二十六
眠りの中で、億万長者になった夢を見ていた。祐一が広い家の芝生で遊び、その側に夏美がいた。夢の中では祐一は四、五歳ぐらいだったろうか。夏美は大学生の時のような若さだった。白いブラウスに白いスカートを着ていた。
夏の穏やかな日だった……。
朝、体温と血圧を測りに来た看護師に起こされるまで、その夢を見ていた。実際に自分は成功者になったが、夢とはどれほどまでにかけ離れてしまっていただろうか。
看護師がいる前で、私は危うく涙を落とすところだった。
「36.4度。血圧は、120に68。いいですね」
「…………」
「眠れましたか」
「ええ」
「あまり、眠れなかったんじゃないですか。目が充血していますよ」
「起きがけだからでしょう」
「あまり眠れないようなら、言ってくださいね」
「分かりました」
「今日も午後からリハビリです。三時になったら迎えに来ますね」
「はい」
看護師が出て行くと、またベッドに横たわった。
朝食が済んだ頃、真理子がやってきた。
今日、シャワーを浴びるのでバスタオルとフェイスタオルに新しく買った肌着を持ってきた。真理子がバスタオルとフェイスタオルを用意してくれるので、それらはレンタルしなかった。
「昨日、松本電気に行ってきたわよ。あなたが欲しいって言っているもののメモを見せたら、来週明けには全部ここに届けてくれるそうよ」
「ありがとう」
私は感謝を込めてキスをした。
これでパソコン通信ができる。外の情報も伝わってくる。
「家のバリアフリーの件だけれど」
「うん」
「家を建てた時の施工会社に頼んだわ」
「そうか。いろいろと大変だね」
「そうね」
「でも、今の真理子は生き生きとして見える」
私は前の真理子を知っていたわけではなかったが、何だか今の彼女を見ていると、大変そうな感じは受けなかった。
「何、言ってるの。あなたがこんなふうだからじゃないの」
真理子は私の膝あたりを軽く叩いた。
「いて」
痛くはなかったが、私はふざけてそう言った。
「あっ、ごめんなさい」
毛布の上から、膝をさすりながら真理子は言った。きっとプラスチックのカバーに触れたのだろう。
「この上からでも痛むの」
心配そうに、私の顔を覗き込んだ。
足は全体的に痺れたような感じがあるだけだった。しかし、嘘だったとも言えず「少し」と答えた。
「あなたが入院して、このところ、わたし、すっかり会社出勤するようになったわね」
「ほんとだね」と、私は笑った。
「家で家事をしているより、向いているのかも知れない」と真理子が言うと、「きっと、そうなんだよ」と私も同意した。
真理子を見ていると、じっと家にいるようなタイプには見えなかった。と、その時、今まで子どもの話が出てこなかった事に気付いた。
つい、「子どもは……」と言いそうになったが、これまで話題にあがらなかったのだから、いないと考えるのが普通だと思い直した。余計な事はしゃべらない事が肝心だった。もし、いればそのうち分かる事だろうと思った。
「何か、伝えておく事ある?」
「いや、特にない」
「会社移転の方は、あなたが希望した所で進めていいのよね」
「そうしてくれ」
「じゃあ、行くわね」
真理子は軽く手を振って病室を出て行った。
それからどれくらい時間が経っただろうか、三十分とは経っていなかったと思う。
突然、病室に若い、少しケバケバした女性が現れた。
私を見るなり、「修ちゃん、こんなところにいたの」と抱きついてきた。
私は彼女を引き離すと、「ちょっと、待ってください。あなたはいったい誰ですか」と訊いた。
彼女は私の発した声に一瞬、ぎょっとした。
「どうしたの、その声」
「声帯を損傷したので、こんな声しか出ないんです」
「そう。事故っちゃったんだものね」
私は頷いた。
「ねぇ、あたし、あたしよ。あ・け・み、わかる」
もちろん、見覚えはなかった。
きょとんとしている私に「どうしちゃったの、修ちゃん。あたしがわからないの」と言った。私は頷いた。
「ほんとにわからないの」
「ええ」
「うそでしょう。誤魔化してない?」
「事故前の記憶がないんです。本当です」
「やだぁ~、困っちゃった」
「どうしたんですか」
「あたしとの約束も忘れちゃったってわけ?」
「約束?」
「そうよ、約束」
私は頭を左右に振った。
「北さんの事よ」
「…………」
「あんな事になっちゃったから、言い出しにくかったんだけれど、約束したわよね。北さんと寝たら百万くれるって。あたし、守ったわよ」
ケロッとして言う、あけみという女に、私は躰中が震え出すほどに、血が頭に上っていくのが分かった。この女だったのか、北村を誘惑したのは。
躰が自由に動けば、この女を絞め殺したくなっているところだった。躰がガタガタ動き出した。この女と二人だけで病室にいる事に耐え難くなったのだった。
私はナースコールした。すぐに看護師がやってきた。
私はわざと激しい呼吸をした。看護師は彼女をベッドからどかして、血圧を測った。私は分からないように思いっきり力んだ。血圧は思ったほどには上がらなかったが、普段よりは高かった。
「どうしたんですか」
看護師がそう訊いた。
「少し、胸が苦しくなって……」と言った。
「それじゃあ、先生、呼んできますね」
看護師は出て行った。
さっきの女は部屋の隅に立っていた。所在なさげだった。
「あたし、帰るね。また来るわ」と彼女が言うと、少しは冷静さを取り戻した私は「待ってくれ。話を聞くから」と言った。怒りは収まらなかったが、このまま帰しても、気になるだけだったからだ。
「そこにいてくれ」
しばらくして、医者と看護師がやってきた。医者が私の胸に聴診器を当てた。やがて聴診器を首にぶら下げて「心配いりません。胸の音は綺麗です」と言った。
「そうですか。ご心配をおかけしました」と言うと、「いいんですよ。気になったらいつでも声をかけてください」と言って出て行った。
部屋の隅にいた女がベッドに寄ってきて「あたしのせい」と訊いた。
「ちょっと、驚いただけですよ」と私は努めて冷静さを保って、そう言った。
「クラブにも来ないし、会社に電話しても社長はいないって言うし、一体、どうなっているのか、全然わからなかったの。これでも心配していたのよ」
彼女は二十四、五歳といったところだろうか。もう少し若いかも知れなかった。化粧が濃いめなので、年齢がよくは分からなかった。ただ、声が若さを感じさせた。
「見ての通りです。自動車事故を起こして、今はベッドから出られません。そして、事故前の記憶を全部失っているんです」
「そう」
「自動車事故の事は報じられているかも知れませんが、どうしてこの病院が分かったんですか」と、私は疑問に思っている事を口にした。
女はベッドの側の椅子に座って、「あたしだって馬鹿じゃないわ。二ヶ月も修ちゃんと連絡が取れないなんて普通じゃないもの。何かあった事ぐらい、わかるわよ」と言った。
「でも葬式が行われた様子もないから、病気にでもなったんじゃないかと思ったの」
「そうですか」
「いろいろ捜したわよ。でも、駄目ね。むやみに捜しても見つかるはずないもの」
それはそうだろう、と思った。
「それでね、いい事思いついたの」
女の目が輝いた。
「あなたの自宅は知っているから、今朝、張り込んでみたのよ」
「なるほど」と私は感心した。女は見た目より賢かったのだ。
「あなたの奥さん、赤いポルシェに乗っているでしょ。目立つからわかるの」
そうか、真理子は高級外車に乗っているのか。
「八時頃出たので、後をつけてきたら、この病院に着いたってわけ。受付で従妹だって言ったら、病室教えてくれたわ」
女の知恵には驚かされた。
「奥さんと会うのはまずいから、赤いポルシェが出て行くまで待って、ここに訪ねてきたってわけ」
そりゃどうも。
「それでね。修ちゃんは忘れてしまっているかもしれないけれど、あたしは修ちゃんに北さんを誘惑してくれって頼まれたの」
「北さんって、北村の事?」
「そうよ。そうに決まっているじゃない。何とかシステムの専務だとか言ってたわよね」
北村は、何とかシステムじゃなく、(株)TKシステムズの専務だ。
「それで」
「北さんを誘惑しろって言ったでしょ。あたしのタイプじゃないから嫌だって言ったけれど、修ちゃんのたっての頼みだって言うし、あたし、お金に弱いし……」
「それ、いつ頃の事」
「ほんとに、忘れているのね。去年の夏頃だったかしら」
TK-Wordのプロトタイプができ、修正を施していた頃だった。その頃から、富岡は北村に接触していたのか。
「北さんって、お酒にはあまり強くないわね。ある程度飲むと、すぐ眠るの」
「…………」
「だから、ホテルに連れていって、朝まで寝かせていた事もあったわ。その時は、すっかり、あたしと関係を持ったと思い込んだわね」
北村のそんな一面を私は知らなかった。私と酒を飲んでいるときとは違っていたからだ。
「北さんは、すっかりあたしにのめり込んでいったわ」
「…………」
「お店のお勘定も給料だけじゃ足りなかったでしょうね。そこに修ちゃんがつけ込んだのよ」
私は再び怒りが湧いてきた。しかし、今度はコントロールできた。怒りの矛先は、目の前の女よりも、富岡に向かっていたが、その富岡は私がすでに殺していた。確かに殺したが、こうして富岡のやってきた事を聞いていると、怒りを収める事は難しかった。
「修ちゃんが、北さんに何度かお金を渡しているのを見たわ。最初は北さんは断っていたようだけれど、修ちゃんは胸ポケットに突っ込むように無理に渡していたわね。そのうちに、北さんも黙って受け取るようになった」
私には、その光景が見えるようだった。
「北さんは、あたしと寝たと思っているから、何度も誘ってきたわ。でもね、その都度、あたしははぐらかしていたの」
あの頃の北村のそわそわした様子はそういう事だったのか、と今頃になって合点がいった。北村は、富岡からお金を貰う代わりに、うちの新製品の情報を流していた。その一方で、このあけみとかいう女が、北村にお金を使わせていた。
何て卑怯な方法なんだ。女がいなければ怒鳴っていただろう。
「そうね、年が明けてすぐの頃だったかしら。北さんに真剣にしらふの時に抱きたいってお願いされたの。あたしも断り切れなくなってきたものだから、今のアパートからマンションに引っ越したいから、百万円出してくれたら、寝てあげるって言ってしまったの。そんなお金、北さんにない事知っていたから、断る口実だったのよ」
「でも、彼の事だから真に受けたんでしょう」
「そうなの。お金の事はなんとかするから、ってきかないの。あれ、修ちゃん、北さんの事知っているじゃん」
「そうじゃないけれど、話を聞いていれば分かりますよ」
北村の事は知っているつもりだったが、ここまで女に免疫がないとは思わなかった。
「その話をしたら、何故か修ちゃん、あなたはニヤリと笑ったわね。それで、彼の思うようにしてやれよ、と言ったの。北村には俺からお金を渡すから、って。そして、先にやらしたっていいだろう、って言ったわ。で、そうなったわけ」
「なるほど」
「だから、北さんが交通事故で死んだ時は、びっくりしたの。まだ彼からお金受け取っていなかったんだもの」
「北村が死んで、悼まなかったんですか」
「そりゃ、気の毒に思ったわよ。でも、あたしのようなものが通夜に行くのは変でしょ。あたしだって、商売だったんだから」
「それはそうですね」
私が北村の葬儀は仕切った。誰か、密かに付き合っている女性でもいるのかと思って通夜に来ている者には注意を払っていたつもりだったが、その場には、あけみのような女性は来なかった。
「で、あたしの百万円はどうなるの。この話、反古にする気なの」
女は、私の状態を見て、すぐに手にできるとは思わなくなったようだ。
「少し考えさせてください。私はその話も含めて、すっかり記憶を失っているんです。何が真実かなのかさえも、わからないんです」
「でも、この話は修ちゃんとの約束なんだよ。真実も何も、あたし、嘘なんか言ってないから」
「ええ、そうなんでしょうね」
これは高瀬ではなく、富岡の事なのだ。彼ならやりそうな事だった。女の言っている事が嘘だとは思わなかった。この話が本当だとすれば、北村が私を裏切った理由も説明がつく。北村は女という毒に飲み込まれたのだ。
「あたし、絶対あきらめないからね」
「わかりました」
「その言い方もいらつくのよね。修ちゃんらしくない。あたしの修ちゃんはどこに行ったの」
単なる言葉の綾だろうが、私にはドキッとした。
「私も知りたいのです、私の事を」
「今日は、これで帰るけれど、また来るからね。その時には、ちゃんと、お金、用意しておいて欲しいわね」
女が帰ろうとした。私は慌てて「名刺、持ってますか」と言った。
女の名前があけみだという事は分かった。しかし、何処で働いているのか、知らなかった。
「これよ」
クラブ「楓」、銀座****、と表には、書かれていて、裏には、あけみ、と印字されていた。女は病室のドアを乱暴に開けて、閉めて出ていった。