小説「真理の微笑 真理子編」

五-1
 家に戻ると真理子は夫の写真を並べることから始めた。明日持って行かなければならないからだ。
 こうして写真を見ていると、以前はよく撮っていたが、最近、あまり撮っていないことがわかった。どうせ形成するのなら、少し若い頃の富岡になればいい、と心のどこかで思っていた。
 それにしても以前はよく撮っていたんだな、と思う。その頃の富岡を思い出すと真理子は涙が出てきた。わたしだけを愛していてくれた富岡がそこに写っているのだ。
 真理子は十年ほど前の富岡の写真の中から、正面、右サイド、左サイドを向いている富岡の写真を見つけ出してきて、それをアルバムから剥がした。

 午前九時に三階のナースステーションに行った。そこにいた看護師に昨日の話をして、封筒と切り取って記入してきた用紙を差し出した。
「ちょっとお待ちくださいね」と看護師は言って、中程にあるデスクのパソコンのキーボードを叩いた。しばらくして、探していたものが見つかったのだろう。
 看護師はこちらにやってきて「富岡修さんですね」と確認した。
「はい」と真理子が答えると、「今日、お持ち頂いた封筒の写真と形成治療承諾書は確かに受け取りました」と言った。
「わたしはどうすればいいのでしょうか」
「今日のところはもう何もありませんから、お帰り頂いて構いません」
「夫の容態はどうなんでしょうか」
「今はICUにいます。それ以上、お答えできません。何かあればご自宅に連絡が行きます。それまでお待ちください」
「そうですか」
 真理子はそれ以上ナースステーションの前にいる理由を失ったので離れた。

 家に戻り、しばらくすると、電話がかかってきた。
 慌てて受話器を取った。
 茅野の警察署からだった。声は、いつかの中年の警察官のようだった。
「一応、現場検証も終わり、車体も調べましたが、何しろ損傷が激しいので、これといった原因はわかりませんでした。車体は科捜研の方に回しましたが、あっちも忙しいですから、事故車両の検分は後回しになるでしょう。自殺でないとすれば、ご主人の運転ミスによるものでしょうな。ブレーキ痕がなかったのは、急にカーブを見て、ブレーキとアクセルを踏み間違えた可能性が考えられますな。とにかく単独の事故として処理をすることになるでしょう」
「そうですか、わかりました」
 真理子はホッとした。
「事故証明書については、保険に入られていれば、その担当者が処理してくれるはずです。ところでご主人はどうされましたか。あのまま茅野の病院にいますか」
「いいえ、転院して今は東京の大学付属病院にいます」
「そうですか。良くなるといいですね」
「ええ、そう願っています」
「用件はこれだけです。では失礼しました」
 電話を切ると、真理子は気が晴れた思いがした。科捜研に回すと言っていたが、どうせ大した事実は見つかるはずがないと思った。
 だが、問題は残っている。
 富岡が生きているということだった。富岡が目覚めれば、ブレーキのことを思い出すかも知れなかった。ブレーキが利かなかったことを話せば、警察だって放っておくはずがない。もう一度、車を詳しく調べるだろう。そうすれば真理子が施した細工が見つからないとは限らない。
 富岡の存在が最大の問題だった。
 しかし、それを今考えていてもしょうがなかった。

 受話器を置いた電話を見ると、赤いランプが頻繁に点滅している。それは留守番電話が入っているということを意味していた。
 電話機の小さな表示板を見た。留守番電話が二十数件も入っているのがわかった。留守番電話を聞くボタンを押し、近くのソファに座った。
「お早うございます。高木です。富岡社長のお宅ですか。社長の姿が見られないので困っています。ご連絡、お待ちしています」
「お早うございます。高木です。富岡社長のお宅ですか。社長、お見えにならないので心配しています。早く、会社に来られるようにお願いします」
「お早うございます。高木です。富岡社長、ご連絡をお待ちしています」
 このような電話が延々と続いて入っていた。
 時計を見上げた。お昼を過ぎた頃だった。今は昼食中だろう。
 午後一時まで待った。そして、受話器を取り上げた。会社に電話をした。
 受付が出た。
「トミーソフト株式会社です。ご用件を承ります」
 真理子はすぐさま「富岡真理子といいます。高木専務をお願いします」と言った。
「富岡真理子様ですね。高木にお繋ぎしますので、しばらくお待ちください」
 しばらく待つまでもなかった。すぐに「真理子さんですか」という高木の声が聞こえてきた。
「もう何度、電話したか知れないくらいです」
「ええ、お昼頃に気付きました」
「月曜日になって、十時過ぎても社長がお見えにならないので電話を差し上げました。いつもの社長ならもうとっくにいらっしゃっているのに、と思いまして」
「ええ。そうですわね」
「それが午後になってもお見えにならないし、こちらには何の連絡もないので、何度もお電話しました」
「申し訳ありません。今まで会社のことをすっかり忘れていたものですから」
「何かあったんですか」
「ええ、富岡が事故を起こしまして、昨日まで茅野の病院にいたのですが……」と言いかけて、話が込み入っているから長くなりそうだと思った真理子は「これから、会社に行きますのでその時に詳しく、お話します」と言った。
 それでも事故と聞いた高木は「社長が事故に遭われたのですか」と言ってきた。
「ええ。そうです」
「そうでしたか。それは大変でしたね。それで連絡がつかなかったんですね」
「申し訳ありません。月曜日の段階で、会社のことを思い出すべきでした。しかし、わたしも気が動転していて、そこまで気が回らず、今日まで……、もう木曜日ですよね、留守電に入っている高木専務からの伝言を聞くまで、全く忘れていました」
「いや、こちらもようやく連絡がつき、ホッとしているんですが、社長の容態はどうなんでしょうか。お見舞いに行った方がいいかと思いますが、何処に入院されているんでしょうか」
「済みません。今はお見舞いに来ていただくことは遠慮します。詳しいことはそちらに行ってお話します」
「わかりました。ではお待ちしています」
 受話器を置くと、真理子はソファから立ち上がった。