小説「真理の微笑 真理子編」

四十三

 水曜日、真理子は病院に寄った後、会社に行った。

 真理子は社長室に寄らず、直接、開発部に顔を出した。昨日社内を見回った成果だった。部屋の奥のデスクにいた内山を呼んで、データベースソフトに詳しい者を選んでもらった。

 真理子は二人に、病室への行き方を教え、「頼んだわよ」と言った。真理子がついて行かなかったのは、自分が行っても邪魔なだけだろうと思ったからだった。

 二人が開発部を出ていくと、自分も出ていこうとしていた真理子は振り返って、内山に「そう言えば、この間、須藤って人が持ち込んできたソフトがあったわよね。あれはどうなったの」と訊いた。

 内山は「それなら清宮の方が詳しいですよ」と言った。真理子が清宮の方を見ると、待ってました、と言わんばかりの顔をしていた。

「どうかしたの」

「『外字作成・活用ソフト』のことですよね」と清宮が言った。

「そう、それ」

「あれ、『外字フォントもビックリ!』っていう製品になって、もう二週間ほど前に発売されましたよ」

「『外字フォントもビックリ!』なんていう名前付けて大丈夫なの」

「うちは小物のユーティリティーソフトには『何々ビックリ!』っていう製品名で統一しているんですよ」

「そうなのね。で、売行きはどうなの。まさかビックリするほど売れないって言うんじゃないでしょうね」

「そう思うでしょう」

「思うわよ」

「ところが意外に健闘してるんですよね」

「そうなの」

「そうなんですよ。もう五百ロットは売れていて、今月末までには一千ロットは売れると思います」

「どうして」

「トミーワープロのおかげです」

「どういうこと」

「他のワープロソフトを使っているユーザーがトミーワープロに乗り換える場合に、面倒なのが外字フォントなんですよね。それぞれのワープロソフトにはそれぞれの外字フォントが使えるようになっているんですが、その外字フォントファイルには互換性がないんです」

「互換性って、わからないんだけれど、簡単に言えば、あるワープロソフトの外字フォントファイルをトミーワープロで使おうとしてもそのままじゃあ使えないってこと」

「その通りです。そのワープロソフトの外字フォントファイルをトミーワープロで使えるように変換する必要があるんです」

「それが『外字フォントもビックリ!』ならできるのね」

「そうです」

「ビックリ!ものね」

「そうでしょ。トミーワープロ様々ですよ」

 真理子と清宮は笑った。

 

 いったん社長室に真理子は戻ると、手帳の、今日の日付の欄に、午前十時、西野と遠藤、病室へ、『外字フォントもビックリ!』二週間前発売、現在五百ロットは売上、今月末までに一千ロットまで売上か、と書き込んだ。昨日、開発部にも顔を出したのに、『外字フォントもビックリ!』の話が出なかったのは不満だったが、その時には清宮がいなかったからかも知れなかった。

 各部署を回っていたが、臨時のサポートセンターになっている会議室は、電話が鳴りっぱなしだった。

 午後二時頃、経理部を訪れると、高木は不在だった。近くにいた者に「部長はどうしたの」と訊いたら、「良くはわからないんですが、社長から電話があったようですよ。何やら慌てて出かけていきましたから」と答えた。

「そう」と言って真理子は、経理部を出た。でも、今病室には西野と遠藤がいるんじゃないかしら、と思った真理子は、社長室に戻ろうとするのを止めて、もう一度開発部に顔を出した。西野と遠藤は戻っていた。

 

 高瀬が高木に何か頼み事をしたのは、きっとお金に関わることだろう。その時、真理子には夏美のことが過っていた。

 コンビニで買った高瀬の失踪記事が載っている週刊誌は、ショルダーバッグの中に入れていた。それを真理子は取り出してきた。

 週刊誌の記事では、高瀬は(株)TKシステムズの社長だったということだった。高瀬の顔写真も載っていた。なかなかハンサムな男だった。高瀬が失踪する二ヶ月ほど前に、(株)TKシステムズの専務の北村という人が交通事故で亡くなったと書かれていた。専務が亡くなり、社長が失踪した(株)TKシステムズは倒産するしかなかった。記事によれば、夏美とその子どもは、夏美の実家で暮らしているという。その実家を出てくるところを写真は撮っていた。目線は消されていたものの寄り添うようにしていた二人の様子は、不鮮明な写真でもよくわかった。

 これを見た高瀬はどう思うだろう。何とかしようと思うに違いない。

 高木が呼ばれたのは、そのためだったのではないか。高木は現金を用意して、それを高瀬に届けに行ったのではないか。

 そうでなければ、由香里の出産のためなのか。

 疑問は尽きないが、今日のところは様子を見るだけにしようと、真理子は思った。いずれにしても高瀬は籠の中の鳥だった。どこへも飛んでは行けやしなかったのだ。

 

 真理子は、午後六時半頃、病室に入っていった。午後五時に会社を出てから一時間ほどドライブをしていたのだった。真理子はストレスが溜まると、ドライブを良くしていた。それがこの二ヶ月と二週間ほどは、全くしていなかったのだ。

 病室に入ると、真理子はすぐに高瀬とキスをした。こうしてキスを重ねていくと、慣れのようなものが生じているのを感じないわけにはいかなかった。高瀬とキスすることに対する抵抗感はなくなっていた。むしろ、高瀬とわかってからのキスは、真理子の方が積極的になったかも知れなかった。富岡ではない男性とキスをすることになるなど、これまで考えてみたこともなかった。しかし、そういう状況に陥ってみると、不思議とキスがただのキスではなくなっていたのだ。

 唇を離すと、真理子は「今日はどうだった」と訊いた。

「上々だった」と高瀬は答えた。

「そう」

「会社のホストコンピューターに接続する方法を教えてもらったよ」

「それ何」

「ここから会社のコンピューターに接続できるんだ」

「わからない」

「真理子が分からなくてもいいよ。とにかく、パソコン通信できるようにしておいてよかった、ってこと」

「そう」

「今日は、松葉杖を使って立つ練習をしたんだ。これが結構難しくってね。松葉杖で歩けるようになれば、自分でトイレに行けるようになる。そうすればおむつもとれる」

「今はどうしているの」

「行きたくなったら看護師を呼んで、トイレまで連れて行ってもらっている。だけど、いつもすぐ来るとは限らないからね。自分でトイレに行けるようになるまでは外せないかな」

「そうなの」

「ああ」

「明日は設計士の人が来るの」

「いつ頃」

「午前九時。だから、会社にも行けないし、病院にも来られない。家を片づけておかなくちゃいけないから。夜なら別だけれど」

「いいよ、毎日来るのは大変だろう」

「それはそうなんだけれど、家にいてもすることがないから」

「じゃあ、前はどうしていたんだよ」

 そう高瀬に問われて、返事に窮した。以前の自分は一体何をしていたんだろう。

 子どもが欲しくてクリニックに通っていたり、由香里を尾行したり、自分というものを真正面から見つめていなかったような気がした。

「ほんとね。どうしていたのかしら」と真理子は言ったが、本音だった。

 病室を出る前にも、真理子は高瀬とキスをした。一度、唇を離したが、もう一度真理子はキスをした。何故だか、そうしたかったのだった。