せてください。 夏美』
夏美からのメールに警察の事が書かれていたのでドキッとした。
私はこのメールにどう返事を書けばいいのか、分からなかった。分からないまま、時間だけが過ぎていった。結局、このメールに返信する事はなかった。できなかったのだ。
気持ちを切り替えるために、由香里の事を考えた。
由香里の出産は、私が退院して間もなくだろう。母子手帳をよく見ておくんだったと後悔した。しかし、また由香里は来る。その時に見ればいい。
出産に立ち会う事はできないが……、と思っている自分を思うとおかしくなった。
これは私のではなく、富岡の子なんだぞ。そう思った。何だか不思議な気分だった。
富岡は、あの美しい真理子と結婚して十二年間、子どもを欲しがり、真理子を何度も抱いた事だろう。しかし、できずにクリニックに通う事までした。皮肉にも原因は真理子にあった。真理子は妊娠しにくい体質だったのだ。
由香里の話をまとめればそういう事になる。
由香里が、母子手帳の父親の欄に「富岡修」と書いた時の顔が浮かぶ。
それは嬉しそうな顔をしていた。それはそうだろう。真理子に子どもが生まれないのだから、婚外子だとしても、生まれてくる赤ん坊は富岡の子だ。最終的に富岡の財産を継ぐ者は、由香里の子どもという事になる。しかも、男の子だ。トミーソフト株式会社の将来の社長は、由香里の子だという事も考えられる。いや、そうなるに違いない。
そうなれば真理子はどうなるのだろう。私が、というより富岡が亡くなった後の真理子はどうなるのだろう。不思議な事に、明日の事も分からないはずの私ではあったが、そんな遠い将来の事を考えていた。
しかし、すぐに私は考えるのをやめた。考えても仕方がない事だったからだ。
それよりも自分の事を考えなければならなかった。
警察は病院に来なくなった。自動車事故として処理されたのだろう。とすれば、私はこれから富岡修として生きていかなければならなくなる。
今は記憶喪失を装っていればいい。しかし、これから先は記憶喪失ではいられなくなる。富岡の事をできるだけ知らなければならない。病室では得られる情報が限られている。自宅に戻ったら、できる限り情報を集めるのだ。