小説「僕が、剣道ですか? 3」

二十四

 午前七時に目が覚めた。

「おはよう」と親父と朝の挨拶をした。このところ、僕の起きるのが遅かったから、朝、挨拶をするのが久しぶりのように感じた。

 スクランブルエッグにハムとチーズとレタスのサラダ、それとトーストしたパンにコーヒーが今日の朝食だった。食後のデザートにいちごヨーグルトを食べた。

 きくが起きてきた。きくが僕よりも後に起きるなんて珍しかった。

 きくは眠そうな目で「おはようございます」と言うと、顔を洗いに下に降りていった。

 

 僕は自分の部屋に戻ると、武器の点検を始めた。

 ナックルダスターが両手分で二つ。

 鍔付きの特殊警棒が一本。

 折たたみ式のナイフが一本。普段は、革ジャンの左の内ポケットに入れているが、緊急の場合は、靴に隠すことにした。

 留め具の付いた四種類のチェーン。これはチェーンが太いもの二本は革ジャンの両方の内ポケットに入れ、細いもの二本は、ジーパンの両方のポケットに近い部分のベルト通しに留め具で付けて、ポケットに入るようにした。

 催涙スプレー、二ダース。

 それからくるぶしの上までクォーターとバックステイがあって保護できる安全靴一足。これはつま先が鉄パイプで叩かれても安全な物だった。

 催涙スプレーと鍔付きの特殊警棒は服に入れられないので、安物のショルダーバッグを買って、それに入れることにした。安物でもショルダーバッグのベルトの強度が強いものを選んだ。

 後は、戦闘を想定した場合に着る革ジャンだった。薄い焦げ茶色をしていた。ポケットの多いものを買った。

 武器ではないが、戦う時に必須なのは携帯だった。相手の顔や人数を写したり、音声を録音するためだった。普段は、相手を知るのに使っているが、万一の場合、例えば警察沙汰になった場合に正当防衛を立証するためだった。相手は、でたらめなことを言う証人は何人でも用意できるだろうが、現場の音声と写真があれば、でたらめなことを言う証人を排除できる。

 ここは江戸時代と違って現代なのだ。

 パソコンを起動して、撮りためた写真や音声データを点検した。数が多いから結構時間がかかった。

 時計を見た。午前九時半だった。午前十時に行くなら、もう着替えていなくてはならなかった。出かける時間だった。

 だが、僕は行く気はなかった。あんな女、勝手に待たせておけばいい、と思った。

「きく、コーヒーの入れ方を教える」

 そう言って、きくをリビングに呼んだ。インスタントコーヒーの入れ方を教えるつもりだった。小さいスプーンを取って、「これに二杯、掬ってコーヒーカップに入れるんだ」と言った。

「やってみて」

「こう」

 きくは言われたとおり、インスタントコーヒーの瓶から、小さなスプーンに山盛りにしたコーヒーの粉を二杯コーヒーカップに入れた。

「後は、電気ポットからお湯を急須に注ぐのと同じだ」

 きくはコーヒーカップをポットの下に持ってきて、ポットのボタンを押した。

「そこでストップ」

 きくは驚いてポットのボタンから手を離した。そして「ストップって何ですか」と訊いた。

「あっ、ごめん。ストップっていうのは、止めろということだ」

「ストップとは止めろということですね。わかりました」

「そのコーヒーカップをこのコーヒーカップの受け皿に乗せて、お茶を運んでくるときのように、お盆に載せて運んでくるんだ。やってみて」

「こうですか」

 きくは言われたとおりにした。

「そうだ。そしてコーヒーカップの受け皿を持って、お客に、どうぞ、と言って出すんだ」

「わかりました」

「やってみて」

「こうですか」

「そうだ」

 僕の目の前に受け皿に乗ったコーヒーカップが置かれた。

 僕はきくの入れた、初めてのコーヒーをブラックで飲んだ。

 時計を見た。午前十時になろうとしていた。

 沙由理が勝手に言い出したことなんだ、と思った。放っとけばいい、とも思った。

 しばらくして、きくが「京介様、約束の時間が過ぎましたよ」と言った。

「人の携帯の話を聞いていたのか」

「聞こえてきたんです」

「行かないって、言っていただろう」

「はい」

「だから、行かないんだ」

「そうですか」

「そうだ」

 僕は三階に上がっていった。自分の部屋に行くためだった。

 きくもついてきた。

 ベビーベッドのききょうを見た。

「よく眠っているな」

「はい、朝、乳を飲んでから、ずっと眠っています」

「そうか」

 僕はパソコンを起動して、ゲームをして遊んだ。

 ゲームをしていても沙由理のことは頭に浮かんだ。もう十時を越えた。これから、新宿の南口の改札に行っても、十時半は過ぎているだろう。

 しばらくして、きくがやってきて「京介様、パソコンのゲームは楽しいですか」と訊いた。

 僕は答えなかった。

「京介様、午前十時を過ぎましたよ。もう十時半になろうとしています」

 きくは、時計の時針と分針と秒針の示す時間がいつなのかを、母に教わったようだ。

 僕の部屋の時計は、デジタル数字ではなく、針で時を示すものだった。

「分かっている」

 僕はゲームを止めた。そして、着替えた。

「やはり、会いに行くんですね」ときくは言った。

「出かけるだけだ」

「でも会いに行くんですよね」

「これから行っても一時間も約束の時間を過ぎている。待っているはずがないじゃないか」

 そういうと、きくはすぐに「きくなら待っています」と言った。そして、「あの人も、いつまでも待っていると言ってました」と言った。

「そう言って、僕を試しているだけだ」

「きくは、違うと思います」と言った。

「そうかよ」

「そうです」

 万一の場合に備えて戦闘モードで服を着た。

 リバーシブルのオーバーコートを着ると、玄関に降りていった。これから行っても午前十一時は過ぎていることは確実だった。

 安全靴を履くと、紐をぎゅっと絞って結んだ。

「行ってくるよ。誰も玄関に入れるなよ」と言った。母がいるのを忘れていた。