小説「真理の微笑 夏美編」

「夏美さぁ~ん」

 干し物を取り込みに庭先に出てきた夏美に、遠くからマイクが向けられて中年の女性リポーターの声が響いた。

「高瀬隆一さんが生きているかも知れないって知ってましたか」

 夏美は答えずに洗濯物を取り込んだ。

 居間に入ってテレビを付ければ、「高瀬隆一さん失踪の謎」として、昼のワイドニュースを賑わしていた。

 夏美の両親はテレビを消そうとしたが、夏美が止めた。そこに富岡修が映し出されたからだった。車椅子に乗った富岡は、妻の真理子に押されながら、家を出て車に向かうのを映していた。

 夏美が見たかったのは、真理子の方だった。顔にモザイクがかけられていたが、美しい事はモザイク越しにもわかった。そして抜群のプロポーションをしていた。女が原因じゃないと書いていたが、結局、女じゃない、と夏美は思った。そして、そう思った途端に哀しくなった。夏美の母がテレビを消した。

 

 テレビも週刊誌も論調は、高瀬隆一が生きている事で一致していた。それは蓼科で発見された死体のDNAが高瀬のものと一致しなかったからである。

 夏美がたまたま見ていたテレビでは、コメンテーターの中に元会社員で現在路上生活しているという人がいた。路上生活は苦しいが、ある日、突然失踪して路上生活を始める人がいる事を熱く語った。だが、夏美は高瀬が路上生活なんかしていない事を知っていた。

 では今の富岡修は誰なのか。この事について真正面から語るコメンテーターはいなかった。コメンテーターに外科医がいて、今の技術は進歩しているから、かなり顔に傷を負っていたとしても元のような顔に整形する事は可能だと力説した。最後に一人、お笑い芸人のコメンテーターが「まさか高瀬隆一さんが顔を整形して富岡修さんになったっていう事はありませんよね」と発言したところで、急にCMに切り替わった。これは明らかにその芸人に誰しもが持っている疑問を言わせたところでCMに入る予定の行動だったのだろう。CM明けに司会者の「番組中に不適切な発言があった事をお詫びします」の言葉で始まったが、どの発言が不適切であったのかは示さなかった。

 

 取材陣に囲まれるようになってから、祐一は遊びに行かなくなった。友達も呼びに来なくなった。夏美は新学期になってからの事が心配になったが、どうする事もできずにいた。

 夏美はパソコンを立ち上げた。この前、メールしてから高瀬からは一度もメールは来なかった。それもそのはずだ。高瀬の事を富岡だとはっきり書いてしまったからだった。しかし、その時は半信半疑だったが、今は確信に変わっていた。

『隆一様

 あなたのメールが欲しい。今、わたしは崩れそうです。家の周りを取材陣が取り囲んでいます。買物に出るのも、洗濯物を干すのも一苦労です。きっと、あなたのところもそうなんでしょうね。

 それにしても富岡修の所有する車に乗っていただけで、事故を起こした後、顔も判別できないあなたを富岡修と決めつけたのはどういう事でしょう。きっと富岡修であるという証拠をあなたが持っていたからでしょう。それは富岡の運転免許証でしょうか。わたしは何故か違うと思うのです。もっとはっきりした証拠をあなたは持っていたに違いないのです。

 実は今までメールに書いてこなかった事が一つあります。それはあなたが大切な物をしまっておく小箱の中から結婚指輪を見つけた事です。今まで結婚指輪を外すなどという事が一度たりともなかった事をわたしは知っています。どんなときにも外さない指輪を置いて蓼科に出かけたのです。だから、わたしはよほどの決意で出かけた事を、その指輪を見つけた時に知ったのです。結婚指輪を見つけたのは、実家に引っ越してきて、しばらくして落ち着いてから、あなたの品物を整理している時にです。最初はあなたのものではないと思いましたが、何度見てもあなたと交わした結婚指輪である事は間違いありませんでした。

 その時です。わたしに恐ろしい想像が浮かんだのです、あなたがどういう訳かはわかりませんが、富岡修さんの結婚指輪を嵌めてしまったのではないかと。多分、普段している結婚指輪をしていない事で、富岡修さんから指輪を抜き取った時に、思わず嵌めてしまったのでしょう。そう考えると、顔が判別つかなくなっても指輪が富岡修さんである事を証明してくれます。そうして、あなたは富岡修さんになってしまったのです。

 これはわたしの当て推量です。笑って読み飛ばしてください。でも、書かずにはいられなかった心の言葉でもあります。

 今、あなたの事も心配なのですが、一番心配なのは祐一のことです。ちょうど、春休みの間なので、学校に行かなくてもいいのですが、明後日から学校が始まります。学校には一緒に行くつもりですが、学校で友達から何を言われるかわかりません。もしかしたら、いじめられるかも知れません。それが心配でなりません。こんな事、あなたにしか書けません。少しでもいいから力をください。わたしと祐一を助けてください。  夏美』

 

十一

 週刊誌の続報は、「富岡修さんのDNAを追え」だった。やはりフリージャーナリストの近藤の記事だった。

 近藤の論旨は単純だった。茅野の自動車事故で顔面がわからなくなるほど損傷を負った男がいて、その男が最新医療の技術で、車の所有者と同じ顔に整形された事。車を運転していた者が、車の所有者とは限らない事。もし、車を運転していた者が車の所有者であれば、その整形された男のDNAを調べれば、自動車の所有者本人かどうか簡単にわかるはずであるという論調であった。簡単に言えば、現在の富岡修のDNAを鑑定しろ、と主張しているのであった。つまり、自動車事故を起こす前と後との富岡修のDNAを調べれば、現在の富岡修が整形する前の富岡修と同じかどうかわかるではないか、と書いているのであった。

 論旨が単純明快だけに、この記事に取材陣は飛びついた。

 富岡修邸を囲む取材陣は、夏美の実家に張り込んでいる取材陣より多くなった。そして、週刊誌を賑わしたのは、真理子の美貌だった。女優に引けを取らないその美貌は、格好の被写体だった。特に彼女の愛車の真っ赤なポルシェに乗る彼女は、目線こそ隠されてはいたものの週刊誌のカラーページに載るほどだった。

 テレビのワイドショーは車椅子に乗る富岡修本人よりも、その車椅子を押す真理子の映像を派手に流した。富岡修も真理子もサングラスをしていたので、テレビの映像ではそのままで流された。

 夏美にもテレビをつければ、当然、その映像が目に飛び込んできた。そこで見る真理子の美しさには溜息が出るほどだった。ほどなく、夏美はテレビを消した。

 テレビは、意図的なのかどうかわからないが、何故これほどの大騒ぎをしているのかを、明確にはしていなかった。近藤が書いた記事の論旨を報じているところもあったが、それが何を意味するのかについては、敢えてぼかしているとしか思えなかった。

 もし、富岡修のDNAが自動車事故の前後で違えば、現在の富岡修は誰かという事になる。誰も言わないが、それは高瀬隆一以外には考えられなかった。その事について、突き詰めて議論するワイドショーはなかった。

 逆に、形成医師をコメンテーターに呼んだワイドショーでは、現在の医療技術で顔が判別できなくなるほど損傷を受けた場合、元の顔に形成する事が可能かという事が訊かれたりしていた。その形成医師は最近の医療雑誌に、某大学病院で実際にそのようなケースで世界でも初となる形成外科手術に成功した例が掲載されていることを紹介していた。

 

 翌週に入ると、近藤の記事を掲載していた週刊誌は、いよいよ何故、富岡修のDNAを鑑定する必要があるのかについて追撃の報道をしてきた。

 長野県警の関係者の話として書かれていたが、その内容は次のようなものだった。

 昨年九月に蓼科で半ば白骨化した死体が発見された。その死体が捜索願が出されていた高瀬隆一さんのものであるかどうか、昨年十月に高瀬さんの残していた物から採取したDNAと発見された死体のDNAを検査したところ不一致だったという事だった。

 すでに茅野の駐車場に高瀬隆一の車が残されている事がわかっているので、それでは高瀬隆一はどこにいったのか、という疑問が残される事になる。

 近藤の記事は、ずばり現在の富岡修が高瀬隆一ではないか、と指摘していた。それには周辺の人物への取材の積み重ねがあって、それを総括すれば、以前の富岡修と比べると現在の富岡の方が優しく丸くなったという事に尽きた。

 そして、近藤は記事のラストに「ぜひ、現在の富岡修氏と自動車事故を起こす以前の同氏のDNAを照合して欲しい。そうすれば全てがわかるだろう。」と結んでいた。

 近藤の記事を受けて、各ワイドショーの論調も富岡修さんのDNAを調べろ、というように統一されてきた。

 

十二

 新学期が始まった。高瀬祐一は、夏美に連れられて報道陣の囲みを破るように、学校に向かった。農道を歩いていて、近くに人がいなくなった時、祐一が「ねえ、お母さん、お父さんは悪い事をしたの」と訊いた。夏美は握っていた祐一の手をより強く握って「そんな事ないわよ」と答えた。その答は夏美が、高瀬から聞きたかったものだった。

 祐一が学校から帰って来ると、「大丈夫だったよ」と言った。そして、すぐに二階の自室に上がっていった。その後ろ姿には、何かがあったのかも知れないが、母親には言うまいとする決意のようなものが感じられた。

 夏美も二階の自室に上がり、今日の祐一の様子を高瀬に伝えようとしたら、高瀬からメールが届いていた。開いてみると、「ダウンロード」と書かれた文字が現れた。その文字にカーソルを合わせてクリックすると、何かがダウンロードされた。そしてダウンロードが終わると、「OK」ボタンをクリックした。すると画面が一瞬暗くなって、高瀬からのメッセージが現れた。

『夏美へ

 これが最後のメールとなる。これまでメールに書いてきた事や書かれていた事は忘れて欲しい。同じように手紙についても忘れて欲しい。高瀬隆一の事は全て忘れて欲しい。  隆一』

 しばらくして、画面が真っ暗になった。

 パソコンを起動しても暗い画面が現れるだけになった。

 前に高瀬から送られてきたパソコン通信ソフトを入れて、起動してみた。すると、それも最初は起動したが、すぐに画面は暗くなった。

 この時、初めて夏美はさっきダウンロードしたソフトは、パソコンデータ消去ソフトだった事に気付いた。

 高瀬は夏美とのメールのやり取りを残したくなかったのだ。おそらく、履歴も含めて、パソコン内の全てのデータが消去されたのに違いなかった。

「ひどいよ、ひどい。隆一さん」

 夏美は畳にへたり込むように座ると、最初はひとしずくの涙が、やがて激しいものとなって流れた。

 夏美は隆一からもらった僅かなメールも失ったのだ。