小説「僕が、警察官ですか? 3」

十八

 家に着いた。きくが出迎えてくれた。ひょうたんはズボンのポケットから鞄の中に移しておいた。

 風呂に入った。

 浴槽で考えた。

 滝岡が、上手く偽サイトを作れたら、そこに中上を引き寄せて、彼を捕まえる。中上の犯罪は、一見すると放火事件だけのように思えるが、実はサイバー犯罪も行っていて、しかも詐欺の疑いも濃い。むしろ、単純な放火よりも罪が重い。

 中上は放火もその他の犯罪も簡単には口を割らないだろうから、もし捕まえたとしても簡単には終わらないだろう。

 それよりも、中上がまた放火をする方が心配だった。一度、放火の味をしめると、止められなくなると聞いたことがある。しかも中上は声明文を出して、世間を煽っている。この方がよほど問題だった。二度目の声明文を出させたのは、僕だと言っても過言ではない。それだけに責任がある。

 中上が次の行為に出る前に捕まえたいのは、やまやまだった。

 

 風呂から出ると、チーズをおつまみにビールを飲んだ。

 明日は金曜日だった。

「土日はどうされますか」ときくに訊かれた。

「今度の土日は、家でゴロゴロしているよ」と言った。

「わたしはお義母様と赤ちゃんの名前でも考えていますわ」と言った。

「男か女か分からないうちにか」と言うと、「だから、楽しいんじゃあ、ありませんか」ときくは言った。

「そういうもんか」

「ええ。どうせ、男の子なら京二郎ってつけるんでしょう」

「まぁ、そうかな」

「だから、女の子の名前を考えることにしました」

「ふーん」

「わたしがきくで、長女はききょうですから、あやめっていうのはどうでしょう」ときくが言った時には、僕はビールを吹き出しそうになった。

「だめ。それはだめ」と言った。

「どうしてですか。いい名前だと思うんですが」ときくは言った。ひょっとしたら、あやめのことを知っていて、探っているのか、と思ったほどだった。

「とにかく、違う名前にしてくれ」と言った。

「わかりました。お義母様と相談してみます」と言った。

 おちおち、ビールも飲んでいられない、と思った。

 

 夜になって、きくが眠ると、ベッドから出て、時間を止めた。鞄の中からひょうたんを出して、リビングルームに行った。

 長ソファに横たわり、ひょうたんの栓を抜いた。

 あやめが現れた。

 僕は真っ先に「赤ちゃんにあやめっていう名前を付けたら、まずいよね」と言った。

「聞こえていますよ。こんなに近くですから」とあやめが言った。

「だったら、ベッドでのことも筒抜けか」と言うと、「言わないことにしますわ」と言った。

「そうか。今日もありがとうな」と言うと、あやめはしなだれかかってきた。

 僕はあやめを抱き取ると、口づけをした。そして、深く交わった。

 終わった後、シャワーを浴びて、ベッドに戻ると時間を動かした。ひょうたんは机の引出しに入れた。

 

 土日にやっているニュースショーでは、今回の声明文によって、前の連続放火事件と今回の放火事件が同一人物の仕業だということが、まことしやかに語られていた。元刑事というコメンテーターが、「この声明文を読みますと、犯行状況が詳細に書かれています。これは犯人しか知り得ない事柄も含まれています。これを読みますと、この一連の放火事件の犯人がこの声明文を書いた者だと断言できます」と言い切った。この思い込みが、一般人の事件に対する見方でもあったし、捜査陣もそう思い込んだところもあった、その思い込みが事件を迷走させるとも知らずに。

 

 月曜日になった。今日は西新宿署で剣道の稽古のある日だった。僕は剣道の道具を持って家を出た。ひょうたんは机の引出しの中だった。今日、あやめに活躍してもらう予定はなかったのだ。

 黒金署は捜査一課二係と三係の間に張り詰めた空気が流れていた。捜査一課二係には、山田の釈放という問題が残されていた。今日か、明日中には山田は釈放されるだろう。そうなると、今までの取調は何だったのか、というだけでなく、それまでの山田ばかりを犯人としてきた捜査自体も問題視される。山田が犯人と見られたのは、三件の監視カメラの録画映像に映っていたというだけだ。それ以外の物的証拠は何もなかったのだ。だから、山田の自供が必要だったが、これが現在の捜査では古い手法となっていることを古い世代の刑事たちは、本当には理解していなかった。そのために、山田を犯人と思い込んだ捜査一課二係は、山田を落とすことに集中してしまったのだ。

 三係から見れば、二係は何をしていたんだ、ということになる。二係は、自分たちが失態を犯してしまったことが明らかになったので、言い返したくてもできないでいた。

 午前十一時に、山田が釈放されたという話が署内を駆け巡った。

 意外にも早かった、というのが僕の感想だった。山田の弁護士が朝一番に各所を回って、手続きを済ませたようだった。容疑の晴れた者を勾留しておくのは人権問題になる。こうした手続きは迅速に行われたようだ。

 

 お昼に愛妻弁当と水筒を持って、屋上の隅のベンチに座った。

 今日はのり弁だった。ハートマークも作られていた。そこを崩しながら食べた。ともかく、山田が釈放されたことは良かったと思うしかなかった。これも今日の昼のニュースになって流れることだろう。それが中上を刺激することは、間違いなかった。

 

 午後三時過ぎに、また声明文がマスコミに送られた。その時間帯のニュース番組は、山田の釈放のニュースを流していたが、急遽、この声明文を取り上げた。

 声明文は『祝! 山田宏殿 釈放』とだけ書かれていた。

 それで警察に当てつけるには、十分だった。

 安全防犯対策課の中でも、鈴木が「ふざけるなよ」と声を上げていたが、そんな中で、滝岡は言われた作業を黙々としていた。

 

 午後五時になったので、僕は鞄と剣道の道具を持って、安全防犯対策課を出た。そして、西新宿署に向かった。

 西新宿署の剣道場では、すでに西森は稽古をしていた。僕が剣道着に着替えて、道場に入って行くと、西森は僕を相手に稽古をした。約一時間ほど稽古をすると、汗がびっしょりと出た。西森が右手の親指を上に向けて突き上げたので、僕も頷いた。

 シャワーを浴びて着替えると、鞄と剣道の道具を持って、上のラウンジに行った。

 自販機で缶コーヒーを買って、奥のテーブルに座った。

 西森が「黒金署は大変ですね」と言った。

 僕は「私の部署は関係がないので、気にはなりません」と言うと、彼は驚いていた。

「同じ署のことなのに気になりませんか」と訊いた。

「捜査には、口出しできませんから、気にしてもしょうがないでしょう」と答えた。

「そういうもんですか」

「そういうもんです」

「山田が釈放になりましたね」と西森は言った。

「ええ」と僕は言った。

「思っていたように山田の冤罪が晴れて良かったじゃあないですか」と西森は言った。

「まだ、冤罪が晴れた訳じゃあありませんよ」と僕は言った。

「同じようなことじゃないですか」

「そうですが、別の問題を抱えることになりました」と僕は言った。

「真犯人のことですね」と西森は言った。

「ええ」

「これまで山田を本ボシと思っていた者たちは、面目丸つぶれですからね。捜査するにしても大変でしょうね」と西森は言った。

「そうなんですよね。それにまた声明文を出しましたからね」と僕は言った。

「犯人(ホシ)も調子に乗ってますね。警察を愚弄することを楽しんでいる」と西森が言った。

「それが困るんですよ」

「わかりますよ」

「一刻も早く犯人を捕まえるしかありません」と僕は言った。

「同感です」

 会話はこれで終わった。僕は鞄と剣道の道具を持って、ラウンジから西新宿署を出た。

 家までいつものように、歩いて帰った。