小説「真理の微笑」

 私はどれほど〈妻〉を見ていたのだろう。時間の感覚がなかった。しばらくして誰かが私の視界を塞いだ。瞼を閉じるように言われたのだろうが、私には分からなかった。だから、死体の瞼を閉じるように誰かにそうしてもらい、目を覆う包帯がそれを補った。その前に、目薬でもさしてもらったかも知れない。閉じた目から頬に伝う涙のようなものを、私は感じた……。

 整理のつかないがらくた箱の中に踏み入れたようなものだった。視界が閉ざされた分だけ混乱は増幅していた。何を考えても(そもそも考えていたのだろうか)まとまらない。周りの声や器具の音が、ただガチャガチャと何も形を成さぬままに聞こえてくるだけだった。

 やがて人の出て行く気配がした、一人残して……。

 胸に僅かに重さを感じた。「あなた」という囁きが聞こえた。〈妻〉だった。その瞬間、甘美な声に心が流されていく感じがした。さっき見た女性の顔が、閉じた瞼を通しても見えるようだった。が、それはほんの一瞬でその次の瞬間には恐怖が湧き起こった。もう一人の顔が浮かび上がってきたのだった。

 私は……、〈妻〉が呼びかけている人じゃない!

 鼓動が激しくなり、私は硬直した。さっきまでは混乱していたがゆえに救われたが、今は違っていた。全身の震えが止まらなくなった。胸に感じた重さがなくなり、〈妻〉の「先生」と叫び出す声を遠くに聞いた。そう思った時には、多分気を失っていた。

 …………

 私は終わりのない悪夢の中にいた。起きては震え、痙攣し、鎮静剤を投与され(それは点滴のパックの途中についている小さな注入口に注射器のようなものを刺して行われた)、また浅い眠りについた。真っ白く四角い箱の中に私は膝を抱えて座っている。時々、上の蓋が開く。夥しい差すような光に包まれる。そして蓋は再び閉じ、私は膝を抱えたまま身じろぎもしない。夢と分かっていても永久運動のようにそれは果てなく続くように感じた。

 …………

 どれくらいそうした日々が過ぎたのだろう。おそらく自分が思っているよりもずっと短かったはずだが、どうであれ、一瞬よりも永遠に近かった。