四十九
二週間が過ぎた。
由香里は産婦人科の帰りに病院に寄った。十一時頃だった。病室に来る前に電話をかけてきた。
「奥さんいる」
「いないよ」
「良かった。病院の一階の公衆電話から電話しているの。すぐ上がっていくからね」
私は由香里に母子手帳を出させた。分娩予定日は一月十三日と書かれていた。
「妊婦自身の記録」の欄には、「〈妊娠三ヶ月〉妊娠八週~妊娠十一週」に始まって「〈妊娠七ヶ月〉妊娠二十四週~妊娠二十七週」まで、びっしりと書き込みがされていた。
私は手帳を由香里に返した。
祐一の時を思い出した。夏美もああして母子手帳に書き込んでいたな、と思った。子どもが生まれてくる期待や不安が細かい字でびっしりと書き込んであった。ちょっとでも体調に不安があると医院に電話していた。
夏風邪をひいた時は大変だった。薬が飲めないものだから、頭を冷やすぐらいしか方法がなかった。それと、いちごを潰して練乳をかけたものを沢山食べさせた。
十日もしないうちに元気になった時はホッとした。
「気をつけてくれよ」と声をかけたら「ごめんね、心配かけて」と言った。
「由香里」
「はい」
「今、どうしているの」
「アパートに一人でいるよ」
「実家には帰らないの」
「お母さんもお父さんもうるさいもの。結婚もしない娘が妊娠したのが、よほど体裁悪いのね」
父親や母親とはそういうものだ。体裁が悪いというより、普通に結婚し、子どもをもうけてもらいたいものなのだ。由香里の両親もそうした、ごく普通の親だったのだ。
「実家にいても落ち着かないから、アパートにいるの。医院も近いし、こうしてあなたにだって会えるし」
「そうか。苦労をかけるね」
「ありがとう。でも、あなたがそういう気遣いするのって、何となくくすぐったく感じるけれどね」
そうか、富岡はあまり気遣いをしない男だったんだ。
「あっ、ごめんね、悪い意味で言ったわけじゃないから。何て言うか、前のあなたより、優しくなった」
ここで会話を止めてはいけなかった。
「優しくなっちゃ、いけないのか」と私はすぐに言った。
「そういうわけじゃないけど」
「私の子を産んでくれるんだ。優しくしてどこが悪い」
「そうだけど」
「感謝してるんだ」
「奥さんに悪くない?」
「そりゃ、知られたらまずいさ」
「そうよね」
「そうさ、気をつけてくれよ」
「でもね、わたし、考えるの。あなたが奥さんと別れてくれて、わたしと結婚してくれたらなぁ、って」
「おいおい、虫のいい話をするんじゃないよ」
「でも、そうすれば何もかも上手くいくでしょ。赤ちゃんもできたんだし……」
「馬鹿な事は言わないでくれ」
「わたし、結構、本気なんだけどなぁ」
「私が妻の事を愛しているのは知っているだろ」
「そうかしら」
今の私が真理子を愛しているのは事実だった。しかし、富岡はどうだったのだろう。真理子を愛していたのだろうか。
「ほんとに愛しているんなら、あっちこっちに愛人なんて作らないでしょ」
「それは……」
私にも分からなかった。
「ねっ、答えられないでしょ」
確かに答えられなかった。私なら、あんなに美しい妻がいれば他の女に目が移るなんて事は考えられなかったからだ。
「それに子どもができないのよ。でも、わたしにはできた」
子どもの事は富岡と真理子の間でも大きな問題だったろう。子どもができない事を持ち出されては、答えようがなかった。
由香里は自分のお腹をさすって、「ね。ここにあなたの子がいるの」と言った。まるで「わたしがあなたの本当の妻なのよ」と言っているかのように聞こえた。