小説「真理の微笑」

十八

 病室に戻って考えた。

 今までは、富岡を知る事を避けてきた。というよりも逃げていた。自分が殺した奴の事など知りたくもなかったからだ。忘れる事ができるなら、そうしたかった。

 しかし、今日のような事があればどうする。相手を知らずして、どう対応、対処できるというのだ。もう、富岡から逃げているわけにはいかなくなった。富岡について、分かる事はできるだけ頭に叩き込んでおかなければならない、そう固く心に誓った。

 いつか、富岡がインタビューを受けている記事を見て放り投げた事を思い出していた。あの記事には、何ショットか富岡の写真が載っていた。

 殺す前の最新の写真は、あれだったかも知れない。見たくはないが見る必要があった。そして、インタビューの記事も。そればかりではない。富岡が載っている記事、書いた本はすべて目を通さなければならないと思った。そして、何よりも彼の手帳が欲しかった。

 

 看護師が来て、採血は手首のところから行った。それから車椅子で、長い廊下を通り、エレベーター室の前まで来ると、下に向かうボタンを看護師は押した。

 放射線科は五階にあった。A、B、C……と表示されていて、C室の前で待たされた。すでに二人ほど椅子に座っていたから、彼らの後になるだろう事は分かった。

 

 レントゲンが終わると病室に戻り、少し微睡んだ。

 靄がかかっていた。足元が見えない。まるで雲の中にいるようだった。そんな中を、夏美は祐一の手を引いてどこかに行こうとしていた。だんだんと遠ざかっていく。私は、必死に夏美と祐一の後を追おうとした。しかし、距離は縮まらない。私は大声で「夏美ぃ」と叫んだ。その自分の叫び声で起きた。

 すると、枕元には真理子がいた。少し驚いた。私が女性の名前を呼んだ事は聞いていたはずだ。だが、彼女は顔色も変えず「譫言を言っていたわよ」と言っただけだった。そして、汗をかいている額を乾いたフェイスタオルで拭いてくれた。

「よほど怖い夢を見たのね。それとも……」

 その先を真理子は言わなかった。何を言おうとしていたのだろうか。

 

 キスをしたが、私の頭はさっきの事で占められていて、いつもよりは淡白だったかも知れなかった。真理子がちょっと変な顔をしたからだった。だが、気にしているわけにもいかなかった。

「会社の方はどうだった」

「大丈夫よ。うまく行っているわ」

「そうか」

「あなたの方は、どお」

 今日、眼科の検査があった事は黙っていた。かわりに「退屈で仕方がない」と答えた。

「良くなっている証拠ね」と、真理子が笑った。

「明日来る時、私の手帳を持ってきて欲しい」と言うと真理子は不思議そうな顔をした。

「どうした」

「今、わたし、って言った」

「それがどうした」

「変ね、いつもは俺って言うのに」

 私の顔がみるみるうちに青ざめていった。顔色を見られたくなかったので俯いた。

「記憶を失っているからだろう」と答えたが、しまったと思った。会話の中で自分の事をどう呼ぶのかについては、考えていなかったからだ。富岡なら、「俺」って言いそうだった。何故、気付かなかったのだろう。いつまでも俯いているのは不自然だったから、顔を上げて「それと、この前、インタビューした記事の載った雑誌も。それと……」と、続けようとしたら、真理子が人差し指で私の唇を封じた。

「気になるのはわかるけれど、無理はだめよ。今は躰の方が大事。早く治してね」

 そう言った後、真理子は少し何かを考えているようだった。

「でも、いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」

 違う! 富岡の手帳は別荘にある。富岡は別荘から忽然と姿を消してしまった、そういう筋書きだった。だから、富岡の別荘から持ち出したものは、富岡を除いては何もないはずだ。普段、持ち歩いている手帳があるとしたら、それは机の上か引出しの中だろう。だが、机の上も引出しもよくは見ていなかった。だから、富岡の手帳が何処にあるかなどは知らなかった。

「いや、手帳は持って出なかった……と思う」

「事故前の記憶が戻ったの」

「いや、そう思うだけだ」

「どうして」

「どうしてって、理由など……」

「だって、東京に戻ろうとしたんでしょ」

 私は首を左右に振った。

「やっぱり、事故前の記憶が戻ったんじゃないの」

「そうじゃない」

「そう。じゃあ、どうして普段着で車に乗ったの」

 どういう事なのだ。真理子が、富岡が普段着だった事を何故知っている?

「あなたが、意識をなくしているひと月の間、わたしは何もしなかったわけじゃないのよ」

「…………」

「警察の人に案内してもらって、事故現場を見に行ったわ。保険の調査員も一緒だった。もちろん、わたしはわたしの車で行ったけれど。事故現場は急カーブの手前だった。そこでブレーキをかけたけれど間に合わなかったのね。ガードレールを突き破って崖下に落ちてしまった……。車は大破してしまったけれど、こうして助かったのが、奇蹟的なくらい」

 私は、真理子の言っている事を一言も聞き逃さないようにしていた。

「それから別荘に行ったわ。合鍵を持っていたからそれで入ったの。警察の人とは事故現場で別れたけれど、保険調査員には、上がってもらってお茶を出したわ」

「…………」

「ジャケットとズボンがクローゼットの中にあったの。ジャケットの中には財布もあったわ。そして、あなたの言っている手帳は机の上だった。だから、東京に戻ろうとしていたんじゃない事は、すぐにわかった」

 分かっていて、真理子は「東京に戻ろうとしたんでしょ」と訊いたのだ。その前に、それが机の上にある事を知っていたにもかかわらず「いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」とも言っているのだ。真理子は、明らかに私を試していた。私の記憶喪失を疑っているのだ。いや、それだけではないかも知れない。

「それにね。不思議なのは、お酒を飲んでいたあなたが、どうして車を運転しようとしたのかなの」

 富岡のコップを拾った記憶が、まざまざと蘇ってきた。確かに富岡は酒を飲んでいた。

「そんな事分からないよ、どうしてなのか。第一、酒を飲んでいた事も覚えていない」

「そうよね、事故前の記憶がないんだものね」と言ったので「ああ」と応えた。

 真理子がそれで納得しているわけではない事は分かっていた。分かっていたが、どうにもならなかった。

「それで手帳はどうした」

 私は、どうにもならない事に目をつぶって、訊きたい事を訊く事にした。

「もちろん、持ってきたわ。財布や服も一緒に」

「それなら、明日、持ってきてくれ」

「いいわ」

 空気が重苦しかった。今はこの状況から解放される事だけを望んでいた。

「一階に売店があったよね」

「ええ」

「車椅子で買物に行けるかな」

「欲しいものがあるのなら、買ってきてあげるわよ」

「あ、いや。自分で行ってみたいんだ。雑誌なんかも選びたいし……」

 私がそう言うと、真理子は「そうよね、退屈だって言っていたものね。いいわ、看護師に訊いてくる」と言って出て行った。真理子が出て行くと、ホッと一息つけた気分だった。

 真理子は、すぐに車椅子と看護師を連れて戻ってきた。

 看護師が車椅子に私が自分で乗るのを確認すると、真理子は包帯だらけの姿に甚平のようなパジャマを着ている私を見て、病室備え付けのクローゼットから薄手のカーディガンを取り出して、私に羽織らせた。一階の売店に行くのだから、人目が気になったのだろう。

 病室を出ると、「あとはわたしが……」と真理子が言い、看護師はナースステーションに戻って行った。

 

 一階の売店は普通のコンビニとあまり変わりなかった。違っていたのは、ドラッグストアのように紙おむつや包帯などのようなものも数多く、何種類も売られている事だった。

 私は角の書籍コーナーに連れて行ってもらって、雑誌を見た。パソコン雑誌は二つしか置いてなくて、いくつかの週刊誌と一緒に買物かごに入れた。

「これでいい」と真理子が訊くので、私は頷いた。レジで会計を済ませると病室に戻った。

 

 パソコン雑誌を開くと、目次の次には、トミーソフト株式会社のワープロソフトの広告がバーンと大きく見開きで出ていた。真理子が後ろから覗き込むように見ていた。

「凄いでしょう」と言う声とともにいい匂いが漂ってきた。何もかも忘れたくなった。

 本来なら(株)TKシステムズの広告として、ここにそのソフトが載っているはずだった。でも、今ここに載っているのはそうじゃない。トミーソフト株式会社のものとして載っている。ここの場所に広告をうつのは、(株)TKシステムズの夢だった。しかし、それは叶わなかった。もはや、永遠に叶わない夢になってしまった。

 だが、一方、表面的に見れば、皮肉な事に私は成功者になっていた。だから、何も考えなければ、その成功者として、私は私の果実を受け取ってもいいはずだった。美しい妻を抱き寄せて、その成功に浸れば済む話だった。

「何を考えているの」

 真理子が後ろから、私の首に腕を巻き付けるようにしながら訊いた。

 私は今考えていた事を振り払い、パラパラとパソコン雑誌のページをめくった。トミーソフト株式会社が売り出したワープロソフトの記事が多くを占めていた。

「こんなにも載っている」と見せると「そうね」と真理子は言った。

 トミーソフト株式会社の広告は今までも見てきた。しかし、雑誌の最後の方に載せているのが関の山だったはずだ。

 トミーソフト株式会社が売り出したワープロソフトの正式名称は「TS-Word」だったが、誰がそう言い出したかは分からないが、すでにトミーワープロで通用していたし、もはやそう呼ばれていた。特集記事も「トミーワープロのすべて」と銘打たれていた。TS-Wordはトミーワープロの横に括弧書きで添えられていた。もう一冊のパソコン雑誌もトミーワープロを特集していた。私が入院している間に、トミーワープロはビジネスソフトのトップの座を駆け上がっていたのだった。

 パソコン雑誌の記事の中にも、私が事故を起こして入院中だという事が書かれていた。書かれてはいたが大した内容ではなかった。

 本当は週刊誌の方が読みたかったが、それは真理子のいるところではやめた。自分の事故の後追い記事を捜している事は、真理子には決して気付かれたくなかったのだ。