小説「真理の微笑 真理子編」

五-2

 会社に着いたのは、午後三時頃だったろうか。
 電話を終えた時は、午後一時をそれほど過ぎてはいなかった。それからソファを立って鏡の前に立った。病院に行く時には気付かなかったが、随分と窶れているように見えた。
 しかし、これから行く所は富岡が社長をしている会社なのだ。こんな窶れた顔をしているわけにはいかなかった。
 真理子はシャワーを浴びると、入念に化粧をし、服も質素だが気品のあるものを選んだ。そうこうしているうちに午後二時になった。それから赤いポルシェに乗った。普通なら四十分もかからないで着くところを、真理子は慎重に運転していた。いろいろなことが頭に浮かんできたからであった。のろのろと走るポルシェにクラクションを鳴らすのは勇気がいることだが、何度かクラクションを鳴らされて、自分が制限速度よりも少し遅く走っていることに気付くのだった。
 会社に着くと、受付で、社長室で待つように言われた。
 社長室に入って、来客用のソファに座っているとすぐに高木専務が現れた。
「いやぁ、お待ちしていました」
 高木は明るく声をかけると、真理子は軽く会釈した。高木は真理子の向かい側に座ると「一体、どうなっているのか、わからないものですから、心配していたんですよ」と言った。
 その時、秘書の滝川がお茶を運んできた。そして二人の前に、お茶を置くと会釈をして出て行った。
「ご迷惑をかけて済みませんでした」
 真理子は高木専務に向かって頭を下げた。
「いやいや、そんなことは。頭を上げてください。一体、何があったのか、お話し願えませんか」
「わかりました」
 そう言うと、真理子は土曜日から今日の午前中までのことを話した。全てを話し終えるのに小一時間ほどかかっただろうか。
 高木は話を聞いている途中から、明らかに暗い顔になっていった。
「それじゃあ……」
「ええ、まだ主人は集中治療室にいます。ですから、お見舞いは不要です。来て頂いても会えませんから」
「困りましたね」
 高木は考え込んでいた。いろいろなことが頭を巡っていたのだろう。
「一番は面会の約束をしていた人に、失礼を詫びる連絡をすることです。わたしは社長が来るものと思っていたものですから、約束をすっぽかしたことになっている人たちが何人かいるんです」
「そうですか。それはどなたでしょうか。電話で済むことなら、わたしからお電話しますが」
「そうですね、お詫びに伺う方が丁寧でしょうが、今の話を聞くとやむを得なかったことですから、電話で済ませましょう」
「では、わたしがお詫びをしなければならない人の連絡先を教えてください」
 そう真理子が言うと、高木は「ちょっと待ってください」と言って、社長室を出ていき、秘書の滝川を呼んだ。
「彼女なら社長の行動を把握していますから……」
 真理子は来客用のソファから、社長の座る椅子に移動していた。電話するのなら、そこの方が便利だったからだ。
「さっそくですが、富岡がアポを取って会うことになっていた人を教えてください。そして、電話番号も」
 滝川は、大判のスケジュール帳を取り出して、月曜日から今日の午前中までに会うことになっていた人の名を挙げた。五名いた。
「順番に電話をします。名前と電話番号を言ってください」
 滝川が読み上げる電話番号に電話をし、会うことになっていた人を呼び出してもらうことをした。
「後藤様でしょうか。わたしは富岡真理子といいます。富岡の妻です。月曜日は富岡が大変、失礼しました。お会いするお約束をしていたのにもかかわらず、こちらの都合でキャンセルしてしまい、申し訳ありませんでした。実は……」
 真理子は面会の予定が流れた経緯を説明し謝った。それを五名分、こなした。滝川はもちろんのこと、向かいには高木もいた。
「いやぁ、助かりました。これで一応、こちらの非礼は謝罪しましたので、この件は済みました」
「明日も面会予定が入っているの」と真理子は滝川に訊いた。
「いいえ、特には……」
「それでは来週以降の分はどうなっているの」
「月曜日に二名、火曜日に一名、水曜日に一名会うことになっています」
「わかったわ。今から電話を入れるから番号を教えてちょうだい」
 そう言うと真理子は来週の面会予定についても、断りの電話を次々と入れた。
「再来週以降については、また考えましょう。当面は面会予定は入れないようにお願いします」
 最後の言葉は、滝川に向けられていた。彼女には「もう、いいわ」と言って退室してもらった。
 すでに午後五時を過ぎていた。
「いやぁ、お見事です」と高木が言った。「それでこれからのことですが……」と言いかけたので、「済みませんが、明日にして頂けますか。今日はもう疲れてしまって……」と真理子は言った。
「そうでしょうね。気付きませんで、これは失礼しました」
「いいのよ。わたしには荷が重すぎたわ」
「そんなことありませんよ。ちゃんと社長の代役を果たされましたから」と高木は言った。
 高木は専務で、真理子は会社の役職上は平の取締役だったが、その立場はまるで、真理子が社長のようになっていた。それは真理子が富岡の妻だということもあったが、面会予約の不実行を見事にさばいた真理子の手際の良さも手伝っていた。そのあたりに、真理子の社長の資質が垣間見えたのだった。
「今日はこれで帰ります。疲れましたわ。明日は病院に寄ってから来るので、午前十時過ぎになると思うけれどいいかしら」
「わかりました」
 高木がそう言うと、真理子は社長の椅子から立ち上がった。