九
月曜日が来た。
今日は月一回の朝礼がある日だった。
それに僕にとっては最悪の日でもあった。何と、赤ちゃんを助けたことで表彰される日だった。表彰みたいなことは、して欲しくはなかったが、断る勇気もなかった。
結局、ずるずると朝礼を迎えてしまった。
体育館に全学年生が整列した。
講壇には、校長がいた。
朝礼が始まった。校長の面白くない話を聞かされた後、僕の名が呼ばれた。
僕は予め、壇上の下の階段の所で待たされていた。名前が呼ばれたので「はい」と言って壇上に上がっていった。
富樫が「かっこいいぞ」とかけ声を出した。
「静かに」と教師に叱られていた。
「鏡京介殿 右の者は……」と乳母車を抱いたまま、トラックに衝突したことで、赤ちゃんを助けたことを述べた後、「よって西新宿署署長より感謝の意を表する。平成**年**月**日」と読み上げられ、感謝状を授与された。
僕はそれを神妙に受け取り、壇上から降りた。その時、絵理の方を見たが、僕の方を向いてはくれなかった。
その後は、冬休みが近いので、各自健康管理はきっちりするようにという話があって、朝礼は終わった。
教室に戻る途中、富樫が僕の肩に手を回して、「なあ、冬休みにスキーにでも行かない」と言った。きくとききょうがいなければ「いいねえ、行こうよ」と言っていたところだったが、今回ばかりはそうは行かなかった。
「僕はちょっと……」と言うしかなかった。
「そうか、じゃあ、またな」と富樫は他の奴、何人かに誘いをかけていた。
教室に戻ると、現代文の授業が始まった。冬休みの宿題が出された。森鷗外『舞姫』におけるエリスの側からの立場で、物語を構成し直してみろ、というものだった。『舞姫』なんて難しくて、やってられないでしょ、と思った。
放課後、富樫が来て「これからお前んち行ってもいい」と言ってきた。
「何で」
「きくちゃん、まだいるだろう」
「いるよ」
「会いたいんだよ」
「何それ」
「一目惚れって奴かな」
あーあ、と僕は思った。
「どうせ、来るなって言っても来るんだろ」
「うん」
「好きにしろよ」
僕はそう言ったが、本当は富樫には来て欲しくはなかった。富樫の口には戸が立てられないからだ。
親友だが、本当のことが話せない。これほど面倒くさい親友はいない。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
玄関の廊下にきくが正座して、両手を突いて頭を下げた。
富樫も一緒だったから、驚いていた。
「ちょっと、古風なんだ」と僕は富樫の耳元で囁いた。
富樫は「お邪魔しまーす」と言って玄関を上がった。
二階のリビングに行くと、「お茶を入れますね」と言って、きくが電気ポットから急須にお湯を入れている。
僕が小声で「覚えたのか」と訊くと「はい、お母上に教わっています」と答えた。
そして湯呑みに急須からお茶を注いで、富樫と僕の前に出した。
僕は湯呑みからお茶を飲みながら、電子ロボットがお茶を入れてくれたような錯覚に陥った。
富樫は嬉しそうに飲んでいた。
きくは昨日買ったパンツを穿いていた。白地に大小の色の違った水玉模様の柄だったが、きくには似合っていた。
「お菓子は何になさいますか」ときくが訊いた。
「何があるんだい」
「おせんべいと洋菓子というものです」
「じゃあ、洋菓子」
「わかりました」
きくはバームクーヘンを皿に載せて持ってきた。
富樫と僕の前に置いた。ちゃんと小ぶりのフォークも添えていた。
こういうことは、よく覚えるんだな、と僕は感心していた。
白鶴藩の家老屋敷で女中をしていたのだから、こうした所作には慣れてはいるのだろうが、短時間で覚えたことに僕は驚いていた。
富樫は「おいおい、メイド喫茶に来たみたいで凄いな」とはしゃいでいた。それも分からなくはなかった。きくはまだ十五歳だ。それが女中奉公をしていたとはいえ、こうして仕えてくれるのだ。富樫でなくても、悪い気分のものではなかった。
富樫のお茶がなくなったので「おかわりしますか」ときくは訊いた。
「はい、おかわりします」と富樫は答えた。
富樫の前に、おかわりのお茶が来た。
富樫は僕の肩のシャツを引っ張って「お前、天国だな」と言った。
「まぁな」と答えた。
小一時間ほど家にいた富樫は、満足して帰って行った。
あの様子だと明日も家に寄りかねなかった。いつまで、きくとききょうが従妹と別の従妹の赤ちゃんだという説明が持つのか、分からなくなってきた。だが、それで行くしかなかった。
夜、親父が帰ってきて「あの小判、一千二百八十万円で売れた」と言った。詳しい明細を見せてくれた。全くの未使用は二枚で一つ三百万円。未使用に近い物は二百八十万。使用されている物は二枚で一つ二百万円。合計で一千二百八十万円だそうだ。
「そっくり預金してきた」
「これでお祖母ちゃんの施設へ入るためのお金ができたね」と僕が言った。
「そうだな」
「わたしも一安心だわ。京介ありがとう」
「別にいいさ。それより、きくは随分、慣れてきたね。今日はお茶を入れて出してくれたのには、ビックリした」
「あの子はいい子ね。教えたことは、ほとんど一度で覚えるわ」
「ききょうはどう」
「よくミルクを飲むわ。哺乳瓶を与えるとすぐ吸い付いてくるの。京介の赤ん坊の時のことを思い出すわ」
「そう」
親父もお母さんも、僕ときくが一緒に風呂に入ることには、慣れたようだった。
「いっそのこと、おきくちゃんと京介を結婚させるということもあり得るね」と親父は気楽に言う。
するときくは「結婚って、夫婦になるっていうことですか」と訊くから、父は「そうだが」と言うと、「きくは京介様と夫婦になりたいです」と言った。
「でも、法律じゃあ、京介はまだ結婚できないしな」と父が言ったが、きくだって本当は十五歳だから結婚できないし、第一、過去の人なんだから、結婚なんてあり得ないよ、と僕は言いたくなった。
「京介様と結婚、京介様と結婚」ときくははしゃいでいる。この後、それができないことをきくに説明するのにどれだけ時間がかかるか分かって言っているの、と親父を怒鳴りたくなった。
次の日の朝、いつもは門の所に待っている富樫が玄関にまで入って来た。
僕が出かけるので、玄関の廊下にきくが正座して両手を突いて頭を下げ、「京介様、いってらっしゃいませ」と言った。すると、富樫がすかさず「俺にも言ってくれない」と言った。きくは「富樫様、いってらっしゃいませ」と言った。
「くぅー、たまんない」と富樫が言った。
「下の名前でも言ってくれない。俺、元太って言うんだ」と富樫は言った。
すると、きくは「元太様、いってらっしゃいませ」と言った。
「あーあ、いい。一日、元気が出る。ありがとな、きくちゃん」
「どういたしまして」
全く、富樫は調子のいい奴だった。
「ねぇねぇ、あの子、どこで寝てんの。リビングで寝てんの。お前んち、2LDK+納戸だったよな。納戸に寝ているの」
「そんなのどうだっていいだろ」
「良くないよ。教えろよ」
「納戸だよ」
「そうか、納戸か、って。あのガラクタだらけの納戸を整理したわけ」
「そうだよ」
「そっか、そうだよな」
「分かってくれりゃいいよ」
「今度、納戸見に行くわ」
「お前な、どこまで調子に乗っているんだよ」
「すまん、すまん。冗談だよ」
「冗談にしてはきついな」
「さあ、すっきりして今日も一日行こうぜ」
「お前、よく西日比谷高校に受かったな」と僕が言うと、「お前に、言われたくはないな」と富樫も言った。
「それもそうだな」
「だな」