十九
次の日、朝餉をとると、出立の準備をした。いよいよ口留番所を通過する時が来たのだ。口留番所まで三里ほどあった。途中で、一度休憩を取り、きくがききょうに乳を与えた。
口留番所までに行く間、どう通過するか考えた。
木村彪吾のことである。すでに、口留番所に僕たちのことを知らせていると考えるべきである。とすれば、通行手形は何の意味もなさない。強行突破すれば、多くの者に怪我を負わさなければならないだろう。
とすれば、手段は一つしかない。時間を止めるのだ。時間を止めている間に口留番所を通過する以外に方法はなかった。
口留番所が林の向こうに見える。長い行列ができていた。
役人による荷物検査が行われていた。
狭く開かれた門の間から、向こう側に抜け出さなければならない。門の両側には番人が立っていた。
僕は考えていることを、きくに話した。
「手順はこうだ。まず、ききょうを私がおんぶして、持てるだけの荷物を持って、口留番所まで行く。そこで呼び止められたら、時間を止める。そして門を抜け、向こう側に行く。どこか、安全な場所にききょうと荷物を降ろして、時間を動かす。当然、私が消えたことで騒動になるだろう。その時、また時間を止める。そして、ここに戻ってきて、時間を動かし、きくをおんぶするから、きくは残りの荷物を背負ってくれ。そして時間を止めたら、門を抜け、ききょうの所まで行って時間を動かす。いいか、分かったか」
きくは「鏡様の言うとおりにします」とだけ言った。
僕はききょうをおんぶし、持てるだけの風呂敷包みを両手に持った。そして立ち上がり、口留番所に向かった。途中で誰何された。そこで、時間を止めた。
僕は走って、門の所まで行き、人をかき分けて、門をくぐった。そして、できるだけ離れた林の中に入り、時間を動かした。風呂敷包みを置き、ききょうを降ろした。そして、抱っこ紐に乗せて、草むらに転がらないように座らせた。定国は帯から抜いてききょうの側に置いた。
それから口留番所の門まで行き、再び、時間を止めて、門を通過した。時間を止めたまま、きくの所まで走り、時間を動かした。体力はかなり削られていた。口留番所までは、僕が風呂敷包みを持ち、きくを連れて歩いて行った。
混乱していた役人は、僕らに誰何してきた。その時、きくを背負って、きくに残りの風呂敷包みを持たせた。そこで時間を止めた。そのまま門まで走り、門を抜けるとききょうの所まで行った。その時、時間は自動的に動き出した。僕の限界を超えていたのだ。
僕は草むらに横たわった。睡魔が襲ってきた。しかし、ここにいるわけにはいかなかった。最後の力を振り絞って立ち上がると、定国を腰に差し、風呂敷包みを担いだ。きくはききょうをおんぶして、残った風呂敷包みを持った。
僕らは林の中を抜けて行った。
しばらく歩くと「もう歩けない」と僕は言っていた。
木の陰に入ると、僕は眠ってしまった。
目が覚めると、きくに「眠っていた?」と訊いた。きくは頷いた。
「どれくらい」と訊くと、「一刻(二時間)ほど」と答えた。
「そうか」と言って立ち上がろうとしたが、躰が痺れたようになっていて上手く立ち上がれなかった。まだ、疲れは取れていなかったのだ。
しかし、口留番所からは離れなければならなかったので、とにかく歩いた。
次の宿場には昼過ぎに着いた。
町人に「ここは何藩でしょう」と訊くと「そんなことも知らねえのか。鹿爪藩だよ」と言って去って行った。
「何か食べよう」と言うと、きくも「それがいいですわ」と答えた。
蕎麦屋に入り、掛け蕎麦を二杯頼んだ。
蕎麦を食べると眠くなってくる。とにかく、僕は疲れを取りたかった。
蕎麦屋の庖厨を借りて、きくはききょうのミルクを作った。
蕎麦の代金を払って、外に出ると歩くのがやっとだった。
次の山中宿まで行くと、松杉屋に泊まった。一泊二食付きで個室だと一人四百文で相部屋なら二百文だった。もちろん、個室に泊まった。
隅の個室が取れたので、そこに案内してもらった。
部屋に入ると、僕は枕だけを出して、畳の上に横たわった。そして、そのまま眠った。
夕餉が運ばれて来たので、起きて食べた。何杯食べたのかも分からないくらい、沢山食べた。
食べた後は、新しいトランクスに、部屋に用意されていた手ぬぐいに浴衣を持って、風呂場に行った。折たたみナイフで髭を剃った後、頭を洗い、きくに背中を流してもらった。そして、きくが躰を洗っている間、ききょうを受け取り半身浴の浴槽に浸けた。
湯から出ると布団を敷いて、僕は先に眠った。
翌朝になると、疲れは消えていた。
顔を洗って、朝餉を食べると、普段の自分に戻った気がした。
宿を出ると、懐紙を売っている店を探し、見付けると懐紙を買った。僕は人を斬る度、その人の着物で刀を拭くのが面倒だったのだ。きくにも半分渡して、懐に入れた。
きくは「これで道ばたでのはばかりも楽になりました」と言った。僕は、道ばたでのはばかりは気にしていなかったものだから、それまできくがどれだけ苦労していたかが分かったような気がした。早く買えば良かったと思った。
また、道具屋では火打ち石も買った。
河原できくに懐剣の練習をしている時、川を游ぐ川魚を何度も目にした。水たまりにも川魚は沢山いたから、それを捕まえれば、昼餉の代わりになると何度思ったことか。ただ、火をおこす道具を持っていなかったので、魚を捕まえても焼くことができなかったのだ。
これからは川魚を焼いて食べることができると思うと、嬉しくなった。
次の宿場では、もり蕎麦を三人分頼んだ。蕎麦を少しずつ切って、ききょうにも食べさせた。一人前の三分の一ほども食べた。
残りは僕が食べた。
食べ終わって、代金を払う時、「この先の山道は注意しなせぃ。荒くれ者がいて、勝手に通行料を取っているようだから。かなり遠回りになるが、川筋の道を行けば、そんな目に遭わずに済みますよ」と教えてくれた。
僕はきくの顔を見たが、頷いていたので山道を通ることにした。鹿爪藩はなるべく早く通り抜けたかったのだ。それにきくの懐剣の腕も磨きたかった。
山道を通る者は、僕ら以外にはいなかった。荒くれ者の話は、よく伝わっていたようだった。
中程まで歩いて行くと、八人ほどの浪人者に囲まれた。
中の一人が「この先に行くには、一人一分出しな」と言った。
僕が「ここは天下の往来。通行料を取るなどとは聞いてはいないぞ」と言うと、「ここでは取るんだよ」と言ってきた。
僕が「払わなければ」と言ったら「通さないまでよ」と言った。
「それでも通ると言ったら」と言うと「痛い目に遭うだけだ」と返してきた。
僕が「どちらが痛い目に遭うかな」と言うと、「なにぃ」と言って刀を抜いたので、僕も定国を抜いた。
「やるって言うのか」と訊くので、僕は「そっちが通さぬと言うからだ」と返した。
八人全員が刀を抜いた。
僕はきくに「前の四人と左右の二人は、私がやっつけるので、残りの二人を相手にできるか」と訊いた。
「大丈夫でございます」と答えた。
「では参るぞ」
「はい」
僕は、素早く走って、前にいた二人の右腕を定国の峰で折ると、左右の者の右腕も折った。そして、前に残っていた二人の右腕も折った。六人は右腕を押さえながら、倒れ込んでいた。
後ろを向くと、きくに向かって行った二人の浪人の右腕が切られていた。僕はきくのもとに駆け寄り、「よくやった」と言いながら、右腕を切られている二人の右腕を定国で折った。きくが懐紙で懐剣を拭こうとしたが、僕はきくから懐剣を取って、きくに右腕を切られた浪人者の人の袖で懐剣を拭った。そして、懐剣をきくに返した。
「こんな奴らの血を、懐紙で拭くのはもったいない」と僕は言った。これでは、何のために懐紙を買ったのか分からなくなっていた。