小説「真理の微笑 夏美編」

二-1
 二ヶ月と十日ほど経とうとしていた頃だったろうか、午後四時頃に突然、居間の電話が鳴った。
 夏美は庭にいて洗濯物を取り込んでいた。
 夏美は洗濯物を縁側に置くと、居間に駆け上がり、受話器を取り上げた。高瀬からの電話だと思ったのだ。
「もしもし、川村です」
 川村は、夏美の旧姓だった。
「…………」
「どちら様ですか」と夏美は訊いた。
 相手は何も言わなかった。
 夏美は耳を澄ました。しばらくすると、受話器からは微かに嗚咽するような音を聞いた。
 夏美は「あなたなの」と訊いた。
 相手は黙ったままだった。
「あなたなのね」と夏美は言った。
「…………」
「心配したのよ」
「…………」
「もし、あなただったら……、話せないのだったら……、うん、でも、ああ、でもいいから、何か言って……」
 夏美は何とか、高瀬の声が聞きたかった。
 だが、やはり高瀬は何も言わなかった。
「やっぱり、あなたなのね。今は、話せないのね」と夏美は言った。
「…………」
「だったら、聞いてね」
「…………」
「会社は倒産したけれど、わたしたちは大丈夫よ。こうして実家に戻って元気に暮らしている。祐一もこっちの学校に通っているわ」
「…………」
「捜索願を出したので、警察があなたのことを捜してくれているわ」
「…………」
「あなたが生きていてよかった」
「…………」
「刑事からあなたの車が茅野で見つかったと聞いたわ。どうしてそんな所から……って思ったの。だって、茅野なんて行ったこともないし……。刑事さんが言うにはね、茅野は蓼科への入口のような所なんですって」
「…………」
「だから、悪い想像ばかりしてしまったの。山で遭難したのだとか……」
「…………」
「でも、こうして電話してきてくれたんだから、生きているのよね。良かったぁ」
「…………」
「話せないのは、何か事情があるからなのね」
「…………」
「いいわ、何も言わなくて。どんな事情があるか知らないけれど、こうして電話をかけてきてくれるだけでいい」
 そこまで夏美が話した時、突然、電話が切れた。
「もしもし」と夏美が叫ぶように言っても、「ツー、ツー」という音しか聞こえてこなかった。
 何も話さなかったが、高瀬からの電話だと夏美は確信していた。電話の向こうの息づかい、嗚咽のような音、それら全てが高瀬であることを示しているように思えたのだった。
 だが、何故、突然電話が切れたのかは、夏美にはわからなかった。