小説「真理の微笑」

三十七

 昼食をとった後、午後二時からリハビリを行った。今日は平行棒に掴まって立つ練習をした。足腰が弱っているので、十回も繰り返すと息があがった。

 理学療法士は決して否定的な事は言わない。

「いいですよ。今日はこれで十分です。だんだん慣れていきますからね」

 その後は、頭の体操だった。三十分ほど、様々な訓練をした。

 そして、最後は言語聴覚士の検査だった。どの程度声が出せるのかを見るのがポイントだった。私の場合、声帯を損傷しているが、それが治れば元の声とは同じとはいえないにしても声自体を普通に出す事ができると説明された。ただ、気をつけなればいけないのは、囁き声で話す事だと言われた。一見、喉に負担をかけないようにしゃべっているつもりでも、囁き声は喉に負担をかけるしゃべり方なので絶対にしないようにと言われた。

 私は、すでに囁き声に近い小声で何度もしゃべっていたので、その都度喉に負担をかけていたのかと思い知らされた。しかし、こればかりは喉に負担をかけていたとしてもやめるわけにはいかなかった。

 言語聴覚士との面談が終わると、シャワーの時間がきた。

 看護師に、クローゼットからバスタオルとフェイスタオルと肌着と新しいおむつを取り出してもらい、私は車椅子に乗ってシャワールームに向かった。

 いつものようにシャワーを浴びた。二人の看護師から躰の隅々まで洗ってもらった。いつもはそんな事はなかったのだが、性器をスポンジで洗ってもらっている時に勃起してしまった。昼間のあけみの事が頭に浮かんできたのだった。抑えようと思ったが、そうすればするほど性器は硬くなっていった。しかし、看護師はそういう事に慣れているのだろう。まるで気にしていないかのように躰を洗い続けた。

 性器が立ったままだったので、おむつをはく時に少し苦労した。尿パッドで性器を包むようにしておむつをはいた。

 着替えが終わって、車椅子で病室に戻る時、そっと指の匂いを嗅いでみた。

 もうすっかり石けんの匂いがした。

 

三十八

 夕食が済んで、しばらくしたら真理子がやってきた。

 大きな手提げ袋を両手に持っていた。今朝、渡したメモのソフトが入っているのだろう。

「大変だったんだから」という真理子に、「ありがとう、これで助かる」と言いながらキスをした。

「今日はどうだった」

「大変だったわ」

「そう」

「増産するのも大変だけれど、修正プログラムの方も作らなければならないから、工場ではフル回転しているようだけれど追いつかないみたい」

「結構な事じゃないか」

「それはそれで大変なのよ。それに会社の移転もするんだから」

「そうだな。それで、真理子、お前はどうしているんだ」

「あっちこっちの部署を回って、伝書鳩になっているわ」

「そうか。ちゃんとやっているんだ」

「何よ、その言い方」

「この前は、会社に居場所がないみたいな事言ってたじゃないか」

「それは変わらないわよ。わたし、ソフトの事、何にもわからないんだもの」

「別にソフトの事なんか分かる必要はないよ。決断ができればいいんだ」

「なんの事」

「トミーワープロの事だよ。俺がいなくなって、会社はどうしようか、迷っただろうね」

「…………」

「お前なんだろ、ゴーサイン出したの」

 真理子はまじまじと私を見た。

「誰かから聞いたの」

 私は高木から聞いたとは言わなかった。

「いいや、見ていればわかるよ」

「そう」

「ああ、お前には決断力がある。こうと決めたら、きっとやるタイプだ」

 そう言うと、また真理子は私の顔をまじまじと見た。

「なんか、俺の顔についているのか」

「いいえ、でも何か……」と言いながら、探るような目で私を見た。私に何らかの記憶が戻ったとでも思っているのだろうか。

「別に以前の事を思い出したわけじゃないからね」

「そんな事……」と言いながら、まだ私の顔を見ている。前とは感じが違っているのだろう。

「よくやってくれているなぁ、と思っているだけさ」

「…………」

「会社移転したら、次のソフトの事考えなくちゃならないだろ」

「そうね。もう、話は出ているけれどわたしにはついていけなくて……」

「次は、カード型データベースソフトだ」

「ああ、そんな事言ってた。だけど、あなたがこんなふうだからストップしているって」

「そうだね。カード型データベースソフトは俺のアイデアだからね。俺がいなければ進められないだろうね」

「それだったら、早く治して」

「それは医者に言ってくれよ」

「まぁ」と言いながら軽く私の肩を叩いた。

「ちょっと見せてくれ」

 私は真理子が持ってきた手提げ袋を示した。真理子はそれをベッドの上に置いた。

 私は中身を見た。「TS-CDB0.53-1」「TS-CDB0.53-2」というラベルが貼られたフロッピーディスクを取り出した。

「これだ」

「何、それ」

「さっき言っていたカード型データベースソフトの試作品」

「そうなの」

「ああ」

 そう言いながら、未完成のこれをどう完成させたらいいのか考えた。開発部のデータベースに詳しい者に指示するしかないと思った。

 社員名簿を見た。開発部の部長は内山貴之だった。

「内山に言って、データベースに詳しい者を病室に寄こしてくれ。午後はリハビリがあるから午前中がいい。会社に行ったら、すぐ来るように伝えて欲しい」

「急な話ね」

「こういう事は思いついた時にするのがいい。そのうち、引越しなどで忙しくなるから、紛れてしまうのが嫌なんだ。それに俺も忘れないうちに伝えたいし……」

「わかったわ」

 真理子が帰っていくと、私は早速、ラップトップパソコンをベッドのテーブルに置き、さっきのフロッピーディスクをドライブにセットした。

 基本的なところはほとんどできていた。いくつかできていないところもあったが、慣れたプログラマーなら完成させるのは難しくはないはずだった。

 それよりもメニューが(株)TKシステムズの時のままなのが気になった。トミーソフト株式会社に慣れた者がこれを使うとしたら途惑うだろう。それも含めて、ユーザーインターフェイスもトミーソフト株式会社のものに合わせなければならない。そして、最大の問題点であるユーザー登録画面については、入念に変更すべき箇所を書き込んだ。もちろん、どうしてそうするのか分からないように、注意深く指示を書いた。

 私はメモ帳に書き込んだ変更点を点検した。漏れはないはずだ、と思った。

 

 午後十時少し前に、あけみから電話があった。

「どうしたんだ」

「行く前に電話しろって言ったのは、あなたよ」

 店からかけているのだろう。後ろの方から賑やかな声が聞こえてきた。

「忙しいんじゃないのか」

「忙しいわよ」

「だったら……」

「忙しいのに、電話してるんでしょ」

「分かった」

「ねぇ、明日行っていい。ちゃんと奥さんがいない時に行くから」

 明日は、開発部の者が来る事になっている。明日は駄目だった。

「明日は人が来る事になっている」

 そう言うと「だったら、いつがいいの。会いたいんだもの」と言った。

「明日のこの時間に電話してくれ」

「わかったわ。我が儘は言わない、明日は我慢する」

 電話は切れた。それと同時ぐらいに看護師が入ってきた。

 夜の体温と血圧を測り、眠剤を飲むのを確認していった。