小説「僕が、剣道ですか? 3」

二十三

 その夜、夕食も済み、風呂に入ってベッドでゴロゴロしていると、携帯が鳴った。

「わたし、沙由理」

「誰からですか」ときくが訊くので、口に人差し指を立てて、静かにしていろ、という合図を送った。この合図は暇な時に教えておいたのだ。

「誰かいるの」

「ああいや、テレビの音だよ。消すよ」

「そう」

「どうしたんだ。もう連絡しないって約束しただろう」

「それはあなたの方からね」

「君のお母さんからは、付き合わないように言われているんだけれど」

「そうね。でもあなたは言ったわよね。『沙由理さんの気持ち次第だと思いますよ』とも」

「そうだけれど」

「わたしのこと、どう思っているの」

「美人だな、と思っているよ」

「そうじゃなくて、気持ちはどうなの」

「前にも言ったけれど、よく分からない。絵理が好きなのは分かっているんだけれど、彼女は振り向いてくれないし。僕の心は空洞みたいなものかな」

「そう。好きでも嫌いでもないわけね」

「簡単に言えば、そうかな」

 きくは必死に携帯に耳を傾けていた。

「あんなことがあって、軽蔑してるでしょ」

「無理矢理、やられたんだ。軽蔑はしていない。同情はしている」

「わたしみたいに、清純じゃない子は嫌い」

「好きとか嫌いとかは言ってはいない。君のことについて言えば、嫌いじゃない。そうでなければ、放っておいた。放っておけなかったんだ」

「ありがとう。その言葉を聞けただけでも嬉しい」

「あの後、警察から連絡があった」

「一度。警察署に呼ばれて、またあの時のことをしゃべらされたわ」

「そうか」

「わたし、警察って嫌い。思い出したくないことばかり訊くんだもの」

「警察はそういうところだからね。で、どう訊かれたの」

「あなたが、ライトバンに乗せられて連れ去られた後、呆然と立っていたら、他の奴らに脅されて別の車に乗せられたの。そして黒金不動産に連れ込まれたわけ。しばらく、奥の部屋に椅子に縛られて閉じ込められていたから、よくはわからないの。そのうち、あの大男が現れて、わたしの縄を解くとソファに押し倒したの。後はよく覚えていない。突然、大きな音がして、誰かが暴れ回っている様子はわかったけれど、それがあなただってことは、あなたを見るまでわからなかった。あなたを見た時、ほっとしたの。そして、とても嬉しかった。わたしが話したのはそんなことよ」

「そう」

「ねぇ、明日、会ってくれる」

「それはお母さんに止められているだろう」

「でも、わたしは会いたいの」

「正直に話すけれど、あの時、君のお母さんは封筒を出したよね。お洋服の代金ですとか何とか言って」

「ええ」

「あのお金はそんなもんじゃない。君との手切れ金だったんだ」

「そんな」

「そうでなければ、三十万円も出すか」

「あの封筒の中には三十万円も入ってたの」

「そうだよ」

「母ならやりそうなことね」

「だからさ、君とは会えないんだよ。もうあのお金、受け取っちゃったし」

「そんなことどうでもいいわ。あなたが話してくれて、ホッとしたわ」

「どういうことだよ」

「それはあなたの気持ち次第よ」

 僕の気持ち次第か。そういう挑戦的なことを言われると試してみたくなるんだよな。僕の悪い癖だけれどね。

「黒金不動産から助け出したことは覚えているよね」

「忘れないわ」

「あの時、相手にも怪我を負わせてしまった。そうでなければ、君を救えなかったからだ」

「そうでしょうね」

「黒金不動産のバックには黒金組がついていることは知らないはずがないよね」

「そうなの」

「そうなんだ。つまり、僕は黒金組に狙われていると言ってもいい。そんな男と付き合うメリットなんてあるか。また、危険な目にあうだけだぞ」

「わかってるわ」

「分かってはいないよ、黒金組の恐ろしさを」

「それでもどうしょうもないの。母から付き合うことを止められたわ。いつものわたしなら、母の言うことを聞いたわ。いいえ、今まで、母に逆らったことなんてなかったわ。でも、あの日から、あなたのことしか思えないの」

「まだ三日しか経っていないぞ」

「そうなんだけれど、この三日間、あなたのことしか考えられなかったの」

 こういうのは苦手なんだよな。悪い女だと分かっていながら、引きずり込まれていく。そんな感じだった。逆に言えば、毒を持った女には、その毒に見合った魅力があった。そして、それを拒めない僕がいる。

「それで」

「明日、午前十時に新宿の南口の改札のところで待っているわ」

「行くとは言ってないだろう」

「でも、待っている」

「君のお母さんと約束しているんだ。行かないよ」

「でも来てくれるでしょ」

「行かないってば」

「でも、待っている。あなたが来るまで、ずうっと待っている」

 そう言うと携帯を切った。電話をかけ直したが、電源が切られていた。

 きくが怒っていた。

「明日、行くんでしょう」

「そうは言ってなかったろ」

「いいえ、きっと行きます」

「どうして」

「京介様はそういう方だから」

「どういう方なんだよ」

「女に目がない方です」

「はっきり言うなぁ。でも行かないって言ってたろ」

「言ってました」

「そうだろう」

「でも、行きます」

「何でだよ」

「京介様はそういう方だから」

 これじゃあ、キリがない。僕は眠ることにした。

 きくは怒っているのか、抱きついては来なかった。