小説「僕が、剣道ですか? 6」

十四

「京介様」と呼ぶ声がした。きくだった。

「朝餉ですよ」と言った。

「今日はいらない。もう少し、眠らせてくれ」と言った。

「わかりました」

 きくは襖を開けて居間に入って行った。

「どうでした」と言う風車の声が聞こえてきた。きくの声が聞こえてこないので、首を左右に振っているのだろう。

 

 結局、お昼少し前まで眠っていた。

 起きると、風車が「どうしたんですか」と訊いた。

「いや、草刈りの疲れが今頃出て来たんでしょう」と言ったが、苦しい言い訳だということは分かっていた。

「どうです、一局」と風車は言った。

 碁を打つ気分ではなかったが、他にすることもないし、動かなくていいので、「いいですよ」と答えた。

 でも碁は散々だった。前には二子で勝っていたのに、三子でも負けた。碁が頭に入ってこなかったからだ。

 

 昼餉では、風車に「今日は調子が悪いんですか」と訊かれた。

「いいえ」と答えると、「碁に体調が表れていますよ」と言われた。

「そうなんですか」ときくが心配そうに訊いた。

「ええ。碁を打っていると、相手の調子がわかるんですよ」と風車は答えた。

「それで」ときくは促した。

「今日の鏡殿は、まるでやる気がないようです」と応えた。

「新居に住んで、疲れが出たんでしょう」と僕が言うと、きくは「霊のせいかも知れませんよ」と言った。

 僕は慌てて「そんなことはない」と言った後で、「後で一局打ちましょう。今度は負けませんよ」と風車に言った。霊から、話題を逸らすためだった。

「いいですよ。でも、今日は全部、勝たせてもらいますからね」と風車は言った。

 

 午後、碁を打っていると汲み取り屋がやってきた。

 この家には三箇所厠があった。

 一つは、居間と離れの間にあり、よく使うところだった。もう一つは湯屋の隣にあった。最後の一つは、奥座敷の奥にあった。来客用のものでめったに使わなかった。

 汲み取り屋が糞尿を汲み取ると、代金を払おうとするので、「いらないよ。それより、定期的に来て欲しい」と言った。汲み取り屋は「わかりました」と言って、頭を下げて行った。

 汲み取り屋が来ると、少し匂いが立ち残ったが、やがて風に流されていった。

 

 おやつは焼きトウモロコシだった。

 トウモロコシを三つに切って、七輪で焼いたのだった。

 食べてみると、現代の物より、甘くはなかったが、芳ばしくてこれはこれで美味しかった。お茶を飲みながら食べた。

 碁の方は、少し僕の方が形勢が良かった。また、下手な碁を打つと何を言われるか知れないので、慎重に考えて打っていたのだった。

 トウモロコシを食べ終えると、碁に戻った。僕は形勢を良いまま保ち、二子局を五目差で勝った。

 すぐに風車は「もう一局」と言ってきた。

 この碁も負けるわけにはいかなかった、時間はかかったが、何とか気力を持たせて、勝ちきった。

 風車は「もう一局」と言ったが、「風呂焚きをしましょう。今日は早く眠りたいのです」と言った。

「それじゃあ、しょうがありませんね」と風車は言って、僕と一緒に風呂に水を入れ、火をつけるのは、風車がした。

 風呂が沸くまでの間に、庖厨の瓶の水を取り替えた。それから、厠の手水も継ぎ足した。

 

 風呂では、頭と躰を洗って五右衛門風呂に入ったら、眠りそうになった。風車に声をかけられて、風呂から出て、そのまま脱衣所に行こうとしたので「今日は髭を剃らないんですか」と言われた。僕は慌てて、風呂場に戻り、髭を剃り、かけ湯を頭からかけて、脱衣所に向かった。

 

 夕餉は早めに済ませて、風車が「一局」と言ったが断って、寝室に向かった。そして布団を敷いて、すぐに眠った。変だと思われたかも知れなかったが、しょうがなかった。

 

 夜半になって、冷気が漂ってきたが、僕はそれには気付かなかったようだ。女は姿を消したまま、直接僕の顔に手を触れた。それで、僕は起きた。

 きくの方を見ると、深く眠っているようなので、そのまま布団から抜け出した。

 今は疲れているので、時を止めることが面倒だったのだ。

 奥座敷に入ると、抱き合った。そして、そのまま崩れるように畳に横たわった。

 女が唇を寄せて来た。僕はその口を吸った。

 

 その時だった。障子戸が開いた。きくがいた。

 女の姿も見られた。

「こんなことだと思いましたわ」ときくが言った。

「今日の京介様の様子があまりにも変でしたから」

 女は僕の後ろに隠れた。姿を消せばいいものを忘れていたのだ。

「あなたが幽霊ですね」ときくは女に向かって言った。

 女は答えなかった。その代わりに消えた。

「やはり幽霊がいたんですね。そして、京介様に取り憑いたんですね」ときくは言った。

「二度と京介様には近づけさせませんから」

 きくの言葉には、怒りが籠もっていた。

「ここでは何ですから、寝室に戻りましょう」ときくは言った。

 僕はきくの言うとおりにするしかなかった。

 

 寝室に戻ると、「明日、風車様と一緒に浅草寺に行って御札をもらってきます」と言った。

「京介様は忘れたと思いますが、妖刀の話(「僕が、剣道ですか? 2」参照)は、聞きました」と続けた。

 妖刀を清めた刀で切った話はしたが、そんなに簡単にあの霊を切れるものではないと思った。が、そう思わせておいた方が良いと考え、僕は何も言わなかった。

 僕は眠気に襲われた。

「眠るがいいか」と訊くと、「どうぞ」と言われたので、そのまま眠った。

 

 朝はすっきりと起きられた。昨日はあまり力を使わなかったためだろう。

 朝餉の後、風車が中庭で珍しく真剣で素振りをしていた。

「いやぁ、腕がなまっているのではと思い……」と言った。

「どうして、どうして。見事な素振りでしたよ」と僕は言った。

「この先の大川に、渡し場があるんですよ」

「ほう」

「その向こう岸は、浅草の近くです。今日、おきくさんと浅草寺に行くことになっていまして」と言った。

 幽霊を切るために、風車の刀を清めに行くことは分かった。それで僕に内緒にしていたのだ。しかし、そんなことは知らない風車はべらべらとしゃべった。

「幽霊が出たそうじゃないですか」

「そうらしいですね」

「鏡殿は見なかったのですか」

「私には見えませんでした」と嘘を言った。

「そうですか。昨日の鏡殿の様子が変だったので、おきくさんの話を聞いて納得したのです。それで、拙者が幽霊を切ることになりました」と風車は言った。

「幽霊って、切れるんですか」と僕が訊くと、「拙者も切ったことがないのでわかりませんが、鏡殿は切ったことがあるそうですね」と言った。

「あれは幽霊ではなく、妖刀でした。でも、似たようなものかも知れません」

「その時、どうされたのですか」

「刀を清めました。そして、その刀で切りました。その話をきくにしていたのですね」と僕は言った。

「それでですか、浅草寺に行きましょうと言ったのは」と風車は言った。

「私に隠して行くつもりだったのに、風車殿がしゃべってしまいましたね」と僕は言って笑った。

「これは不覚でした。そういうことでしたか。だったら、聞かなかったことにしておいてください」と風車は言った。

「分かりました」と僕は応えた。

 

 出かける時、「どうせ浅草に行くのだ。昼餉は美味い物を食べてくるんだぞ」と言って、巾着を渡した。

「京介様はどうされるつもりですか」ときくは訊いた。

「私は梅干しで茶漬けを食べるさ」と答えた。

「それではあまりではありませんか」ときくが言った。

「私は梅干しの茶漬けが好きなんだ」と言った。

「そうでしたの。知りませんでした」ときくが言った。

 でまかせも効かないのか、と思った。

「とにかく行っておいで。心配ないと思うが、舟だから、気をつけて」と僕は言った。

「わかっています」ときくは応えた。

「ききょうの面倒はちゃんと見る」と僕は言った。

「昼餉にお粥を食べさせてくださいね」

「ああ」

「じゃあ、行ってきます」と言って、きくは風車と一緒に家を出て行った。

 

 二人がいなくなった家の奥座敷に、ききょうを抱いて向かうと「あやめ」と呼んだ。しかし、返事はなかった。昼間は出てこられないのかも知れなかった。