十二
「京介様、沙由理さんとのデートは楽しかったですか」
家に入るなり、玄関の廊下の上がり口の所に敷いてある小さなカーペットの上にきくが正座して、そう訊いた。
「楽しいも何も大変だったんだよ」と答えた。
「大変だったとは、何かあったんですか」
いつか、きくとききょうを連れて歩いていた時も同じようなことがあったが、面倒な奴らに絡まれたと話した。
「それは大変でしたね」
きくはあまり大変だったとは思ってはいないようだった。
「でも、京介様のことですから、やっつけてしまったんですよね」
やっぱり大変だったとは思っていなかったんだ。
「そうだよ」
「そうだと思いました。沙由理さんは怖かったでしょうね」
「そうだと思う」
ようやく、きくが立ったので、玄関を上がれた。
「ききょうはどうしている」
「眠っています」
「そうか」
「今日はベビーベッドを頼みました」
「えっ」
僕は「お母さん」と呼んだ。
リビングに母はいた。
「ベビーベッドを頼んだの」
「レンタルよ。昨日頼んでおいたら、もう届いたの。京介の部屋に据え付けてもらったわ」
「そういうの、相談してからにしてくれない」
「相談してたら、頼まなかったわけ」
「そうじゃないけれど」
「必要でしょう」
「そうだけど」
「だったら、ノープロブレムね」
いつも母はこうだ。
とにかく僕は自分の部屋に行ってみた。
思いっきり狭くなっていた。これじゃあ、僕は必然的にきくとベッドで寝なきゃならないが、それでいいと母は考えているんだろうか。一度、訊いてみたくなった。
ベビーべッドの中でききょうは、すやすやと眠っていた。
ベビー籠よりは寝心地は、いいんだろう。
僕は風呂に入った。当然、きくも入ってきた。
あんな争いをやった後なので、疲れていた。きくに背中を流してもらいながら、うとうとしていた。
風呂から上がると、部屋に直行した。ベッドの上に倒れて、そのまま眠ってしまった。
「夕食よ」と言われて、起き上がった。
スウェットの上下を着て、食卓に着いた。
「いただきまーす」と言って、ミートソースのスパゲッティーを食べた。
今日の昼食もパスタだったとは言えなかった。
きくは、ミートソースのスパゲッティーを食べるのは初めてらしく、箸を使っていた。
「これ、凄く美味しいです」ときくは言った。
「そう、良かったわ。あなたは洋食食べ慣れていないでしょ。だから、口に合うのかどうか、迷ったの」
「洋食って何ですか」
「欧米の料理で、日本人好みにした料理のことなんだけれど、欧米って何ですかって言うよね」
「はい」
「ヨーロッパやアメリカのことなんだけれど、今度は、ヨーロッパやアメリカって何ですかって言うよね」
「はい」
「キリがないから、日本料理ではないということだけ、覚えておこうね」
「はい、わかりました」
きくは美味しそうにスパゲッティーを食べていた。
「京介様はいつもこんな美味しいものを食べていたんですね」
「いつもっていうわけじゃないけれど、大抵は美味しいね」
「じゃあ、屋敷で食べていた物はまずかったですか」
答えにくい質問だなと思った。
「それはそれで美味しかったよ」
「そうですか。京介様は嘘が下手ですね」
母が笑った。
「あれ、親父は」
「大学時代の同窓会だって」
「そう、そんなこと言ってなかったのに」
「今日、急に電話がかかってきたのよ。地方に行ってた何とかさんって言う人が昨日、東京に出てきたから、今日、会わないかって誘われたのよ。それで何人かに電話して、連絡がついた人が集まって飲んでいるのよ」
「その人、今日帰らなくて大丈夫なの」
「最終電車で帰るんでしょ」
「そうか」
夕食を終えると部屋に戻った。
ベッドに倒れ込んだ。
しかし、起き上がってパソコンを起動させた。クラウドストレージにアップロードしたデータを整理した。携帯のデータは大容量のSD カードに移し換えた。そして、ジーンズにチェーンでつけているUSBメモリにもコピーした。
それだけをするとパソコンをシャットダウンさせて、ベッドに潜り込んだ。
きくもベッドに入ってきた。
「今日は疲れているからな」ときくに言うと「はい、わかりました」と応えた。
次の日、午前十時頃に、沙由理から携帯に電話がかかってきた。
「ちょっと前に起きたところ」と言うと「そうですか」と応えた。
「昨日は大変だったね」
「そうですね。それで、今日会えませんか」と言ってきた。
「えっ、今日」
「あっ、ご迷惑でしたらいいですよ」
「いや、迷惑じゃないけれど、昨日の今日だから、ビックリしちゃって」
「少し話せませんか」
「分かった。何時にどこに行けばいい」
「そうですね。新宿南口に午後二時ではどうですか」
「新宿南口に午後二時。分かった。駅の改札口付近にいてよ。見つけるから」
「わかりました」
「新宿南口に午後二時に沙由理さんと会うんですね」
「あっ、ビックリした。お前、背後霊か」
「背後霊とはなんですか」ときくが訊いた。
「人の背後に取り憑いていると言われている霊のことだよ」と答えた。
「わたしは、その霊なんですか」
「違うよ、冗談で言ったんだよ」
「でも、今日も沙由理さんと会うんですね」ときくは言った。
「まぁな。話があるからって言うから」
「話があると会うんですか」
「そりゃ、会わなければ話せないだろう」
きくはしばらく何も言わなかった。
やがて「わたしは京介様に沙由理様とはあまり会って欲しくはないです」とはっきり言った。
「きくの気持ちは分かった」
僕はそう答えるのが精一杯だった。