小説「真理の微笑」

五十四

 会社に行く日になった。会社移転してすっかり真新しくなった会社にだった。朝から落ち着かなかった。それは当然だった。未知の領域に足を踏み込むのだから。

「大丈夫よ、わたしがついているから」

 真理子は頼もしかった。

「そうだな」

 介護タクシーを呼んで出社した。

「介護用の車を買わなくちゃね」

「そうだな」

 

 会社に入ると、女子社員から花束を渡され、社長室まで色紙で作った花吹雪が舞った。

「退院、おめでとうございます」

 私は床を指さして「後で掃除しとけよ」と冗談を言った。社員はどっと笑った。

 私は会社の中央あたりに設けられたマイクの前に連れられていった。

 マイクが私に渡された。車椅子に座っている私の隣には、真理子がいた。

「今日はありがとう。こんなに歓迎され、そしてみんなの元気な顔が見られてとても嬉しかった」

「よっ、社長」

「ありがとう。私が事故に遭って、不在の間も、みんなで会社をもり立ててくれた事を心から感謝する。ところで、今の私は正直言ってみんなの顔を忘れている。これは事故による記憶障害だ。だから、もし、私が誰かに対して覚えていなくても許してもらいたい。今度の事故で私は九死に一生を得た。この五ヶ月間病院で暮らし、長い時間、考える機会を持った。私の声に象徴されるように、私の人生観も変わった。みんなが私から受ける印象がこれまでと違っていたとしたら、それは私の人生観が変わった事によるものだと思ってもらいたい。私は変わった。いや変わらなければならなかったのかも知れない、たとえ、それが事故によるものだとしても。どうせ変わるのなら、良い方向に変わりたいものだと思っている。さて、社長がいないにもかかわらず、トミーワープロをトップシェアまで引き上げてくれ、そして会社移転までしてくれて、本当に感謝している。みんなが苦労した事は分かっているつもりだ。今度のボーナスを楽しみにしていてほしい」

 拍手と歓声が上がった。

「でも、過剰な期待はなしでお願いする。ほんの心づもり程度だから」

 ブーイングと笑いが起こった。

「私も無事に退院でき、こうして現場に復帰する事ができた。これからは一層、このトミーソフト株式会社を強く大きな会社に育てていきたいと思う。みんなの力を借りて、きっと実現しよう。私の退院の挨拶はこれで終わりにする。最後に、もう一度みんなに感謝する。ありがとう」

 私は歓声の中、マイクから離れた。真理子が耳元で「いい挨拶だったわよ」と言った。

 近寄ってきた高木以下の部下にも、それぞれ握手を交わしながら「君たちにも苦労をかけたね」と労いの言葉をかけた。高木には、後で来てくれ、と言った。

 

 社長室に入りドアを閉めたら、ようやく落ち着いた気分になった。車椅子を移動させながら、皮の手触りを確かめるかのように、ソファの背もたれの上に手を滑らせていた。

 社長室を見て回れるようにぐるりと遠回りに車椅子を押しながら「どお、新しい会社は」と真理子が言った。

「いいじゃないか」と言っても、私は前の会社は知らなかった。

 その時、ノックがして高木が入ってきた。

「早速で済まないが、十一時に会議を開く。各部の部長を会議室に集めてくれ。これまでの報告と今後の方針を伝えたい」

「わかりました。早速、皆に伝えます」

 高木が出て行くと、「もう仕事」と真理子が言った。

「会社に来たんだ。仕事する以外に何をするって言うんだ」

「それもそうね」

 

 午前十一時になった。

 会議室には、経理部の高木、営業部の田中、開発部の内山、総務部の長谷川、販売宣伝部の松嶋、秘書室&広報室の中山が集まった。

「私が出社できない間、会社を切り盛りしてきてくれた皆さんには感謝する。ありがとう」

「そんな……」

「とんでもない」

「当然の事をしたまでですから」

「ありがとう。早速で悪いが、会社の状況を把握しておきたい。経理から順番に現状を報告してもらいたい」

 経理部からは会社の業績についての報告があった。前年比三倍の売上になっているという事だった。それだけトミーワープロが売れたという事だった。営業部からもトミーワープロの注文がまだまだ来ていて、発注が追いつけていないという報告があった。最終的には五万ロットを超えるんじゃないかという見通しを言った時には、全員から「ほお」と言う声が上がった。

 開発部は、現在カード型データベースソフトのβ版を改良している最中であり、発売は来年五月中旬を目指していると言った。また、ユーティリティソフトの文書変換ソフトについては、なるべく多くの機種に対応したいので発売までにはもう少し時間がかかるというので了承した。

 総務部は会社移転に伴う細かな事柄を報告した。

 販売宣伝部はパンフレットと試用品のフロッピーディスクの増産が間に合っていないという悲鳴のような声が出た。それほどトミーワープロが売れているという事だった。

 秘書室&広報室からは、新年会を、会社移転を祝う会と社長の快気祝いを一緒にしてはどうかという提案があった。

「どこかホテルの広間を借りて盛大にしましょう」と中山が言った。もともとトミーソフト株式会社の新年会は取引先や関係各者を集めて行っていたようなので、私は「任せる」とだけ答えた。

 今後の方針については、まずトミーワープロをもっと売り、カード型データベースソフトの発売を成功させる事、そして、次バージョンのトミーワープロのアイデアを年内中に提出する事を伝えた。

 会議は午後一時に終わった。