小説「真理の微笑」

七十五

 三月になった。役員会も済み、必要な手続きを経て、企業決算も無事に終わった。

 トミーワープロはその後も順調に売れ続けた。昨年のビジネスソフト売れ行きナンバーワン賞を某出版社から授与された。その授与は、某ホテルの会場で行われた。私はスピーチでトミーワープロがヒット商品になった事は望外の事だったと語ったが、(株)TKシステムズで開発していた時から、このワープロソフトなら、専用ワープロ機にも勝てるという自負はあった。

 四月に由香里の子の隼人の「お食い初め式」を由香里のアパートで二人だけでした。

 テーブルの椅子に座った私が隼人を抱き、飯、汁物、飯、魚、飯の順で三回食べさせる真似をした。最後のご飯の時、ご飯粒を一つだけ口に含ませた。そして、箸で歯茎を軽く突っついた。

 四月の下旬には、茅野の建築会社の社長から電話がかかってきた。これから別荘を取り壊すがいいかという確認の電話だった。もちろん、OKをした。そして、別荘の取り壊しが行われた。「終わりました」という連絡が来た時、私はホッと胸をなでおろした。

「今の別荘じゃあ、俺が行っても上がれないからね」と真理子には言った。「そうね、あなたが行っても使いやすいように建て替えればいいわ」と真理子は答えた。その真理子のお腹も少し膨らんできた。

 五月には、トミーCDBが、トミーカードと名称を変え発売された。毎年五月に開催されるビジネスショーはそのトミーカードの格好の宣伝の場となった。トミーカードはカード型データベースソフトの売れ行きとしては、順調な滑り出しを見せた。

 六月に入ると甲信越地区に記録的な大雨が降った。各地で土砂災害があり、山崩れも起こったと報道された。

 その頃になると真理子のお腹が大きくなってきたのが目立った。

 由香里の口座には、高木によって毎月三十万円が振り込まれていた。その分は、私の年俸から差し引かれる事になっていた。私は週に一度ほど由香里のアパートを訪ねた。赤ん坊は日に日に大きくなっていくのが分かった。

 

 その日、久しぶりにメールボックスを開いた。夏美からのメールが沢山届いていた。

『隆一様

 畑の近くにタクシーが長い事止まっていました。わたしはてっきりあなたが会いに来たものと思いました。近づいていくと、ウィンドウを閉められました。顔を見るとあなたでない事がわかりました。その人はウィンドウを上げながら前を向きました。その仕草があなたを彷彿とさせました。もちろん、顔を見ましたから、あなたでない事はわかっています。でも、今のわたしには全てがあなたのように見えてしまうのです。

 もしかしたら、誰かを使いに出してわたしたちの事を探らせていたのかも知れないと思いました。それならそれでいいのです。わたしたちの事をあなたが気遣ってくれれば、わたしは嬉しい。

 夢を見ました。ちらっと見たタクシーの中の人の事です。その人があなたでない事はわかっています。しかし、目なのです。一瞬ですが、その人と目が合いました。わたしはあなただと思ったのです。思ってしまったのです。夢の中では、あなたは仮面を被っていました。他人の振りをしてわたしたちを見に来ていたのです。でも、いくら仮面を被っても目だけはごまかせませんよね。仮面が浮いて、その下から、あなたの目が覗いている。そんな夢を見ました。こんな夢を見るのもあなたに会いたいからです。

 あなたに会いたい。あなたに会う夢を見るしかない夏美をどうか哀れんでください。 夏美』

 このメールを読んで、私は哀しくなるとともに恐怖した。確かに夏美に会いたくてタクシーで近くまで行った。夏美は家の前の畑にいた。

 私は思わずドアのウィンドウを下げ肉眼で夏美を見た。そうしたかったのだ。

 私に気付いたのか、夏美はタクシーの方に向かってきた。私は慌てた。ウィンドウを上げるボタンを押すのが少し遅れた。その一瞬、夏美と目が合った。細い目を大きく見開いていた。ウィンドウを上げ終えると、タクシーを発車させた。窓越しに夏美を目で追っていた。夏美は立ち尽くしていた。その一瞬だけだった、夏美と目が合ったのは。それでも夏美はその目を私だと思う夢を見たと書いて寄こしたのだ。

 その日、私は真理子に無理を言って眼鏡店に連れていってもらった。私は、度のない薄い色のサングラスを買った。薄い色にしたのは普段していてもおかしくないようにだった。

「どうしてサングラスなんか」と言う真理子に「この頃、光が眩しく感じるんだ」と説明した。

 

 七月には夏美に五百万円を郵便書留で大きめの硬い材質の封筒で送った。中身は書類とした。夏美からは、メールで五百万円が無事に届いた事を知らせてきた。と同時に私に会いたいとも書いてきた。私は、元気で暮らして欲しい、それだけが今の俺の願いだ、とだけ書くのが精一杯だった。

 九月六日に、真理子に陣痛が来た。病院に介護タクシーで一緒に向かった。

 分娩室に入って三時間ほど経っただろうか、産声が聞こえてきた。

 看護師が抱き上げていたのは男の子で、すぐに母親に抱かせた。

 私は祐一が生まれてきた時の事を思い出していた。この子は祐一の弟だとも思った。

 私の子は「猛」と名付けた。最初に付けた名前通りだった。

 一週間後、真理子と赤ちゃんは退院した。

 そして、生後二週間が経とうとした頃、私は真理子と出生届を区役所に出しに行った。