小説「真理の微笑 夏美編」

  真理の微笑 夏美編


 七月最初の土曜日の午後だった。高瀬は「じゃあ」と笑顔で車に乗って、蓼科に向かって出発した。
 夏美は「気をつけて行ってきてね」と言い、高瀬の車が角を曲がるまで手を振っていた。
 
 高瀬は翌日のお昼頃には帰ると言っていた。しかし、午後六時を過ぎても高瀬は戻っては来なかった。行き先は蓼科と言っただけでどことまでは夏美は聞いていなかった。得意先の別荘があり、そこに行くと言っていただけだった。
 月曜日の朝になっても高瀬は帰ってこなかった。
 高瀬は(株)TKシステムズという社員二名だけの小さなソフト会社の社長だった。高瀬がいなくて、会社は混乱していた。ただでさえ、二ヶ月ほど前に、チーフ・システム・エンジニアで専務の北村が交通事故で亡くなっていたのだ。社員は何もすることができずにいた。
 自宅にいた夏美の元に頻繁に会社から電話がかかってきた。高瀬の両親は秋田にいたがそっちにも行ってはいないと言う。夏美には、高瀬が何処にいるのかわからなかった。
 お昼頃に社員の一人の岡崎が、社長はどこに出かけられたのかと訊くので、蓼科と答えたら、事故に遭われているのかも知れませんよ、と言われて、夏美ははっとした。
 電話を切った夏美はすぐに近くの警察署に行った。
 受付の人に「主人がまだ戻ってこないんです」と訴えたら、係の者のところに案内された。対応したのは、若い巡査で「もう少し待ってはどうですか。そのうち、ひょっこりと帰って来るかも知れませんよ」と言った。
「主人はそんな人じゃあ、ありません。きっと何かあったんです。蓼科の警察に問い合わせてもらえませんか」
「蓼科のどこだか、わかりませんか。問い合わせるにしてもどこかわからなければ問い合わせようがないじゃないですか」
「それはそうですが、せめて事故に遭っていないかどうか確認してもらえませんか」
 こんなやり取りをしているうちに、若い巡査はどこかに電話をかけた。そして、電話をかけているうちに、最初は明らかに興奮した表情を見せたが、そのうちそれがしぼみ、「そうですか」と言って切った。
「どうでしたか」
「自動車事故があったそうです」
「それで」
「事故に遭ったのは、高瀬隆一さんではありませんでした」
「もう一台の車はどうしたんですか」
「単独の自損事故です。二台の車がぶつかったのではありません」
「でも、主人が帰ってこないのはおかしいんです。何かがあったに違いないんです。どうか、主人の行方を捜してください」
「それでは、捜索願を出してください」
 そう言って、若い巡査は捜索願に必要なもの、例えば本人の写真などのようなものを持って来るように言った。また、届人の身分証明書と印鑑が必要だとも言った。
 夏美はいったん家に戻ると、高瀬の最近の写真と本人の身長や体重、その他の身体的特徴、血液型、出かけていった時の服装などをメモしたものを持って警察署を再び訪れた。
 また若い巡査が対応して、捜索願を受理すると同時に「生存連絡のお願い」を提出してきた。

 それから半月ほど経った給料日に社員の岡崎と中島が退職願を持ってきた。社長と専務がいなくなった会社で、彼らはすることがなかったのだ。会社にいた夏美はそれを黙って受理するほかはなかった。
 会社は立ちゆかなくなったので、紹介された弁護士によって倒産処理手続を行い、自宅を売却して債務を全て帳消しにした。
 自宅を失った夏美は埼玉にある実家に一人息子の祐一と身を寄せた。

 そんなある日、茅野の警察署から電話があった。警察には実家に身を寄せていることを伝えていた。
「高瀬夏美さんですか」と野太い声が聞こえてきた。相手は刑事の島崎と名乗った。
「はい、わたしですが」
「ご主人の車が見つかったんですわ」
「どこですの」
「茅野の駅近くの駐車場からです」
「茅野ですって」
「ええ、そうです。何かお心当たりはありませんか」
「いいえ、だって主人は蓼科に行くと言っていたんですから」
「蓼科ですか」
「そうです」
「茅野は蓼科の入口のような所なんですわ。普通ならそのまま目的地に車で向かうはずなんですが、何故か駐車場に車を置いて出かけられている。ということは、駐車場からバスかタクシーでどこかに向かったんでしょうな」
「どういうことなんでしょうか」
「さぁ、わかりません。ひょっとしたら、茅野で酒でも飲んで、運転することができなかったのかも知れません」
 刑事とのやり取りは、それから少し続いたが、極めて事務的な事柄だった。