二十一
夏季剣道大会兼関東大会の個人優勝も一段落ついたところで、僕ときくは小児科医院に一ヶ月経ったので行った。そこで、ききょうと京一郎に予防接種を受けさせてきた。そして、次の予約を取って医院を後にした。
父と母はショールームに行っていた。内装をどうするか、実際に見て決めているのだろう。
僕はきくとききょうと京一郎を連れて、新宿を歩いた。京一郎はベビーカーに乗せていた。ききょうは時々歩かせては、ほとんど僕が抱っこしていた。
赤ちゃんでも入れる店を選んで、昼食をとった。
きくは喜んだ。最後に出て来たデザートは、本当に美味しかった。
家に戻ると、門のところに沙由理がいた。
「何でいるんだよ」と僕が言うと、「携帯にかけても出ないからよ」と言った。
きくが「お客さんですか」と訊くので「そんなところだ」と答えた。
「では入ってもらいましょう」ときくは言った。
えー、と僕は思ったが、しょうがなかった。
きくは玄関の鍵を開けて、京一郎をベビーカーから降ろして、玄関口に寝かせると、ベビーカーを畳んで玄関の中に入れた。僕はききょうを抱っこして、玄関に入った。
きくは京一郎を三階のベビー籠に入れて、戻ってくると、ききょうを立たせて、廊下に座らせた。そして、「いらっしゃいませ」と三本指を突いて、沙由理に頭を下げた。
沙由理は「お邪魔します」と言ったが、僕の耳元で「何これ」って言った。
何これって、最悪のことが進行しているんじゃないか、と内心で思っていた。
きくは沙由理をリビングに案内した。その間に、僕はききょうをベビーベッドに寝かせた。外を歩いたから、ききょうは疲れていたので、すぐに眠った。
僕がリビングに下りていくと、きくがお茶を入れていた。
「待った?」と僕が沙由理に訊くと、「三十分ぐらいかな」と言った。
結構、待っているじゃないか、と思った。
「どうぞ」ときくが沙由理にお茶を出した。
きくと沙由理の目があった。火花が散っているようだった。
僕にもお茶を出し、自分の分もテーブルに置くと、きくは座った。
そして、きくは「お初にお目にかかります。あなた様はどなたですか」と訊いた。
その言い方に沙由理はびっくりしたが、「わたしは遠藤沙由理といいます」と答えた後で、「あなたこそ、誰」ときくに訊いた。
「わたしは」ときくが言い出そうとした時、「従妹だよな」と僕は言った。
「そうなの」と沙由理がきくに訊くと、「京介様がそう言うなら、そうです」と言った。
沙由理は違うっていう目を僕に向けてきた。
「本当は誰なの」と沙由理は言った。
きくは「わたしは京介様の従妹で、京介様のお世話係をしています」と答えた。
「えっ」と沙由理が言った。
「お世話係って何」ときくに訊いた。
「お世話係はお世話係です」ときくは答えた。
「さっきの赤ちゃんは、京介の従弟なの」と沙由理は訊いた。
「そうだよ」と僕は言った。
「そうは見えなかったけれど」と沙由理は言った。
「見えなくても、そうなの」と僕は言った。
きくが「遠藤沙由理様は京介様の許嫁ですか」と訊いた。
これには沙由理もびっくりしたようだった。
「そうじゃないけれど、付き合っているわよ」と沙由理は言った。
「付き合っているということは、将来は結婚するっていうことですね」ときくは訊いた。
「そんなことわからないわよ」と沙由理は言った。
「そうですか。付き合っていても、結婚しないことがあるんですね」ときくが言った。
「そんなこと、いっぱいあるでしょ」と沙由理は言った。
「それでは京介様が可哀想ですね」ときくが言った。
僕はいやいやそうじゃない、って言おうとしたが、止めた。この話には口出しができなかったのだ。
「そう思っているの」と沙由理は訊いた。
「はい」ときくは答えた。
「あなたは京介が好きじゃないの」と沙由理が訊いた。
「好きです」ときくは即答した。
「だったら、わたしと京介が付き合っていることは気にならないの」と沙由理が訊いた。
「気にしても仕方がありません」ときくは答えた。
「どうして」と沙由理は訊いた。
「京介様の好きにすればいいと思っていますから」ときくは答えた。
「仮にだけれど、わたしと京介が結婚したら、あなたはどうするの」と沙由理は訊いた。
「このままです」ときくは答えた。
「このままって」と沙由理は訊いた。
「このまま京介様についていきます」ときくは答えた。
「あなた、おかしくない」と沙由理は言った。
「わたしはおかしなことは言っていません」ときくは言った。
「あなたは、京介が誰かと付き合っていても平気なのね」と沙由理が言った。
きくは「はい」と応えた。
「どうしてなの」と沙由理は言った。
「わたしは京介様についていくだけですから」と答えた。
「頭がおかしくなりそう」と沙由理は言った。
そして立ち上がると、「わたし、帰る」と言った。
そして、僕の方をキッと見て、「騙してたのね」と言った。
騙したことなんかしていないけれどな、と思ったが、言ってもしょうがないことだった。
沙由理は、完全に怒って家を出て行った。
今日が土曜日で良かった、と思った。しかし、月曜日は思いやられた。
リビングに戻っていくと、きくはお茶の後片付けをしていた。
「沙由理さんと言うんですね、あの人は」ときくが言った。
「ああ」
「綺麗な人ですね。京介様好みですね、きっと」と言った。
「…………」
「わたしは平気ですよ。京介様が誰と付き合おうと、そして結婚しても」と言った。
「…………」
「わたしは、さっきも言ったように京介様についていくだけですから」と言った。
「分かった」と応えた。
「それならいいです。前に京介様に置いて行かれた時(「僕が、剣道ですか? 4」参照)、わたしは生きている気がしませんでしたから」と言った。
「そうか」
「はい。だから、わたしはどんなことがあっても京介様についていきます。京介様が他の人と結婚しても同じです」と言った。
この時代にそんなこと通用しないんだけれどな、と思ったが、きくに言ってもしょうがないことだった。
月曜日に学校に行くと、早速、僕の机のところに沙由理が待っていた。
「あのきくって女は何なの」と訊いた。
「従妹だよ」と答えた。
「下手な嘘だわ」と沙由理が言った。
「…………」
「まるで、妻気取りだったじゃないの」と言った。
それは否定しない。形式はどうであれ、きくの心の中では、僕の妻の気分だろうことは分かっていた。
「あの子がいるんじゃあ、わたし、あなたの彼女をやっていけないわ」と言った。
「そうか」
「それだけ言いに来たの」と沙由理は言った。
「分かった」と僕は応えた。