小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十九

 頬を叩く者がいた。

 きくだった。隣に風車もいた。

 足元には、斬り裂いた男が倒れていた。

「あまりに帰りが遅いので、林を上がってきたのです」と風車が言った。

 風車は千両箱を担いでいた。僕がそれに目をやると、「鏡殿を捜している間に盗まれてはいけないと思いましてな」と言った。

「ありがとう」と僕は言った。

「凄まじい戦いだったようですな」と風車が言った。

「ああ」

「上がってくる時、何人も倒されているのが見えました」と風車が言った。

 きくは抱きついてきて、「あなたが無事で良かった」と言った。

「あの商人風の男は」と僕が訊くと「あいつですか。鏡殿が林に向かったら、案の定、襲ってきましたよ。しかし、拙者の敵ではなかった」と風車は言った。

 きくも「風車殿は頼もしかったですよ」と言った。

 僕は立ち上がろうとした。しかし、躰が思うように動かなかった。疲れ切っていたのだ。

 木につかまりながら立ち上がった。

「きく、気をつけろよ」と僕は言った。こんな林の中をききょうをおぶって僕を捜しに来るなんて、無謀にもほどがあった。

「大丈夫です」

 僕は定国を杖代わりに、歩き出した。林の中だったので、足を取られることには注意をした。

 林を抜けるのが、ひどく長く感じた。

 僕は降りながら、きくに「こういうときには風車殿に任せておけば良かったのだ」と言った。でもきくは、「きくは、待ってはいられませんでした。鏡京介様に何かがあったのだと思いました。そう思うと、いても立ってもいられなくなったのです」と言った。

「あまり、おきくさんを責めないでください」と風車も助け船を出した。

「おきくさんの様子は見てはいられませんでしたよ。拙者もおきくさんの躰のこともあるので、待っているように言ったのですが、こればかりはどうにもなりませんでした」と言った。

 下まで降りると、僕はショルダーバッグの中を探した。チョコレートが出て来た。それを一枚頬張った。

「それは何ですか」と風車が言った。

「チョコレートという物です。このように疲れたときには、いい食べ物です」と言った。

 僕はあまり歩けそうになかったので、先の宿に行くより、昼餉を食べた宿場に戻ることにした。

 僕は台車に乗り、風車に押してもらった。

 

 宿場に着いた時は、すっかり日が暮れていた。

 僕は近い宿に泊まることにした。

 台車の荷物を風車に運んでもらって個室に置くと、きくが見張っている間に、僕は風車の肩を借りて、階段を上がっていった。部屋に入ると僕は転がった。そのまま眠ってしまいそうになったが、きくが血に染まっている着物を脱がして、浴衣を着せてくれた。

 浴衣を着ると、僕は畳の上で眠ってしまった。

 

 起きたのは、夕餉の時だった。

 何とか夕餉を食べると、お茶を何杯かお代わりをして、食べ終わると、すぐに眠ってしまったようだ。

 布団には、風車ときくに運ばれて横になったようだった。

 次の日まで、僕は死んだように眠っていた。

 朝起きると、雨だった。

「雨か」と僕が言うと、きくも「雨ですね」と言った。

 これを恵みの雨というのだ、と僕は思った。実際のところ、今日も歩くのはしんどかったからだ。

 僕は布団に戻ると眠った。

 

 朝餉が用意されることになり、僕は布団から起きた。

 しかし、部屋の隅で寝転がっていた。風車が隣に座って、「それほどまでに疲れるとは、相手も手強かったのですね」と言った。僕は頷くのがやっとだった。

「それにしても、あれだけの数を倒すとは信じ難いことです」と風車が言った。

「鏡殿だから、できたことですね」と続けた。

 僕は応えることができなかった。

 それにしても、自分と同じように時を止めることができる者に出会ったことが衝撃だった。打ち破ることができたから良かったものの、そういう者がいるということは他にもいる可能性はあった。

 同じ能力を持つ者に不意を突かれたら、今度はこちらがやられることだろう。それだけは避けなければならなかった。

 同じ能力を持つ者が敵にいるのなら、早めに見つけ出して倒さなければならない。

 この能力を持っている者であるのなら、名のある者に違いない。いずれ、倒した者のことが知れよう。そうすれば、その縁者を根絶やしにしなければならない。

 僕には新たな目的ができた。

 

 朝餉を食べると、風車が「風呂に入りに行きませんか」と言った。

 昨日は、風呂にも入らず眠ってしまった。まだ、躰がだるいので断ろうとしたが、頭にも血を浴びていることを思い出し、「いいですね」と言った。

 だるいが、何とか躰は動く。風呂に入って、躰の筋肉をほぐすことも良いのではないかと思った。

 血で汚れた着物は、昨夜、きくが洗って干しておいてくれた。僕は、新しいトランクスと折たたみナイフとバスタオルと手ぬぐいを持つと廊下に出た。

 風車が待っていた。

 階段を下りて風呂場に向かった。

 

 頭を洗うと血が固まったものが落ちてきた。それらがなくなるまで頭を洗った。そして、髭を剃り、躰を洗った。

 湯に浸かると風車が寄ってきて、「昨日は大変な戦いだったのですね」と言った。

「ええ」

「いつまでも戻ってこないので、最初は拙者だけで見に行こうとしたのです」と風車が言った。

「おきくさんはお腹があんなでしょう。だから、止めたんです。でも、胸騒ぎがすると言って聞かなくて」と続けた。

「そうでしたか」

「おきくさんが行くのでは、台車を見ている者がいなくなる。何しろ千両ですからね。拙者も仕方ないと思い、千両箱を担いで、鏡殿を捜しに行きました」

「苦労をかけましたね」

「それは良いのです。でも、倒れられているのを見て、おきくさんは最初は泣いていたんですよ」

「そうなんですか」

「斬られたと思ったんでしょうね。拙者にもそう見えましたから。しかし、眠っていたなんて」と言うと風車は笑った。

「私はひどく疲れると眠ってしまうんです。だから、捜しに来てくれなければ、夜まで眠っていたでしょう。いや、朝までかも知れない」

「あの様子では朝まで眠っていたでしょうね」

「とにかく、捜しに来てくれて助かりました。ありがとうございました」

「いえいえ。風呂を上がったら、一局、という訳にはいきませんよね」

「ええ。寝させてもらいます」

「それが良いでしょう」