小説「真理の微笑」

七十六
 全てが順調すぎるほど順調だった。
 九月のその日も真理子の焼くパンケーキの香りが心地良く漂ってきていた。
 赤ちゃんは私の車椅子の隣のゆりかごの中で眠っていた。
 この幸せが永遠にでも続いてくれたらいいだろうに、と私は思った。このまま私が富岡となり、そのまま時効*が成立すれば、もしかしたらそれが得られるかも知れない。そんな希望を何となく抱いていた。
 朝日が長くなり、その光は食卓にまで届いていた。薄いカーテンからこぼれる光を浴び、真理子が置いてくれていた朝刊を私は開いた。一面から順に見ていった。
 そこに、六月に甲信越で続いた長雨のために山崩れが起き、蓼科のあたりをハイキング中の男性が、山道から外れた所で、半ば白骨化した死体を発見したという記事が、小さく載っているのを、私は見つけた。そして、その記事を繰り返し読んだ。
 私は喉の渇きを覚え、コーヒーカップを掴もうとしたのだが、その手が驚くほど震えた。
 微笑みながら、「あなたぁ、焼けたわよ」という真理子の声が、もの凄く遠くから聞こえて来る気がした。

*時効……二〇一〇年四月二十七日に改正刑事訴訟法が成立し、殺人など凶悪犯罪の公訴時効の廃止が決まった。この法律は一九九五年四月二十八日まで遡って適用されるが、それ以前、つまり一九九五年四月二十七日以前の殺人など凶悪犯罪には適用されない。 
                                 了