四
次の日から、昼餉はいらないと言って、遠出をするようになった。飯田橋のあたりを歩き回っていたのだ。そして、ついに、二宮権左衛門の屋敷を見付けた。大きな屋敷だった。
寺も近くにあった。
この屋敷に、二宮権左衛門がいる時に襲えば、仕留められる。そう確信した。
相手は僕の掌中にいた。もう、逃げられない。
その夜に、あやめに二宮権左衛門の頭に、公儀隠密が殺されるシーンとその痛みを映し出すように命じた。
二宮権左衛門はこれから、悪夢に怯え続けるのだ。
寒さが厳しくなってきた。
風車の筆学所は繁盛していた。昼餉を挟んだ午前の部と午後の部を設けて、それでも足りずに日替わりで教え子が来るようにしていた。一人あたりの月謝は安くなったが、総収入は増えていた。
毎日来る子は、特別枠にしていた。特別枠には、試験が必要になった。僕は道場をしていた頃(「僕が、剣道ですか? 1」参照)を思い出していた。あの頃は、門弟が増えすぎたので、三ヶ月に一度、選抜試合をさせていた。
大家に頼み込んで、中庭の畑を潰して、そこに仮学習所を建てた。これで、また、大勢の教え子を受け入れられるようになった。
大家は地代を上げようとしたが、仮学習所はこちらの費用で建てるのだから、今まで通りということで押し切った。その時に、この家の借主を僕から風車大五郎に変更した。これも大家に承諾させた。
風車には、借り賃は僕が払うからということで納得させた。とは言っても、今では家のほとんどを風車が使っているようなものだから、納得させるのには苦労した。だが、詭弁では僕の方が上回っていた。
きくのお腹も大きくなってきた。僕からすると、いつ生まれてもおかしくなかった。
近くの取り上げ婆に見てもらったところ、順調なようだ。生まれるのは師走頃だそうだ。陣痛が来たら知らせるように言って帰って行った。
きくのお腹が大きくなってからは、炊事はともかく、洗濯は、ききょうのおむつを除いては、みねがした。僕は自分の下着は自分で風呂に入った時に洗濯した。
その夜、またネズミが天井裏に現れた。今度は五人だった。二宮権左衛門が悪夢から解放されたがったのだ。結構、我慢強かったとも思った。だが、それがさらなる悪夢を生むのだ。
時を止めて、奥座敷であやめと会った。
「また、来ましたね」とあやめが言った。
「今度は二宮権左衛門の手足をもぐ」と僕は言った。
あやめはその言葉に驚いていた。
「奴の持っている組織を潰す」と僕は言った。
「どうしろと言うんです」とあやめが言った。
「まず天井裏のネズミの精気を動けるだけ残して、吸ってこい」と言った。
あやめはすぐにいなくなり、そしてすぐに戻ってきた。
目の色が赤くなっていた。
「私が浄化する」と僕が言い、あやめを抱いた。あやめの目の色が赤から黄色に、そして、グリーンから黒に変わった。
「私が何を考えていたか、分かったな」と僕はあやめに言った。
「はい。あの者たちをつけて行き、組織に戻ったら、組織全員の精気を吸い取ってきます。今度は生かしてはおきません」とあやめは言った。
「そうだ。首領も含めて、忍びの組織を壊滅させる。そうすれば、二宮権左衛門もどうすることもできまい。そして、その光景をあやつの頭に刻むのだ。その時、あやつの精気も吸ってこい。殺すなよ」と僕は言った。
「それほどの多くの者の精気を吸ったら、わたしを浄化するのに時間がかかりますよ」とあやめは甘えるように言った。
「それもいいだろう」
「明日の夜が待ち遠しい」とあやめが言った。
「今日の仕事が先だ」と僕が言うと、「はぁい」と言ってあやめは消えた。
僕は寝室に戻って、時を動かした。
朝餉の後は、風車の教え子たちが続々とやってくる。
読み書きは風車が、算盤はみねが教えた。両方できるので、評判が良かった。みねは算盤だけでなく、お金の数え方や、おつりの渡し方なども教えていた。これも商家の子弟が多くいるので好評だった。
風車は筆学所をやっていけば、これからは安泰だった。
子どもが生まれれば、首が据わるのを待って、二宮権左衛門を討つ。そうすれば、現代に帰らなければならなくなる。
風車とは、後半年ほどの付き合いになる。僕がここを去ることを少しずつ理解してもらう必要がある。
きくとききょうと新たに生まれる子は、現代に連れて行くつもりだった。もう、離れて暮らすことはできなかった。きくとききょうと新たに生まれる子が、ここで生活的に暮らしていくことは可能でも、もう僕の心がそれを許さなかった。もちろん、江戸時代の人を現代に連れて行くのは、タイムパラドックスに抵触する。しかし、そんなこと、もうどうでも良かった。
現代に連れて行った後のことは、その時に考えるしかなかった。
とにかく、二宮権左衛門を討てば、その次の満月の前日は月が赤くなるだろう。そうすれば、満月の日に大川の土手に上がり、定国を天にかざせば、現代に戻れるだろう。
僕は半年先のことを、今考えていることに可笑しくなった。だが、この半年でしておかなければならないことはしておく必要があった。半年なんて、すぐ経ってしまうことを僕はよく知っていた。
その夜、あやめが帰って来た。
時間を止めて、奥座敷で会った。
あやめは興奮していた。躰から妖気が漂っていた。
「五十人の精気を吸ってきましたわ。全員、干からびて死にました。そして、その光景を二宮権左衛門の頭に植え付けても来ました」と言った。
「そうか」と僕は言って、あやめを抱いた。
凄く熱かった。あやめの中に溜め込まれた精気が僕に流れ込んできた。
様々な人の思いが僕の心を苦しめた。この人たちは二宮権左衛門にとっては、ただの駒でしかない。だが、駒でいることが困るのだ。
これで二宮権左衛門はどうすることもできなくなる。精気を吸われたから、登城するのも困難だろう。これから半年かけて、死んでいった者の無念を味わってもらう。二宮権左衛門には、もういい夢は見られなくする。
「こわい人ですね、主様は」とあやめが言った。
「そうか」
「ええ。霊を使って復讐するんですもの」
「そうだな」と僕は応えた。
「後半年ってどういうことですか」とあやめが言った。
「私の考えを読むな、と言ったろ」と僕は言ったが、あやめが僕の考えを読み取ろうとするのは無理もないと思った。
「主様の考えていることは、ある程度はわかるんですが、その先がまるで理解できません」とあやめは言った。
そうだろう。現代をあやめは知らないんだから。
「後半年でここからいなくなるおつもりなんですね」とあやめは言った。
「ああ」
「あやめもついて行きます」
「あやめはついて来れまい」
「いいえ、ついて行きます、どんなことをしても。それでこの霊としてのわたしが消滅しようとも」とあやめは言った。
あやめは深く僕の躰に入り込んできていた。そして、目の色が黒くなった。
「主様がいない世界に霊として残っても意味がありませんわ」とあやめは言って消えた。
僕は、寝室に戻った。そして、時を動かした。