小説「真理の微笑 真理子編」

 家に戻ると真理子は夫の写真を並べることから始めた。明日持って行かなければならないからだ。

 こうして写真を見ていると、以前はよく撮っていたが、最近、あまり撮っていないことがわかった。どうせ形成するのなら、少し若い頃の富岡になればいい、と心のどこかで思っていた。

 それにしても以前はよく撮っていたんだな、と思う。その頃の富岡を思い出すと真理子は涙が出てきた。わたしだけを愛していてくれた富岡がそこに写っているのだ。

 真理子は十年ほど前の富岡の写真の中から、正面、右サイド、左サイドを向いている富岡の写真を見つけ出してきて、それをアルバムから剥がした。

 

 午前九時に三階のナースステーションに行った。そこにいた看護師に昨日の話をして、封筒と切り取って記入してきた用紙を差し出した。

「ちょっとお待ちくださいね」と看護師は言って、中程にあるデスクのパソコンのキーボードを叩いた。しばらくして、探していたものが見つかったのだろう。

 看護師はこちらにやってきて「富岡修さんですね」と確認した。

「はい」と真理子が答えると、「今日、お持ち頂いた封筒の写真と形成治療承諾書は確かに受け取りました」と言った。

「わたしはどうすればいいのでしょうか」

「今日のところはもう何もありませんから、お帰り頂いて構いません」

「夫の容態はどうなんでしょうか」

「今はICUにいます。それ以上、お答えできません。何かあればご自宅に連絡が行きます。それまでお待ちください」

「そうですか」

 真理子はそれ以上ナースステーションの前にいる理由を失ったので離れた。

 

 家に戻り、しばらくすると、電話がかかってきた。

 慌てて受話器を取った。

 茅野の警察署からだった。声は、いつかの中年の警察官のようだった。

「一応、現場検証も終わり、車体も調べましたが、何しろ損傷が激しいので、これといった原因はわかりませんでした。車体は科捜研の方に回しましたが、あっちも忙しいですから、事故車両の検分は後回しになるでしょう。自殺でないとすれば、ご主人の運転ミスによるものでしょうな。ブレーキ痕がなかったのは、急にカーブを見て、ブレーキとアクセルを踏み間違えた可能性が考えられますな。とにかく単独の事故として処理をすることになるでしょう」

「そうですか、わかりました」

 真理子はホッとした。

「事故証明書については、保険に入られていれば、その担当者が処理してくれるはずです。ところでご主人はどうされましたか。あのまま茅野の病院にいますか」

「いいえ、転院して今は東京の大学付属病院にいます」

「そうですか。良くなるといいですね」

「ええ、そう願っています」

「用件はこれだけです。では失礼しました」

 電話を切ると、真理子は気が晴れた思いがした。科捜研に回すと言っていたが、どうせ大した事実は見つかるはずがないと思った。

 だが、問題は残っている。

 富岡が生きているということだった。富岡が目覚めれば、ブレーキのことを思い出すかも知れなかった。ブレーキが利かなかったことを話せば、警察だって放っておくはずがない。もう一度、車を詳しく調べるだろう。そうすれば真理子が施した細工が見つからないとは限らない。

 富岡の存在が最大の問題だった。

 しかし、それを今考えていてもしょうがなかった。

 

 受話器を置いた電話を見ると、赤いランプが頻繁に点滅している。それは留守番電話が入っているということを意味していた。

 電話機の小さな表示板を見た。留守番電話が二十数件も入っているのがわかった。留守番電話を聞くボタンを押し、近くのソファに座った。

「お早うございます。高木です。富岡社長のお宅ですか。社長の姿が見られないので困っています。ご連絡、お待ちしています」

「お早うございます。高木です。富岡社長のお宅ですか。社長、お見えにならないので心配しています。早く、会社に来られるようにお願いします」

「お早うございます。高木です。富岡社長、ご連絡をお待ちしています」

 このような電話が延々と続いて入っていた。

 時計を見上げた。お昼を過ぎた頃だった。今は昼食中だろう。

 午後一時まで待った。そして、受話器を取り上げた。会社に電話をした。

 受付が出た。

「トミーソフト株式会社です。ご用件を承ります」

 真理子はすぐさま「富岡真理子といいます。高木専務をお願いします」と言った。

「富岡真理子様ですね。高木にお繋ぎしますので、しばらくお待ちください」

 しばらく待つまでもなかった。すぐに「真理子さんですか」という高木の声が聞こえてきた。

「もう何度、電話したか知れないくらいです」

「ええ、お昼頃に気付きました」

「月曜日になって、十時過ぎても社長がお見えにならないので電話を差し上げました。いつもの社長ならもうとっくにいらっしゃっているのに、と思いまして」

「ええ。そうですわね」

「それが午後になってもお見えにならないし、こちらには何の連絡もないので、何度もお電話しました」

「申し訳ありません。今まで会社のことをすっかり忘れていたものですから」

「何かあったんですか」

「ええ、富岡が事故を起こしまして、昨日まで茅野の病院にいたのですが……」と言いかけて、話が込み入っているから長くなりそうだと思った真理子は「これから、会社に行きますのでその時に詳しく、お話します」と言った。

 それでも事故と聞いた高木は「社長が事故に遭われたのですか」と言ってきた。

「ええ。そうです」

「そうでしたか。それは大変でしたね。それで連絡がつかなかったんですね」

「申し訳ありません。月曜日の段階で、会社のことを思い出すべきでした。しかし、わたしも気が動転していて、そこまで気が回らず、今日まで……、もう木曜日ですよね、留守電に入っている高木専務からの伝言を聞くまで、全く忘れていました」

「いや、こちらもようやく連絡がつき、ホッとしているんですが、社長の容態はどうなんでしょうか。お見舞いに行った方がいいかと思いますが、何処に入院されているんでしょうか」

「済みません。今はお見舞いに来ていただくことは遠慮します。詳しいことはそちらに行ってお話します」

「わかりました。ではお待ちしています」

 受話器を置くと、真理子はソファから立ち上がった。

 

 会社に着いたのは、午後三時頃だったろうか。

 電話を終えた時は、午後一時をそれほど過ぎてはいなかった。それからソファを立って鏡の前に立った。病院に行く時には気付かなかったが、随分と窶れているように見えた。

 しかし、これから行く所は富岡が社長をしている会社なのだ。こんな窶れた顔をしているわけにはいかなかった。

 真理子はシャワーを浴びると、入念に化粧をし、服も質素だが気品のあるものを選んだ。そうこうしているうちに午後二時になった。それから赤いポルシェに乗った。普通なら四十分もかからないで着くところを、真理子は慎重に運転していた。いろいろなことが頭に浮かんできたからであった。のろのろと走るポルシェにクラクションを鳴らすのは勇気がいることだが、何度かクラクションを鳴らされて、自分が制限速度よりも少し遅く走っていることに気付くのだった。

 会社に着くと、受付で、社長室で待つように言われた。

 社長室に入って、来客用のソファに座っているとすぐに高木専務が現れた。

「いやぁ、お待ちしていました」

 高木は明るく声をかけると、真理子は軽く会釈した。高木は真理子の向かい側に座ると「一体、どうなっているのか、わからないものですから、心配していたんですよ」と言った。

 その時、秘書の滝川がお茶を運んできた。そして二人の前に、お茶を置くと会釈をして出て行った。

「ご迷惑をかけて済みませんでした」

 真理子は高木専務に向かって頭を下げた。

「いやいや、そんなことは。頭を上げてください。一体、何があったのか、お話し願えませんか」

「わかりました」

 そう言うと、真理子は土曜日から今日の午前中までのことを話した。全てを話し終えるのに小一時間ほどかかっただろうか。

 高木は話を聞いている途中から、明らかに暗い顔になっていった。

「それじゃあ……」

「ええ、まだ主人は集中治療室にいます。ですから、お見舞いは不要です。来て頂いても会えませんから」

「困りましたね」

 高木は考え込んでいた。いろいろなことが頭を巡っていたのだろう。

「一番は面会の約束をしていた人に、失礼を詫びる連絡をすることです。わたしは社長が来るものと思っていたものですから、約束をすっぽかしたことになっている人たちが何人かいるんです」

「そうですか。それはどなたでしょうか。電話で済むことなら、わたしからお電話しますが」

「そうですね、お詫びに伺う方が丁寧でしょうが、今の話を聞くとやむを得なかったことですから、電話で済ませましょう」

「では、わたしがお詫びをしなければならない人の連絡先を教えてください」

 そう真理子が言うと、高木は「ちょっと待ってください」と言って、社長室を出ていき、秘書の滝川を呼んだ。

「彼女なら社長の行動を把握していますから……」

 真理子は来客用のソファから、社長の座る椅子に移動していた。電話するのなら、そこの方が便利だったからだ。

「さっそくですが、富岡がアポを取って会うことになっていた人を教えてください。そして、電話番号も」

 滝川は、大判のスケジュール帳を取り出して、月曜日から今日の午前中までに会うことになっていた人の名を挙げた。五名いた。

「順番に電話をします。名前と電話番号を言ってください」

 滝川が読み上げる電話番号に電話をし、会うことになっていた人を呼び出してもらうことをした。

「後藤様でしょうか。わたしは富岡真理子といいます。富岡の妻です。月曜日は富岡が大変、失礼しました。お会いするお約束をしていたのにもかかわらず、こちらの都合でキャンセルしてしまい、申し訳ありませんでした。実は……」

 真理子は面会の予定が流れた経緯を説明し謝った。それを五名分、こなした。滝川はもちろんのこと、向かいには高木もいた。

「いやぁ、助かりました。これで一応、こちらの非礼は謝罪しましたので、この件は済みました」

「明日も面会予定が入っているの」と真理子は滝川に訊いた。

「いいえ、特には……」

「それでは来週以降の分はどうなっているの」

「月曜日に二名、火曜日に一名、水曜日に一名会うことになっています」

「わかったわ。今から電話を入れるから番号を教えてちょうだい」

 そう言うと真理子は来週の面会予定についても、断りの電話を次々と入れた。

「再来週以降については、また考えましょう。当面は面会予定は入れないようにお願いします」

 最後の言葉は、滝川に向けられていた。彼女には「もう、いいわ」と言って退室してもらった。

 すでに午後五時を過ぎていた。

「いやぁ、お見事です」と高木が言った。「それでこれからのことですが……」と言いかけたので、「済みませんが、明日にして頂けますか。今日はもう疲れてしまって……」と真理子は言った。

「そうでしょうね。気付きませんで、これは失礼しました」

「いいのよ。わたしには荷が重すぎたわ」

「そんなことありませんよ。ちゃんと社長の代役を果たされましたから」と高木は言った。

 高木は専務で、真理子は会社の役職上は平の取締役だったが、その立場はまるで、真理子が社長のようになっていた。それは真理子が富岡の妻だということもあったが、面会予約の不実行を見事にさばいた真理子の手際の良さも手伝っていた。そのあたりに、真理子の社長の資質が垣間見えたのだった。

「今日はこれで帰ります。疲れましたわ。明日は病院に寄ってから来るので、午前十時過ぎになると思うけれどいいかしら」

「わかりました」

 高木がそう言うと、真理子は社長の椅子から立ち上がった。