小説「僕が、剣道ですか? 3」

二十五

 新宿南口には午前十一時過ぎに着いた。すぐに改札口に行かず、少し離れた所から沙由理を捜した。

 沙由理は、待っていた。動物の毛の立った襟の白い皮のコートを着ていた。目立っていた。何人かの男が声をかけていたが、沙由理は断っていた。

 すぐには沙由理の所には行かず、誰か見張っている者がいないか、辺りを見回した。こういうときに小さな双眼鏡でもあればいいのに、と思った。

 もうすぐ午前十一時半になろうとしていた。しかし、沙由理は待っていた。周りに見張っている者がいる気配がないので、沙由理の所に行くことにした。

 沙由理に後ろから「随分、待たせたね」と声をかけた。

 沙由理は振り向くと「ううん、いいの。わたしが一方的に待っているって言っただけだから」と言った。その後で、「来てくれて嬉しい」と続けた。

「ちょっと行く所があるから、一緒に来てくれる」と僕が言うと「もちろん」と答えた。少し歩いて、家電製品の量販店の****カメラに入った。カメラコーナーに行った。双眼鏡を買うためだった。

「何探してるの」と沙由理が訊くから「双眼鏡」と答えた。

「何に使うの」と訊いたので、「沙由理を捜すため」と答えると、肩の辺りをポンと突いた。

 コンパクトで倍率が高い物を選んだ。一万円足らずで買えた。

 ****カメラを出るとお昼の時間になった。

「何か食べる」と訊いた。

「そうね、任せるわ」と答えた。

 僕は、****カメラの近くの洋食レストランに入った。

 中ほどの席に座った。

 僕はオーバーコートを脱ぎ、ショルダーバッグを椅子にかけた。

「それ、この前、着せてくれたものね」とオーバーコートを見て、沙由理が言った。

「そうだよ。ご免、嫌なことを思い出させたね。でも、僕には選ぶほど着て行く物がないんだ」

「ううん、いいのよ。ちょっと訊いてみただけ。でも、あの時は、心底、嬉しかったわ。このままどうなるんだろう、と思っていたもの」

「もう、そのことは忘れた方がいい」

「優しいのね」

 そんな話をしていると、ボーイが水を運んで来て、注文を取った。

 僕は鶏肉のミラノ風というのと、食後にティラミスとコーヒーを頼んだ。沙由理は、本日の季節野菜のパスタと、食後のデザートとしてモンブランと飲物はアールグレイを頼んだ。

「今日、僕が来ると思った」

「思わなければ、待っていなかったわ」

「来なくても待っているって言ってたくせに」

「そう言わないと、来ないでしょう」

「一時間半も待たされるとは思わなかっただろう」

「京介のこと……、京介って呼んでもいい」

「どうぞ」

「京介のことだから、意地でも待たせると思っていた」

 僕は笑った。沙由理に、僕の心中が見透かされている。

「帰ったら、お母さんに叱られるね」

「京介と会ったとは言わないわ。友達と買物に行くって言って出てきたの」

「そうなんだ。その友達は大丈夫なの」

「こういうときの友達の一人なの。仮に母から電話があっても何とか上手く誤魔化してくれるわ」

「悪い女だな」

「そう、わたしは悪い女なの」

「はっきり言うね」

「でも、悪い女が嫌いなわけじゃないでしょ」

 そうなんだよな。悪い女だと分かっていても、気になる。僕はそういうタイプだった。

「あれから、どう。落ち着いた」

「ええ、ちょっとした事故のようなものだと思うことにしたわ」

「それならいい」

「わたしのこと、心配してくれてありがとう」

 沙由理がそう言った後、料理が運ばれてきた。

 鶏肉のミラノ風にはペンネが付いていた。本日の季節野菜のパスタは細長いパスタだった。

 僕は一口食べると「美味しいね」と言った。沙由理も「そうね」と言った。

「今日はどうするつもりだったの」と僕が訊いた。

「こうして京介とランチを食べるつもりだったわ」と沙由理が答えた。

「君のお母さんからもらった三十万円、どうしよう。返すに返せないし、君と付き合わないでという意味だとしたら、こうして会っているし」

「そのままもらっとけばいいじゃない。それだけのことを京介はわたしにしてくれたよ」

 僕はペンネを口に頬張った。

「あのまま京介が助けに来てくれなかったら、今頃、こうしてランチを食べてはいられなかったわ。それは確かなことだわ。お金のことは気にしなくてもいいわ。むしろ、何でもお金で解決したがる母親が好きになれない」

「そうか」

 

 メインは食べ終わったので、食後のデザートが運ばれてきた。

 僕は「この後、どうする」と訊いた。

 沙由理は「この後、どうしたい」って訊き返してきた。

 僕は「考えていない」と言った。

 沙由理は「前に会った時は『カラオケでも行こうか』と言ってたよね」と言った。

「そうだったか」

「そうよ。覚えているもの」

「それで」

「カラオケに行きましょう」

「マジかよ」

「マジです」

 

 デザートを食べた後、会計は僕がして、近くのカラオケ店に入った。

 沙由理は最近の曲は歌いにくいと言って、松田聖子中森明菜工藤静香の歌を何曲も歌った。みんな歌姫と言われている歌手の曲を選曲しているだけに、沙由理は歌は上手かった。僕は下手な歌を歌うのに必死だった。それでも、X JAPANの紅(リリース:一九八九年九月一日、レーベル:SIREN SONG)とか福山雅治の桜坂(作詞・作曲:福山雅治、リリース:二〇〇〇年四月二十六日、レーベル:ユニバーサルビクター)やレミオロメンの粉雪(作詞・作曲:藤巻亮太、リリース:二〇〇五年十一月十六日、レーベル:SPEEDSTAR RECORDS)を歌った。粉雪は沙由理から何度もリクエストされて、歌わされた。

 午後六時過ぎになったので、カラオケ店から出ようとした。

 その時、沙由理が「京介、ちょっと待って」と言って、唇を合わせた。舌が入ってきて吸うのが分かった。そのうち、沙由理の両手に抱かれた。そのまま、しばらく口づけは続いた。

 口を離すと「良かったわ。ありがとう」と沙由理は言った。

 つい習慣で「家まで送ろう」と言ってしまったが、それはまずいだろう、ということに気付いた。

「いいわ、タクシーで帰るから」と沙由理は言った。

 タクシー乗り場まで送った。

 タクシーに乗る時、沙由理は「今日は楽しかったわ」と言った。