小説「真理の微笑 夏美編」

 夏美は富岡修と紹介されている写真に見入った。見ていくうちに、何故か鳥肌が立った。記事を読んでいくと、富岡修も昨年、七月に自動車事故を起こして数ヶ月入院していた事が書かれていた。ただ、どこで事故を起こしたのか、そしてそれが七月の何日であるかまでは書かれていなかった。

 しかし、夏美は七月一日に蓼科で自動車事故を起こしたのは、この富岡修だと思った。そう思った時、そんな馬鹿な、と思うような発想が突然閃いた。

 富岡修が高瀬隆一であれば、全て辻褄が合う。

 だが、そうであれば、わからないことが二つある。富岡修が本当は高瀬隆一であったとすれば、本物の富岡修はどこにいったのだろうか。そして、もう一つ、高瀬隆一は何故富岡修の顔をしているのか。

 この二つが夏美にはどうしてもわからなかった。

 いや、それ以上考える事を夏美は拒否したのだった。それは高瀬が警察を恐れていた事とメールで病院の場所が教えられないと書いてきた事と関係している気がしたからだった。

 帰りのバスに揺られながら、あの高瀬の笑顔がもう再び見られないのかも知れないと思うと、涙が出てきた。

 家に着くと、パソコンを立ち上げた。

『隆一様

 もうメールが来なくなってどれほど経つでしょう。読んだという事だけでもいいから伝えて欲しいと書いても、あなたからのメールはありませんでした。

 このメールにも返事はもらえないでしょう。でも、わたしは独り言を書きます。そうしないではいられないのです。

 高瀬隆一さん、今のあなたは富岡修と言われているんですね。富岡修と呼ばれているあなたの顔写真をある雑誌で見ました。いつか、わたしが畑仕事をしている時に見に来ていましたね。その時の顔ははっきりと覚えています。

 顔は変わっていても、目までも変える事はできなかったようですね。あの時に、あなたは、あなたの目をしていました。あなたの目をわたしが見間違うはずがありません。あなたはわたしが見つめ返して来た事に驚き、急いでウインドウを上げました。でも、その間に前を向くあなたの仕草はあなたそのものでした。

 わたしはもう昔のあなたに会えないんですね。それが哀しくて仕方がありません。わたしは何度もあなたに会いたいと書きました。しかし、それができなかったんですね。あなたも、その都度、会えないと書くのは辛かったでしょう。どんなにか辛い事か……。ごめんなさい。わたし、わかっていなかったんです。あなたがどんな状況に置かれているか。だから、わたしを許してください。

 わたしが昔のあなたに会えないのだとしても、あなたはあなたです。あなたの心までも変わってしまったわけではないと信じます。わたしはあなたの姿ではなく、あなたの心を愛しています。それだけは信じてください。わたしにはあなたしかいません。あなたのいない人生なんて考えられません。あなたがどんな姿でもこの世にいる事をありがたく思う事にします。このメールが届くのもあなたがいるからですものね。

 あなたを心の底から愛しています。  夏美』

 

 三月、祐一の終業式も終わり、夏美は庭で洗濯物を干していた。

 そこに三十代ぐらいのハーフコートを着た男性がやって来た。

 頭をちょこんと下げて名刺を差し出してきた。そこには「フリージャーナリスト 近藤昭夫」と書かれていた。

 名刺を受け取ってしまった夏美は苦い顔をしたが、相手は「ちょっと、お話を聞かせてくれませんか」と言った。夏美は「済みません」と言って、次の洗濯物に手を伸ばそうとしていたが、「富岡修さんの事、聞きたくありませんか」という言葉に手が止まった。

 夏美が「富岡修さんなんて知りません。誰かと間違えているんじゃないんですか」と言うと、「いいえ、間違えていません。富岡修という人に心当たりがなければ、高瀬隆一さんならどうですか」と畳みかけてきた。

「高瀬隆一はわたしの夫ですけれど」

「少し、話を聞いてもらえませんか」

「夫の居場所がわかったんですか」

「そうだと言ったら、どうしますか」

「…………」

「きっと、聞いて損な話ではないですよ」

「洗濯物を干し終えるまで、待ってもらえますか」

「いいですよ、いつまでも待ちますよ」

 

 夏美は近藤を座敷には上げず縁側で話をしたが、近藤と話をした事自体が間違いだった事に、数日後に発売された週刊誌を読んで、夏美は思った。

 近藤に話していない事も夏美がしゃべった事になっていたからだった。それをしゃべっていたのは、近藤だった。それをただ夏美は聞いていただけなのだ。しかし、夏美が特に反論しなかったものだから、近藤は、さも夏美が話したかのように書いたのだった。

 記事は「トミーワープロ、爆発的売れ行きの謎」と題されていた。副題は「ソフトウェア会社社長の失踪とトミーワープロの関係」となっていた。

 縁側では、夏美から話を聞くというものではなく、一方的に近藤が今まで調べてきた事を話していたのに過ぎなかった。しかし、その話は夏美が疑問に思っていた事に答える形だったので、夏美は最後まで聞いてしまった。

 記事は、七月一日の深夜、一台の車が蓼科で事故を起こしたところから書き始められていた。事故の被害者はフロントガラスに顔を突っ込んでいて、顔のほとんどが識別できないほどの怪我を負っていた事、それを東京の大学付属病院の最新の技術で車の所有者の顔に整形された事が書かれていた。

 そして、一転して記事はトミーワープロの話になる。それまでのTS-Wordの売れ行きが今一歩だったのが、TS-Word Version3、つまりトミーワープロになって何故こうも売れるようになったのかという事に変わっていった。結論はトミーワープロは、あるソフトウェア会社のプログラムを盗んだものだからだという事になっていた。そのあるソフトウェア会社こそが(株)TKシステムズであると断定していた。そして夏美の話が挿入される。つまり、(株)TKシステムズで発売予定していたワープロソフトが罫線を使った表計算機能を搭載していた事が語られていた。

 そして、話は自動車事故が起こった日に蓼科への入口に当たる茅野の駐車場に高瀬隆一の車が置き去りになっている事を伝えた。と同時に昨年の九月に蓼科で半ば白骨化した死体が発見された事が書かれていた。警察は当初、この死体を高瀬隆一だと考えていたようだが、DNA鑑定したところ別人だとわかった。とすれば、高瀬隆一はどこにいるのか。最後に、顔のほとんどが識別できないほどの怪我を負っていた人物が、最高の技術を持つ東京の大学付属病院で車の所有者の顔に整形されたが、果たして運転していたのは車の所有者だったのか、という言葉で締められていた。次号にも続報が掲載される事が報じられていた。

 この週刊誌が発売された日の午後には、何社かの取材陣が夏美の実家を取り巻くように張り込み出した。