小説「真理の微笑」

二十七

 ベッドサイドのテーブルから富岡の手帳を取り、カバーを見た。裏側には名刺を挟めるような切り込みが七段あった。しかし、そこにはクラブやバーの名刺は一枚も挟まれていなかった。

 表の方には、会員制のクラブのカードが何枚か挟まれていた。ゴルフ場のものが二枚あったが、「楓」というクラブのものはなかった。

 アドレスページをめくってみた。そこにもクラブやバーの店名も住所も電話番号もなかった。

 しかし、夕方五時以降の平日には、イニシャルと時間が記されている。その中に「A」のイニシャルはなかった。

 星印がついている日にあけみと会っていたのだろうか。いや、それは違う。星印は午後五時以降とは限らないからだ。あの街で偶然に彼を見かけた日にも星印がつけられていた。それは午後二時だった。

 北村とあけみが会っている時に富岡が割り込むのは、野暮というものだ。星印は北村と富岡が会っていた時と考えるのが妥当だろう……。

 ここで考えは行き詰まった。

 

 昼食の時間になった。すりつぶして成形したおかずから、柔らかめの煮物や骨が抜いてある白身魚のあんかけが出た。ご飯も軟らかめに炊いてあったが、お粥ではなくなっていた。食欲はなかったが、全部食べた。

 

 午前中の事が気になった。

 あけみはまた来る、と言った。北村から百万円もらえる約束をしていて、その北村が亡くなったのだから、あけみの論理では富岡に取りに来るのは当然の事なのだろう。

 こんな事で(株)TKシステムズの作ったワープロソフトが盗まれた事が悔しくてならなかったが、北村も富岡も死んでいる。あけみの話を聞けば、怒りがつのるだけだったが、その矛先を向ける相手はもうこの世にはいない。

 それよりもあけみの事をどうするかが問題だった。

 真理子に知られるわけにはいかなかった。といって、どうやって百万円もの金を工面したらいいのだろう。あけみに百万円を渡すのは悔しいが、それが一番面倒を起こさない事のように思われた。しかし、今の状態では、自分ではお金を動かす事はできない。だから、またあけみがやってきても何も解決できない。

 

 午後三時からのリハビリは、手足の運動と車椅子の操作はまあまあだった。だが、奥の部屋の女医による頭の体操は最低だった。見せられた絵を見て、同じように図を書く事はなんとかできたが、積み木のようなもので、一度作られた図形をまねて作る事が上手くできなかった。最もひどかったのは百から七を引く暗算が、散々だった事だ。最初の九十三はできたが、次からがおかしかった。八十六ができても七十九ができなかったりした。

 やはり、あけみの事が影響していたのだろう。

 リハビリの後のシャワー入浴で少し気持ちも落ち着いてきた。躰がさっぱりすると気分も同じように……さっぱりとするわけにいくはずもなかった。

 

 そんな時だった。

「お電話をお持ちしました」と言って看護師が入ってきた。黒いダイヤル式の電話だった。

「繋ぎますか」と訊くので「お願いします」と言った。

 電話機はベッドサイドのテーブルの上に置かれた。これで外部と電話連絡が取れるようになった。そう思った時には、もう受話器を取っていた。自然と高瀬であった時の自宅の電話番号をダイヤルしていた。理性はやめろと言っていたが、そうせずにはいられなかった。しかし、電話が繋がると、「あなたのおかけになった電話番号は、現在使われておりません」というナレーションが聞こえてきた。

 そうだった。夏美は祐一と実家に戻っていたのだった。今度は、夏美の実家に電話をかけた。もし、夏美以外の義父や義母などが出たら切るつもりだった。

 呼び出し音が長く感じられた。しばらくして、受話器を取る音が聞こえてきた。

「もしもし、川村です」

 夏美の声だった。川村というのは、夏美の旧姓だった。

 その声は、二ヶ月前に聞いているはずなのに、随分と昔に聞いた感じがした。

「どちら様ですか」と夏美は訊いてきた。私が何も言わなかったからだ。その声を聞いているうちに涙が溢れてきた。電話口でつい嗚咽を止める事ができなかった。

 沈黙がしばらく続いた。そのうち、夏美から「あなたなの」と言う声が聞こえてきた。

「そうだ」と言えたらどんなに楽だろうと思った。私は泣き声を押し殺していた。

「あなたなのね」と夏美は言った。私は何も言えなかった。しかし、電話の向こうの夏美は、今電話をかけているのは、私だと確信しているようだった。

「心配したのよ」

「…………」

「もし、あなただったら……、話せないのだったら……、うん、でも、ああ、でもいいから、何か言って……」

 夏美の絞り出すような声に、私は何も返事をする事ができなかった。何も言わない私に「やっぱり、あなただったのね。今は、話せないのね」と夏美は言った。

 そうだ、話したくても話せない、と答えるわけにはいかなかった。

「だったら、聞いてね」

「…………」

「会社は倒産したけれど、わたしたちは大丈夫よ。こうして実家に戻って元気に暮らしている。祐一もこっちの学校に通っているわ」

「…………」

「捜索願を出したので、警察があなたの事を捜してくれているわ」

 刑事が来たから、それは分かっていた。刑事は、富岡が高瀬である私を殺したと思っているのだろう。

「あなたが生きていてよかった」

 夏美は本当に安堵しているようだった。私から二ヶ月も連絡がないのだから、死んだものと思っていたのに違いない。

「刑事からあなたの車が茅野で見つかったと聞いたわ。どうしてそんな所から……って思ったの。だって、茅野なんて行った事もないし……」

 私は答えようもなかった。声を出さずに、夏美の声を懐かしく聞いていた。

「だから、悪い想像ばかりしてしまったの。山で遭難したのだとか……」

 山で遭難か……、と思った。その方が良かったかも知れない。

「でも、こうして電話してきてくれたんだから、生きているのよね。良かったぁ」

 夏美の声が優しく響いてきて、荒んだ心を癒やしてくれるかのようだった。

「話せないのは、何か事情があるからなのね」

「…………」

「いいわ、何も言わなくて。どんな事情があるか知らないけれど、こうして電話をかけてきてくれるだけでいい」

 そこまで夏美の声を聞いた時、病室に真理子が入ってきた。私は慌てて受話器を置いた。

 真理子が言い出す前に、「今、会社に電話しようとした」と言った。

「そう」とだけ真理子は言って窓際に立った。いつもはキスをするのに今日はしなかった。

 まだ夕食まで少し時間があった。

「何かあったのか」

 真理子は「いいえ」と言ったが、何かがあったのだと直感した。

 まさか、あけみがあの後、会社に行ったのではないだろうか、と思った。

「誰か来たのか」

「いいえ」と真理子が答えた後、「誰が来ると言うの」と訊き返してきた。

 私は答えなかった。