小説「僕が、剣道ですか? 5」

三十五

 小競り合いをしていても、キリがなかった。

 もう一度、攻めてみようと思った。

 僕は飛び出すと相手に向かって走って行った。

 突然、走り寄られて、相手は警戒していた。当然、技を使ってくるものと思っただろう。僕は、今度は信三郎の間合いに入って、時を止めた。一瞬だったが、信三郎の片手が止まった。その時、足が見えたので、足を切った。

 深くはなかったが、手応えはあった。そして、時を動かし離れた。

 信三郎はもう、前のように切りかかってくることはできないだろう。

 こちらが有利になった。

 僕はなおも、切り付けていった。相手は技をかけて防ごうとしていた。

 

 その時だった。

「京介様」と言うきくの声が聞こえた。

 あまりに遅いので、見に来たのだ。後ろには千両箱を担いだ風車も見えた。

 僕は咄嗟に「来るな」と叫んだ。

 きくは止まった。

 信二郎がきくの方に走るのが見えた。無駄とは思ったが、信二郎に向けて、止まれ、と心の底から念じた。すると、信二郎の動きが止まった。僕は走り寄って、信二郎を斬った。

 そして、向き直ると、信三郎にも、止まれ、と念じた。信三郎も動かなくなった。

 僕は走り寄って、信三郎を難なく袈裟斬りにした。

 

 そのとき、きくが走り寄って来た。

 僕は定国の血を信三郎の着物で拭うと鞘に収めた。そして、きくを抱き締めた。

 この時、僕は初めて、時は全体を止めることも特定の人を止めることもできることを知った。そして、全体を止めるよりも特定の人を止める方が、より小さな力でできることも。それは、逆に言えば、特定の人を止めるときには、大きな力を加えることができるということでもあった。だから、信二郎だけを止めた時に、信二郎は僕の力を解くことができなかったのだ。信二郎よりも僕の力の方が遥かに大きかったのだ。

 それが分かっていれば、こんなに長期戦にしないでも済んだものを、と思わずにはいられなかった。

 きくを抱き締めながら、僕はきくに救われたのかも知れないと思った。

 風車が寄ってきて、「あまりにも遅いので、見に来てしまいました」と言った。

「仕方ないですよ。それだけ、強い相手でした」と僕は言った。

 そして「さぁ、行きましょう」と言った。

「大丈夫なんですか」

「ええ、時間はかかりましたが、なんとか」と応えた。

 

 さすがに寺の階段を下りる時は、足がガクガクと来た。しかし、転ぶことはなかった。ゆっくりと下りていった。

 下に着くと、ジーパンなどを脱いで、着物に着替えた。

 安全靴も草履に履き替えた。

 その間に、風車は台車に千両箱を載せ、風呂敷で隠した。さらにその上に他の風呂敷包みを載せた。

 僕はショルダーバッグの中からチョコレートを取り出すと、それを食べた。

「うまそうなものを食べていますな」と風車はいかにも欲しげに言った。しかし、こればかりはやるわけにはいかなかった。いざというときの栄養補給源だったからだ。

 

 台車を押しながら、「次の宿場で泊まりましょう」と僕は言った。

 前ほどではないにしても、疲労感はあった。早く休みたかった。

「昼餉もおやつもとってはいないのでしょう」と僕が訊くと、風車が「そうでした。どうりで腹が空いていると思ったわけだ」と言って笑った。

 

 根来兄弟を倒したことで、僕はホッとしていた。

 後は公儀隠密が残っているが、根来兄弟ほど恐ろしいとは思わなかった。彼らがいかに多くても、それは関係のないことだった。時の止まった状態では、無力なのだから。

 

 宿場に出た。

 どこにしようかと悩んだ。

 どこも同じく見えるので、大きな宿屋にした。

 個室は一人一泊二食付きで四百文、相部屋は一人一泊二食付きで二百文だった。

 そこにした。それに特別料理も頼んだ。「二百文ですが良いですか」と言うので「いいよ」と答えた。

「で、何」と訊くと「天ぷらです」と答えた。

 風車が天ぷらと聞いて、「それはいい」と言った。

 

 風呂に入ると、風車が「鏡殿が斬る時、相手は動かなくなりましたよね」と言った。

「そうでしたか」と僕はとぼけた。

「そうですよ。何か技でもかけたのですか」

「技ですか。そうですね。かけたかも知れません」

「えっ、どんな技なんですか」

「止まれ、って言ったんです」

「止まれ、ですか」

「ええ」

「それで止まったんですか」

「そうじゃないですか」

「そんな馬鹿な。からかわないでくださいよ」

「いや、からかってはいないつもりなんですけれどね」と僕は言った。

 僕の言っていることは、多少脚色がかっているが、本当のことだった。だが、これを風車に信じろ、と言っても無理な話だった。

「しかし、あの時まで戦っていたなんて、大変な奴らでしたね」

「ええ、とても強い相手でした」

 

 風呂から出ると夕餉の準備ができていた。

 天ぷらが大きな膳の上の大皿に載せられていた。

「うまそうですな」と風車は言った。

「大きなエビですね」と僕が言った。

「わたしもお腹が減りましたから、遠慮なくいただきますよ」とききょうを抱いたきくが言った。

 僕は「沢山食べて、元気な子を産んでくれ」と言った。

「ええ」と言うと、きくはエビから取っていった。

 僕は山菜の天ぷらを塩で食べた。

 美味しかった。

 風車も「うまいですなぁ」と言った。

 忽ち、おひつは空になった。そして、お替わりのおひつが運ばれて来た。

 

 夕餉が済むと、すぐに僕は布団に入った。

 戦いの後は、僕が休むことを知っている風車は「おやすみなさい」と言って、隣の相部屋に行った。

 きくが僕の隣に来ると、「今日の敵は京介様と同じような技の使える者だったのでしょう」と言った。

 僕はきくの顔を見た。

「あのうちの一人がわたしに向かって走ってきた時に、止まりましたよね、まるで、時が止まったように。そして、京介様は簡単にお斬りになった」

 僕は何も言わなかった。

「初めて目の前で人が止まるのを見ましたわ。今までもそうだったのですね」

「そんな与太話は人にするんじゃないぞ」と僕は言った。

「言いませんとも、わたしだけが知っていればいいことですから」ときくは言った。

「眠るぞ」

「はい」